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忘れられない味と忘れられぬ思い出



初めて沖縄おでんの名店“悦ちゃん”を訪れたのは、十八か十九の頃だったと記憶しております。ヨーリーが頻繁に沖縄に来るようになる前のことです。
連れてってくれたのがハヤシさんなのか師匠なのか、この辺は曖昧ですが、鍵のかかったドアをノックし、泥酔した客でないことを確認してからドアを開ける、というスタイルが禁酒法下の秘密酒場のようで、興奮したことを覚えております。
ぎゅうぎゅうに座れば十名ほど座れそうなカウンターと、三畳くらいの座敷があり、三、四人くらいの我々はカウンターで横並びになって、二千円分くらいの沖縄おでんをつつきながら酒を飲みました。

その頃、悦ちゃんは康子さんがママではなく下働きのようにしていて、カウンターの向こうにはやたら貫禄のある老女がデンと構えて常連客たちと談笑しておりました。この方がいわゆる“初代・悦ちゃん”で、この店の創業者にあたる人なのであります。けれど、この初代のママはとにかく動かない。妙齢というか“高齢”だからしょうがないけど、洗い物、配膳、全ては若い康子さんがするわけです。
その頃の康子さんはまだ四十後半か五十に手が届いていたかと思いますが、酔客たちの相手をしながら、実にテキパキとママの手足となって働いておりました。

悦ちゃんのおでんを食べて驚いたのは、あのテビチ(豚足)の柔らかさでした。家で食べるテビチとは別モノで、なるほど本来なら冬限定であるはずのおでんという品目で年中営業できる理由がわかる味でした。
大根もよく出汁が染み、そこにソーセージやら糸コンニャクやらが乗ってて、そして何よりあの空芯菜。いわゆる沖縄で言うウンチェーが緑で彩る。茶色だらけの具材にひときわ映えるウンチェーの緑と味が思い出されます。



初めて悦ちゃんに行ってから二年ほどして、ママが店を引退して康子さんが本格的に店を切り盛りするようになりました。
「ママもう歳だから私が譲り受けたんですよ」
ママの引退のことを聞かれるたびに康子さんは面倒そうにそう答え、詳しい事情は語りたがらなかったし、我々や他の客も詳しくは事情を詮索しませんでした。
とはいえ、実質康子さんが仕切っていたような所があったので、ママが居なくなった影響もなく悦ちゃんのおでんは我々にとって、ありがたい〆の店として機能しておりました。変わったのは老人とはいえ人手が減ったため、康子さんが頼みやすいお客に配膳や下膳などをお願いしたりするようになったことくらいでしょうか。
ワンオペで繁盛店を切り盛りすることの大変さは客も理解しているので、皆協力していた印象があります。かく言う俺も何度か店の電話を取ったり、康子さんに伺いを立てて玄関の鍵を開けたりしたこともありました。


悦ちゃんの面白いのは近所の餃子の名店“新茶屋”から出前を取れたことも挙げられます。新茶屋もまたニンニク一粒が丸ごと入った邪道とも言えるような独特の味で多くのファンを持っていました。悦ちゃんに行けば、おでんと餃子の二つの名店が味わえる、というお得感もありました。
あの頃、新茶屋もまた代替わりをして、支店を閉めて娘たちが切り盛りをするようになっていて、雰囲気が少し綺麗になっていたため、俺は少し足が遠のき、もっぱら悦ちゃんから出前を頼んで新茶屋の味を楽しんでいたことを覚えています。

あぁ、その後にオリオン近くにあったレゲエバーやら、悦のさらに裏の路地にあった知人の店で朝まで飲んだりと、桜坂では随分と管を巻いていた時代がありました。
レゲエバーが閉まったり、知人の店が安里に越したことで悦ちゃんのためだけに桜坂まで脚を伸ばすことが無くなり(歩きたがらない沖縄県民の悪癖ですな)かけていた時に、ヨーリーや矢作さんが悦ちゃんを大層気に入って、また脚繁く通うことになるのだから面白いものです。
矢作さんがあのボルサリーノのシャッポを被り、悦ちゃんみたいな店に入り浸っていること自体がもう、ギャグのようなミスマッチでしたが、それに輪をかけて康子さんが矢作さんを「あら、社長!素敵ですわ社長!」とか呼ぶから、それを嫌がって「俺は社長じゃねぇ!」と怒鳴る矢作さんとのコントのようなやり取りをもう見ることが出来ないのが寂しい限りです。

そんな矢作さんがある日「この辺に花屋はないか?」と言い出し周囲を驚かせました。夜にやってる花屋なんてもっと盛えた夜の街・松山くらいにしかありません。康子さんに聞いても答えは同じです。「なら、この店に花を届けさせてくれ」と言って松山の花屋さんが花を届けに来る間、酒を飲み続けました。
花なんか誰にあげるのか皆が聞きかねていたら、康子さんが「社長もお花なんかプレゼントするなんて隅におけませんねー」と茶々を入れました。それを受けて矢作さんが「歌姫の店に行くのに手ぶらじゃカッコがつかねーんだよ」とまた、実にハードボイルドな台詞をぶっきらぼうに呟いたのがカッコよかったのを憶えています。
矢作さんはその頃、安里にある与世山澄子さんのジャズバーに通っていて、与世山さんのための花を悦ちゃんに出前させていたわけです。よその店の女のための花まで出前させてくれる店。なんて太っ腹なんだ、と康子さんのきっぷのよさにも感動したものです。

与世山さんのお店には、その後、矢作さんやヨーリーと何度か訪ねたことがあります。仄暗く、しかし暖かな照明が灯り、ある程度お客さんが集まるまでは静かなバーで、与世山さんのライブが始まると皆がその声に息を呑む。そんな緊張と弛緩が同居している魔法のような空間でした。
一度、ヨーリーと二人で与世山さんの店に行ったけど、ピアニストが捕まらなくてライブが出来なかったことがあったことを思い出しました。あの時の与世山さんの申し訳なさそうな顔と、ヨーリーの子供のように悔しがる姿が忘れられません。
そんな与世山さんのお店にも、コロナ禍もあって顔を出せずにおります。与世山さんの店のあるビルに住んでいた友人の店にも顔を出していないため、与世山さんがまだ歌ってらっしゃるのかもわからないでおります。しかし、俺の脳裏にはいつも桜坂悦ちゃんのおでんと酒で胃袋を満たし、安里までの道のりを与世山さんの唄を心待ちにしながら歩いた記憶があり、それは一生拭い去ることが出来ない、かけがえの無い思い出なのであります。

ピアニストが来るまでイスに座って待ってる与世山さんの姿がたまらなく神々しかった。唄う姿が素晴らしいのは当然だけど、あの、一人でじっと虚空を見つめている姿が忘れられない。なんなら、伴奏なしでも充分に魅了出来る唄がある。にも関わらず、“ピアノ伴奏”にこだわる姿勢と、ピアニストを待ち続けるその姿に、彼女の一徹に生きてきたであろう信念のようなものが感ぜられた。

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