見出し画像

聖霊降臨節第6主日使徒言行録11:4-18「神が清めたもの」説教メモ

11:04そこで、ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた。 11:05「わたしがヤッファの町にいて祈っていると、我を忘れたようになって幻を見ました。大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、天からわたしのところまで下りて来たのです。 11:06その中をよく見ると、地上の獣、野獣、這うもの、空の鳥などが入っていました。 11:07そして、『ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい』と言う声を聞きましたが、 11:08わたしは言いました。『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は口にしたことがありません。』 11:09すると、『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない』と、再び天から声が返って来ました。 11:10こういうことが三度あって、また全部の物が天に引き上げられてしまいました。 11:11そのとき、カイサリアからわたしのところに差し向けられた三人の人が、わたしたちのいた家に到着しました。 11:12すると、“霊”がわたしに、『ためらわないで一緒に行きなさい』と言われました。ここにいる六人の兄弟も一緒に来て、わたしたちはその人の家に入ったのです。 11:13彼は、自分の家に天使が立っているのを見たこと、また、その天使が、こう告げたことを話してくれました。『ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。 11:14あなたと家族の者すべてを救う言葉をあなたに話してくれる。』 11:15わたしが話しだすと、聖霊が最初わたしたちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです。 11:16そのとき、わたしは、『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける』と言っておられた主の言葉を思い出しました。 11:17こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」 11:18この言葉を聞いて人々は静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した。

使徒行傳 第11章
11:4 ペテロ有りし事を序正しく説き出して言ふ、11:5 『われヨツパの町にて祈り居るとき、我を忘れし心地し、幻影にて器のくだるを見る、大なる布のごとき物にして、四隅もて天より縋り下され我が許にきたる。11:6 われ目を注めて之を視るに、地の四足のもの、野の獸、匐ふもの、空の鳥を見たり。11:7 また「ペテロ、立て、屠りて食せよ」といふ聲を聞けり。11:8 我いふ「主よ、可からじ、潔からぬもの穢れたる物は、曾て我が口に入りしことなし」11:9 再び天より聲ありて答ふ「神の潔め給ひし物を、なんぢ潔からずと爲な」11:10 かくの如きこと三度にして、終にはみな天に引上げられたり。 11:11 視よ、三人の者カイザリヤより我に遣されて、はや我らの居る家の前に立てり。11:12 御靈われに、疑はずして彼らと共に往くことを告げ給ひたれば、此の六人の兄弟も我とともに往きて、かの人の家に入れり。11:13 彼はおのが家に御使の立ちて「人をヨツパに遣し、ペテロと稱ふるシモンを招け、11:14 その人、なんぢと汝の全家族との救はるべき言を語らん」と言ふを、見しことを我らに告げたり。11:15 ここに、われ語り出づるや、聖靈かれらの上に降りたまふ、初め我らの上に降りし如し。11:16 われ主の曾て「ヨハネは水にてバプテスマを施ししが、汝らは聖靈にてバプテスマを施されん」と宣給ひし御言を思ひ出せり。11:17 神われらが主イエス・キリストを信ぜしときに賜ひしと同じ賜物を彼らにも賜ひたるに、われ何者なれば神を阻み得ん』11:18 人々これを聞きて默然たりしが、頓て神を崇めて言ふ『されば神は異邦人にも生命を得さする悔改を與へ給ひしなり』

食物規定はユダヤ人の重要な律法であり、旧約聖書には詳細な規定が記されているが、礼拝においてキチンと語られることは稀である。またレビ記の律法の詳細についてなども一般的には知られていない。
しかし、食物規定を詳しく見ていくと、イスラエルの民にどのような思考の癖があるのか、イスラエルの文化と価値観が見えてくるのも事実である。このようなキリスト教では現在重要視されていない律法の重箱の隅をつついてみることも、時にわたしたちに思いがけない発見をもたらしてくれる。

11:05「わたしがヤッファの町にいて祈っていると、我を忘れたようになって幻を見ました。大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、天からわたしのところまで下りて来たのです。 11:06その中をよく見ると、地上の獣、野獣、這うもの、空の鳥などが入っていました。 11:07そして、『ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい』と言う声を聞きましたが、 11:08わたしは言いました。『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は口にしたことがありません。』

