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二重価格を考える。

未来の私へのメモとして、二重価格の問題を考える

先日、このテーマについて某新聞社の取材を受けた。この機会に、昨今話題になっている、外国人と日本人とで値段に差をつけるという二重価格の問題を考えて自分なりに文章化して残しておきたい。既に有名人も含めて色々な考えや主張がインターネット上では散乱している。国籍で差をつけるのは憲法違反だ、という主張もあれば、問題ないという主張も見られ、おそらく法的にはグレーゾーンなのだろう。私は法律や憲法に詳しいわけではないので、あくまでも観光学的な立場から考えてみたい。

インバウンド向けの観光政策の歴史を振り返ると、1990年代頃の円高時代は日本は高い国と見られていたことから、外国人が低廉な価格で日本国内を楽しめるように、クーポンなどを配布していた。政府は値下げしてまで外国人に来てほしいと思っていたのだ。なぜか。当時の観光白書には、外国人に日本の実情を知ってもらうことや日本人が外国人と交流することで国際的な感覚を身につけてもらうため、という表現が残っている。もちろん、地域経済の活性化という言葉も確認できるが、きちんと引用するならば、例えば1995年観光白書には「国際観光は、非常に幅広い階層で行われる国際交流であり、各国の相互理解を進める上で大きな意義」、2000年観光白書には「外国人旅行者の訪日の促進と地方圏への誘致は、国際社会の対日理解の増進とともに地方の国際化・活性化に資するものである」と言った言葉が確認できる。

また、1995年の観光政策審議会答申においても、「国際観光は、メディアを通じて外国の社会を断片的に見聞きするのとは異なり、実際の人間像と生活をよりよく理解できる機会を提供する。国の繁栄には成熟した国際感覚が必要であると言われているが、国際観光交流はバランスのとれた国際感覚を育てる絶好の機会である。また、わが国は国際理解が十分得られない傾向もあることから、訪日外国人を飛躍的に増大させ、素顔の日本と日本人を見聞してもらうことは是非必要である」と記されている。

このように、インバウンドの増大に対して、日本人の国際感覚の獲得や外国人の日本に対する理解促進といった目的を見出していた時代があった。そのため、費用を低減させる政策を展開して外国人の日本訪問を期待した。

時代は変わり、2010年代以降、年間の訪日外国人が1000万人を優に超える時代が当たり前になった。すると、国もメディアも、訪日外国人が何千万人だった、1年に消費したお金は日本全国で何兆円だった、という報じ方をするようになった。何千万人もの外国人が何兆円ものお金を消費してくれることが当たり前のようになった今、今度は、お金を持っている外国人からもっとお金を集めようと、日本人価格よりも高い価格を設定する二重価格が議論になり始めた。

日本に来る外国人が日本経済を支えるほどインバウンドが有難い存在から、もっとお金を取っていい対象へと転換されていこうとしている。「円安で外国人にとっては安いのだから」や「お金に余裕のある外国人から徴収すべき」、「外国では二重価格が当たり前」など、色々な理由で賛成する声も少なくない。

ただ、こうした動きは、外国人と日本人(あるいは日本在住者)とを線引きする行為でもあり、差別を助長する可能性も否めない。国際観光というのは、上記に引用した通り、訪問してその地域の伝統文化や生活、国民に触れて他者を知り、理解する行為であるはずだ。そうであるはずの観光という人の営みが、むしろ差別を助長してしまうものになるのであれば、この動きは危険である。

国は2023年の観光立国推進基本計画で、「数を追わない」という方向転換をした。量的拡大によってもたらされたオーバーツーリズムに対する反省であろう。そして重視されたのは消費額である。この観光立国推進基本計画に対しては、実は研究室としてパブコメを提出している。そこでは次のような文章を書いた。

ーーーーパブコメ引用ーーーー
「消費額」「消費単価」という「数値目標」の達成状況のみが注目されてしまうと、観光振興の目的を見失いかねず、留意が必要だと考えます。つまり、消費単価や消費額という数値目標にばかり重点が置かれすぎてしまうのではなく、「日本ならではの地域の観光資源(自然、文化・歴史、地場産業等)を保全・活用したコンテンツの造成・工夫」による訪日客の消費単価向上を目指すという点を是非とも強調してください。そうではないと、民間事業者による安易な「稼ぎ方」を重視した事業や、法外な価格設定が展開されかねません。

日本の観光政策の歴史を振り返ると、戦後間もない頃、外客誘致による日本経済の復興が叫ばれました。当時、日本が経済的に豊かではない状況において、不当な旅行商品の販売等、いわゆる「ボッタクリ」が問題化し、旅行者の保護を目的に様々な法律が作られていました。今回の計画においても、「稼ぐ」という視点が独り歩きしてしまうと、外国人旅行者に不利益を生じさせるような民間事業者のサービスが生じないとも言えません。それは結果的に、日本の評価を下げることにも繋がり得ます。「日本ならではの地域の観光資源(自然、文化・歴史、地場産業等)を保全・活用したコンテンツの造成・工夫」という「稼ぎ方」について、適切にDMOや民間事業者を指導する立場として観光庁には期待します。
ーーーーパブコメ引用終わりーーーー

(ちなみにパブコメ全文はこちら: https://www.nishikawa-tourismlab.com/post/観光立国推進基本計画のパブコメを出しました%E3%80%82

仮に二重価格を採用するのならば、その値段差に見合うサービスを提供しなければならないのではないか。値段に差を付けることが先行して議論されてしまうことは違和感であり、本来ならば、日本人と外国人(国籍ではなく、日本文化に詳しくないけれども興味を持とうとしている人たち向け)では、後者の方向けに、より詳しく日本文化に親しんでもらうための仕組みや新たなサービスを提供するから、結果的にそれが付加価値になり、値段にも差が出ますよ、という思考にならないといけないのではないか。

そうではなく、ただ外国人が多く来ているから彼らからたくさんお金を集めてやろうとか、それで国の文化財を守ろうというのは(本来国の文化財なら、国民が守らないと)、議論のあり方としては変ではないか。仮にも文化財保全の資金を捻出したいのならば、あらゆる方策を議論の俎上に乗せて検討した上でないといけない。

二重価格の見せ方として、外国人を高くするのではなく、日本人を割り引くのが良いという議論もあるようですが、それは本質的な議論ではないように感じます。

外国が二重価格を当たり前にやっているから、という理由もしっくりこない。「外国がやっている」という事実と、「それが適切かどうか」は切り分けて考えるべきであり、後者の議論が抜け落ちていないか。

結局、日本という国は、観光に何を求めるのか。それが問われるポストコロナ時代の今ではないかと思うのです。

日本旅行業協会は旅の力として、「文化、交流、教育、健康、経済」と整理しています。経済の力ばかりでは旅や観光の可能性は歪められてしまう。経済以外の力が遺憾無く発揮され、旅行者がその力を得られるようにするには、地域側は何ができるか。そういう思考を大事にしたい。

観光とは何か。その根本的な議論が抜けている。だからそれぞれの主体が自分の都合で解釈し、歪めてしまう。

観光研究者という立場からは、歴史的な視点や国際比較などの視点から、これに対する方向性を見出さなければならないのだろう。

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