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育つのか、育てるのか

「農家をしていてお米、大豆と小麦をつくっています」

いまのじぶんをこんな風に説明している。けれど、すこし違和感がある。


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毎年実をつける果物や野に自生しているものでもなければ、農家が種をまかなければ作物は芽を出さない。農家がつくりたいものを、つくりたいように手入れをし、育てて収穫する。つまり作物は農家がつくっているもの、そのとおり。


でも視点を変えてみると、種は種でひとつのいのちなので、彼らは彼らの意思で大きくなっているようにも見える。そんな彼らに直接寄り添って、成長を支えているのは土だ。あとは水とか光とか空気とか、いろいろなそういうものたちだ。


育つのか、育てるのか。正直にいえば、ぼくは育つものだと感じている。だれかの努力を否定しているわけではぜんぜんなくて、あくまで、ぼく個人のなんとなくの感覚のお話。


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さて、この感覚はどこからきているのか。振り返ってみると、その原点はぼくがはじめて農に触れた場所、栃木県のアジア学院にあった。だれがいつ話していたのかも覚えていないけれど、そのだれかがさりげなく言っていた。



「結局のところ、作物は人間ではなくて土が育てるものだからね」


この言葉がずっと心に残っている。当時のぼくは今よりももっと農のことを知らなくて、「あ、そうなんだ」とそのまま受け止めた。


だからそれからずっと「作物は土が育てるもの」だと思っていた。栃木と広島での自給自足の暮らし、それに岡山での研修を経て独立したいま、「土はもちろん大切だけど、それだけでもない。もっといろいろなものが複雑に関わり合っていて、それらがバランスよくいい感じになると、いい感じにのびのびと育つ」という、より広く、そしてよりふわっとした捉え方をするようになった。


これって何かに似ているなと思っていたけど、たぶん人生に似ている。

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どうやったらどんな人生を歩めるのか、全く想像もできない。ぼく自身、農家になろうと決めたのはちょうど2年前くらいのこと。それまでの30年間、農家になるなんて一瞬たりとも考えたことがなかった。ちいさいころはスカイフィッシュやチュパカブラにハマってUMAを追いかけたいと思っていたし、高校生のときには理学療法士になってヨーロッパのサッカーチームに所属したいと思っていたし、大学生のときには国際公務員になって国連で働くんだと思っていた。

でもいまは岡山で農家になっていて、それがすごく良いもので自分にフィットしているなって思う。こういう考え方や価値観も、今までに出会ってきたたくさんの人たち、本に漫画に映画に音楽、経験してきたあらゆる出来事に影響されたもので、それらが積み重なって折り重なって今のぼくをつくっている。ほんとうはきっと、何かをするのに一言で表現できる理由なんて存在しないんだろうね。



話がそれたけど、人も作物も同じひとつのいのちだから、いろいろ複雑な事情があると思う。だから種を紡いでおなじ土地でおなじ方法でつくったとしても、たぶん次の年にはちょっと違うものになるんだ。天気も違うだろうし、土も変わっていて、種そのものも、そして自分自身も変わっているだろうし。そんなことを考えながら、種たちがすくすくと良い感じに育っていけるような、そんな環境を整える技術と感性をもっともっと磨いていきたいなあと思っています。

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