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「オフ会で感じた絆」”ソロの細道”Vol.21「岐阜」~47都道府県一人旅エッセイ~

以前にこのnoteでも書いたことがあるが、私にとってのインターネットとの繋がりは、高校一年生の頃。今から25年近くも前の話。

原因不明の体調不良によって、夏休みの一か月間を自宅療養となった私は、活路をインターネットに求めた。

そして行き着いたのが、戦国時代好きのユーザーが夜な夜な集まるチャットルーム。

ここでは参加者が思い思いの武将名をハンドルネームとして使用し、当時は”テレホーダイ”というサービスでのネット接続が主流だったので、夜の11時から集まり、多い時には同時接続で10人ほどでチャットを楽しんでいた。

そんなある日。ハンドルネーム「織田信長」さんから申し出があったのが、「皆で岐阜城に行こう、オフ会をしよう」というものだった。

織田信長さんは当時日本最大の信長ファンサイトを運営していて、記憶が確かならば大学の先生だったはずで、だからこそ「信長」を名乗るにふさわしい、と皆が思っていた。

そんな尊敬を集めていた方からの申し出ということで、チャットでは皆で盛り上がり、あっという間に日取りが決まる。

参加者は8人ほど。東京在住組はこれまでに何回か会っているようだが、今回は全国から集まるということで、皆楽しみにしていた。

私はというと、親に頼み込んで、一人旅をさせてもらうことになった。

親も親で、高校の大事な夏をずっと自宅で過ごしていた息子を不憫に思っていたのだろう、承諾してくれたのだ。


沖縄から出ての一人旅というと、小学生の頃に母親の出張に合わせて一人で東京に行ったことはあるものの、今回のように行き先に家族も誰も居ない状況での一人旅は初めて。

とはいえ高校生、まあ大丈夫だろうと考えたのだろうが、今思えばまだまだ一般的ではなかった「ネットでの知り合い」に会うためという目的を良く許してくれたものだ。


こうして17歳の春に、名古屋空港を経由して岐阜へと辿り着いた。

初めて実際に合うチャット仲間たちは、皆気さくでとても優しく、一番年下で沖縄から出てきた私を気遣ってくれて、「チャットの人格と同じで皆素敵な人たちだ」と思ったことを覚えている。


合流初日は皆で夕食を楽しんでカラオケへ行き、そして翌日は朝から皆で岐阜城へ。

信長さんの非常に詳しい解説を皆で聞きながら、岐阜城へと登った。

当時はスマートフォンなんてないし、デジカメもあまり無い中で、その時の写真は残念ながら残っていないが、それでも断片的なシーンは今でも頭の中に残っている。

織田信長さん、徳川家康さん、本多忠勝さん、本多(真田)小松さん、鍋島直茂さん、伊達政宗さん、木村重成さん、そして私。

会話はもちろんハンドルネームで呼び合うわけなので、岐阜城で「信長さん」とか「家康さん」とか呼び合う集団。

今であればまだハンドルネームという存在もだいぶ知られているが、25年前はそんな存在を知っている人は皆無であり、現地の人から見たらもしかすると異様な集団に見えていたかもしれない。

それにしてもあの時は楽しかった。

初めての一人で沖縄に出てきたことや、初めて顔の知らない人たちと会うという要素があったとはいえ、何年たっても岐阜といえばあの時のことを思い出すし、私にとっては青春の大切な一ページである。


ちなみにその後どうなったかというと、大学進学で沖縄から出てきた年がちょうど関ヶ原から400周年ということで、そのチャットルームで「全国オフ会」が開催されることになった。

二年前に岐阜で会った方々の車に乗せてもらい、東京から関ヶ原まで皆で移動。

そして関ヶ原ウォーランドにて、50人以上も集まった集合写真を撮影したのだが、その写真は今でも大切に保管している。

こうして隆盛を誇っていたチャットルームも、管理人である伊達政宗さんがリアル生活で忙しくなって閉鎖することになり、散り散りとなってしまった。


当時の人たちは今どうしているのだろうか。

出張で数年に一度の頻度で岐阜を訪れる度に、そう思う。

と同時に、当時は確実に存在したネットを介した人の絆を感じさせ、ここ二年の希薄となったリアルな人と人との繋がりの中で、より懐かしく輝かしく見えてしまうのかもしれない。


(おまけは墨俣一夜城)

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