嫌な思い出ばっかり

大学生の頃。

「友達がいなかったし学費かかってるし」と思い、遅れることなく大学へ行って授業に出席することが多かった。きっと授業に出るという行為自体が報われるに違いない、と思っていた。

学校へ行く時、入学式の時に本当に一瞬だけ話した気がする人たちが、楽しそうにワイワイと話していた。彼らが夏にどこかへ遊びに行こう、みんなで旅行しようと話しているのが聞こえてきた。「みんな」の中に入りそびれ、彼らの横をすり抜け、大学へひとり歩いていくことは惨めだった。

授業へ出ることが、友達がおらずアルバイトもパッとせず特技もなかった自分を全て救って、免罪してくれると思っていた。つまらない日常や、授業へろくに出ず「単位やばい」と言って楽しそうに日々遊びまわっている人たちへ、一矢報いる何かだと思っていた。

そんなモチベーションでコツコツと出席を頑張って試験を受けても、人のつながりで手に入れたノートを利用したり、出席票を名前を書いて出してもらった人たちと同じような成績であることを後から知った時は「一体なんのために頑張っていたんだろうなぁ」と少し虚無感が襲ってきた。

勉強したくて勉強したり、授業へ足繁く通っていれば、こんなふうに思わなかったのだろうなぁと思う。授業の中身を真剣に学ぶことはせず、その場に座り、言われた内容をノートへメモしていただけだった。私のことなんて眼中になく、日々を楽しく過ごしている人たちへ、一矢報いることができると思っていた。

今思うと本当にバカだなぁと思う。せっかく大学に入れるお金があって、時間を使って受験勉強をして、自由な時間を手に入れたのに。他人と比較したり、人の輪の中にいることだけにしか、関心がなかった。友達がただただ欲しかった。行動してみたつもりでも、自分に興味を持ってくれる人は少なくて、なぜそんな状態になったか考えて改善できなかった自分が少し悲しい。

孤独の中でも自分の特技を磨いたりすることはできたはずなのに、どうして何か一芸を伸ばすとか、好きなことを見つけて時間を使うことができなかったのだろう。そう自問自答するけど「一つのことを極めるより、学生のうちに興味のあることを手広くやってみよう」と思って行動した結果が「何も残らない」「劣等感だけ引きずる」だったのだろう…という結論にたどり着くのみ。

何かを極めたり理解する過程で発生するキツさへの耐性が消えたこと、習得時の脳味噌への負担、集中力が切れたときにすぐ別のことをしてしまう癖。この辺りがじわじわと悪い影響を及ぼして、頑張ろうとすると無意識にストッパーがかかってしまう。

どうしてこうなったんだろうと思考を巡らして、中学生の頃のグループ学習時間のことを思い出した。クラスの皆さんにとっては、グループ学習時間は「クラスメイトと思い出を作る時間」だったようで、ずっと雑談していた。やることはあるのに放置して雑談が続いていた。

そうなると調べ物などの面倒な作業を誰もやりたくないようで、「この作業、よければやってもらっていい?」と依頼されてうなずくしかなかった。ここで拒否しても私は雑談するお友達はいないけど、彼ら彼女らは楽しいお友達との雑談タイムがあるので、断って地獄を味わうよりは引き受けて暇をつぶす方が良いと思った。

作業を依頼したときに見せたほんの少しの申し訳なさそうな態度はすぐに吹き飛んで、みんなでワイワイと雑談がはじまって。「楽しそうでいいなぁ。この人たちが楽しい時間を過ごすために嫌な作業をアウトソースしてやらされるなんて、まるで召使か奴隷みたい」と思って、とても惨めな気持ちになった経験を思い出した。

そういうときに雑談のできる友達が作れるように、日頃から挨拶などを行なって人間関係を作り努力していたのだろうから、今思えば彼らも楽していたわけではないのかもしれない。そうはいっても、罰ゲームで話しかける対象にされたり、友達が欲しくて話しかけたら「お前と話したくない」というオーラを出されて華やかなクラスメイトのところへ早足で駆け寄ったりする経験を思い出すとちょっとしんどい。

勉強をすれば、きっとそんなことはなくなる。勉強をすれば、意地悪してきた人を見返せる。そう信じて勉強してきたけど、勉強の果てに似たような構造の悲しみを繰り返すことになった。勉強のモチベーションが「見返す」だったから、見返せないことが分かってしまって「これ以上頑張れないなぁ」となってしまった。

大学を出れたことはとても幸運で、受験勉強もそこそこ頑張ったので、自分は本当に偉いなって思う。一方で、最初から無理なモチベーションで自分のコンプレックスに向き合わずに行動してきたから、いつまでたっても辛さは緩和されないままで辛いに決まってるじゃんと思った。

働き出してからも、かつて自分が惨めな体験をするきっかけとなった、生活をとにかく楽しんで要領良く生きている人たちを見返したいという気持ちを持っていたから、働く中で無理をしつづけてしまったのかもしれない。見返したいと思っている人たちはもうとっくに人生のステージが変わってしまって、私が悩んでいるようなレベルのことは飛び越えてしまったのだろうなと思うから、自分の周回遅れの悩み事がすごく惨めに思える。

過去に対して見返す、という気持ちをエンジンに頑張ることはできない。悔しさをバネに「頑張るぞ!見てろ!」となる人がいることは知っているけど、過去を思い出して気持ちが沼に引き摺り込まれても「頑張る!」と思えない。過去を思い出すことは自分で自分を殴って邪険にすることと同じだから「これ以上殴らないでください。悪いことはしないので、痛いのはもう勘弁してください」って思ってしまう。

あの頃はもうずっと昔なのに、どうして嫌な思い出は色あせないのだろうと思うと、嫌な思い出を持つ自分というものを個性の一つとして認識してしまっているからかもしれないと思う。いよいよ救いがなくなるというか「魅力がない」の一言でバッサリ切り捨てられる可哀想な人種であることが明るみに出るので、しんどい。

おわり。

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