15 人間の立体性を取り戻す、noteいったん終わり

人間の立体性という言葉をとても大切に思っている。

大学2年生のとき、4年生の先輩がゼミの卒業合宿で言っていた言葉だ。就職活動を振り返ったときに、ある一定の側面だけで何度も何度も推し量られて、自分はもっと立体的なのに平面でしか見られなくて苦しかった、といった主旨の話だった。いま自分はものすごい話を聞いているんだ、、と思ったし、15年が経った今でも鮮明に覚えている。そして今でも、というか年々その言葉の鮮やかさは増しているようにすら思える。

仕事をしているときの自分は自分の一側面である。あらゆる人は誰かの人の子である。そういうことは当たり前すぎて、逆にもうよくわからなくなるし大事にされなくなる。

禾として独立して5年が経った。禾としての自分と全体の自分と、特に夫婦で営む個人事業主であるがゆえにその境界線は曖昧だと思う。それでも手探りで続けていくうちに、禾で出していく自分はこんな感じかなというものが少しずつわかってきた気がする。

それはそれでいいことだと思う。全人格を投影するのは、受け手もちょっとお腹いっぱいだろうし、自分だってつらい。ただそこからはみ出る部分をどうしたものかなという問いも立つ。自分ってこんなに単調で平面だったかな、と。実現できそうもない適当なアイデアがあったり、あっちこっちに揺れる思考があったり、答えのない迷いも問いが立ってすらいない迷いもある。嫌なことがあれば嫌だと言いたいし、悲しければ悲しいと言いたい。もちろんうれしいことはうれしいと。世界に発する必要はないといえばその通りでノートにひっそりと綴ればいいんだろうけど、なぜか放ちたい気持ちがあるのも事実だ。それは誰かと繋がりたいってことかもしれない。

10月からnoteでいろいろなことを書いていて、これで15個目になった。1個あたり1,000字から2,000字近いものもある。正直まだまだ書ける。テーマを置かずに日記にしたら無限に書ける感覚もある。ここに書いているのは、そういう立体的なことだと言えばだいぶすっきりした説明になる。5年間、もしかしたらもっとずっと前からおざなりにしていたこと。

ただ、書き始めてから思ったのは、これを目にしたくない人もいるんじゃないかなということ。自分のために書いた文章だから雑だし、ろくに調べもせず書いてるし、ちゃんとした配慮ができているとは思わない。むしろ配慮していない文章を書きたいとすら思っている。ただ誰かに嫌な思いはしてほしくない。SNSにポンと投げるとき、ぜんっぜん深く考えてないけどこれ大丈夫かなと、心配になることが増えてきた。嫌なら見ないでとかリンクを押さなければいいとは言えるけど、そういうものでもない気がする。特にインスタグラムは禾のものだから、そこに投稿するのを躊躇することもあった。禾を見てくれてる人でも、自分のうだうだには触れたくない人はきっといる。

それからもうひとつ。「書くこと」が楽しくて、毎日そればっかり考えたり、とにかくカタカタしてしまうようになった。この2週間はずいぶん夜更かしもした。書くことにこんなに中毒性がある、というか自分がこんなに夢中になるとは思わなったな。実際、1日に2〜4個くらい書きたいことが浮かんできて、2つくらいザーッと大半を書いて、1つを書き上げて更新する、みたいなサイクルだった。何を見ても、何をやっても、あーこれ書きたいなーと思ってしまっていた。もはや中毒だ。

それで開始2週間だけど、このnoteの連続更新はいったん終わりにする。書くことは楽しかった、というか楽しすぎた。もう少しだけ閉じた感じで、毎日更新を我慢して、なにかいい形でできたらいいなぁとは思う。メールマガジンも一瞬考えたけど、メール登録までして読みたい人がいるとは思えなかった。というか、誰が読んでいるのかほぼわかってない。それに自分も簡単に読み返せたほうがいい。自分が好きに書いているものは、自分が読んでもおもしろい。というか、自分がおもしろければそれでいいと思って書いている。んー、どうすればいいんだろうな、何かいい方法があったら教えてほしい。

それから書くことでわかったこともいくつかあった。子どもと男親の関係から始めて、不平等な状況での平等な意思決定についてとか、子どもとのじゃれあいから、一対一での関わりと集団での関わりについてとか。頭の中にあった身近な出来事から問いを立てて、書いていくうちにいい問いに替わっていったのもおもしろかった。スマートな人は頭の中でひとりでできるのだろうけど、自分はわりと対話型で誰かと話しながら深めていくことが好きだった。でも書くことで自分ひとりでも問いを進めていけるんだと知れたのもおもしろかった。

それから毎日読んでくれた人はいないだろうけど、たまに反応をもらえたのもうれしかった。何も考えず素直に書いたものを受け止めてもらえることは、熟考や推敲の上に書いたものを受け止めてもらえることと、また全然ちがう良さがあった。それは安心感みたいなものだと思う。

今回も長々と、あっちこっちに好きに書いたな。でもこれは日記みたいなものだし、日記だとしたら多分こんなものでいいんだと思う。本質的に、人に見せる文章よりも、人に見せない文章のほうが人に読ませることがある気もする。いや、気のせいかな。

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