04 ものは買ったらはじまり、器、その火は燃えているか

ものは買って終わりじゃない、はじまり。と、すごい当たり前のことを書いてみる。それは使うという意味でもあり、使うということはいろいろなことを感じ考えはじめるということ。後者のこれがすごいなって思う。

6年前の農業研修中、初めて作家さんがつくった器やカトラリーに毎日のように触れることがあった。それまで自分の人生には一度も存在しなかったものに出会って、純粋にすごく楽しかった。いや一度もは言い過ぎか。少なくとも自分のために、自分で選んで買ったことはなかった。高価なものもあるけれど、いいものだなぁと、つかって初めてわかった。

それからふと、自分でもなにか買ってみたいと思った。これまた生まれて初めてギャラリーで開催されていた器の展示会に行ってみた。雰囲気に飲まれて器を割らないか心配で仕方なかったけれど、コップを二つ買って、とても誇らしかった。ちなみにその思い出のコップは一年も経たずに割れて今はもうない。そういうものを大切に扱える生活レベルではなかった。

でもそれからコップに対する意識が芽生えてきた気がする。持った感じのここが好きとか、なんだか偉そうで自分でも嫌だけど実はここが好きじゃないとか。それまでの30年間、自分は本当にコップを持っていたか?と不安になるくらい、初めて抱く感情の数々に驚いた。

それからマグカップを買い、椀を買い、器を買い、カトラリーを買い。一年に数点ずつだけど自分たちで買ったり、あとは頂いたり。必ずしも知り合いではなくとも、つくった人がわかる、そんなものが増えた。それでまた自分の解像度がすこしだけ上がる。愛着がどんどん増していくものに触れて、本当にすごいものをつくっている人たちなんだなと改めて驚く。食事のたびにじんわりとした温かさが加算されて、七割増しくらいでいい食卓になる。農家が言うのは微妙かもだけど、いい食べものを買うよりもいい器を買うほうが、いい暮らしに直結するかもなとも思う。食べたらなくなっちゃうしね。でもまぁ体には残るし体験は残るし、そうでもないのかな。どっちでもいいか。少なくとも、いい器を買うことがいい食卓を考える上での選択肢として優先的であることはいいことだと思う。

あといい器を扱うと動きも変わる気がする。丁寧に、大切に扱いたいって思う気持ちが、いい所作を生むのかもしれない。

去年から写真集を買ってみている。年に一冊だけど。最近その二冊目が届いて、すごくかっこいい。吉森慎之介さんの「その火は燃えているか」。面白いことに、去年買ったときと、ちょっとした気持ちの違いを感じている。すこし考えてみたけどそれはまだ言葉にはなっていないから書けない。でも写真集もいつか自分の好き嫌いとかがわかってくるのかもなってふと思って、器との付き合い始めを思い出したから書いてみたくなった。ものに触れることで自分がわかってきたり、育ってきてるこの感覚が面白いと思う。定期的に、こういう新しいものをちょっとずつでも取り入れていきたい。

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