11章は10章の物語をペトロ自身が語る体裁をとっている。10章のコルネリウスの回心の物語は使徒言行録の中で極めて詳細に語られているが、それは著者にとって(そして教会にとって)非常に重要な要素を含んでいるからである。
それは、異邦人キリスト者の問題である。割礼を受けず、律法を遵守しない異邦人キリスト者をどう扱うべきなのかは、初期のキリスト教会にとって非常な難問であった。
ここではペトロが神の見せる幻によって、食物規定という律法の「束縛」からの解放が予見される。しかし、『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は口にしたことがありません。』との彼の言葉通り、彼自身はその規定に反することを非常に恐れている。

ガラテヤの信徒への手紙でパウロが面白いことを書いている。
2:11さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。 02:12なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。 13そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。 14しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか
ペトロは異邦人と一緒に食事をしていた(すなわち食物規定や異邦人と食事をしてはいけないなどの律法から自由にふるまっていた)のに、主の兄弟ヤコブの下からやって来た(すなわちエルサレム教会から派遣された)人々を見ると怖れて異邦人から距離をとろうとしたというのだ。 先程の、『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は口にしたことがありません。』との彼の言葉通り、彼が律法という絶対的な規範に強い感情を抱いていることを図らずもガラテヤ書の記述が証明している訳だ。

11:09すると、『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない』と、再び天から声が返って来ました。 11:10こういうことが三度あって、また全部の物が天に引き上げられてしまいました
「とんでもない」と否定するペトロを天の声は『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない』と諫めますがペトロは頑として譲りません。福音書中のイエスとのやりとりを思い出しますね。

さて、ここでは「神の清めた物を、清くないなどと言ってはならない」と語られているのですが、これは何を意味しているのでしょうか。
レビ記11章にはこうある
11:01主はモーセとアロンにこう仰せになった。 11:02イスラエルの民に告げてこう言いなさい。地上のあらゆる動物のうちで、あなたたちの食べてよい生き物は、 11:03ひづめが分かれ、完全に割れており、しかも反すうするものである。 11:04従って反すうするだけか、あるいは、ひづめが分かれただけの生き物は食べてはならない。らくだは反すうするが、ひづめが分かれていないから、汚れたものである。 11:05岩狸は反すうするが、ひづめが分かれていないから、汚れたものである。 11:06野兎も反すうするが、ひづめが分かれていないから、汚れたものである。 11:07いのししはひづめが分かれ、完全に割れているが、全く反すうしないから、汚れたものである。 11:08これらの動物の肉を食べてはならない。死骸に触れてはならない。これらは汚れたものである
この後に魚や鳥、虫についても続くが割愛する。動物には清いものと穢れたものがあり、穢れた動物は食べてはならないと主がモーセとアロンに告げるという物語である。
ここでは「清い」「穢れた」と翻訳されているが、日本語における清さ穢れとはいささかニュアンスを異にする。むしろ「相応しいかどうか」でありあえて意訳すれば、神の御心に「適う」か「適わない」かであると言えよう。
食べてよい獣は「蹄が分かれ反芻する生き物だけである」とされている。ユダヤ人は豚を食べないことが有名であるがこの規定によると豚は「蹄は分かれるが反芻しないから」ということになる。豚が汚いからとか食べると食あたりするからではないのだ。

食物規定について話し始めるとキリがないので(食物規定の「雑さ」には偶像崇拝の禁止が関与していそうだとか、出エジプトのうずらの話には科学的な裏付けがあるようだとか)、要点だけを指摘すれば、「神が清めた物を清くないと言ってはならない」とは、もともと穢れていた豚を神様が清くした(穢れを取り除いた)から食べてよくなったという話ではないのではないか?ということだ。
すなわち豚はそもそも清い存在であったのにイスラエルの民が、またはモーセや祭司たちが「穢れている」と“規定してしまった”だけなのではないか?という疑問が起こってくるということだ。

そもそも創世記にはこうある。
01:24神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。 01:25神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた
神は創造されたすべての動物を良しとされた。
01:29神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。 01:30地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった
人間と動物が食べるものは植物であって、神は彼らに「菜食」を要求している!

しかし
09:01神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。 09:02地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。 09:03動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える
ノアの物語に至ってついに主は「動いている命あるものはすべて食べてよい」と彼らに「譲歩」するのだ。
つまり、神が創造の時点において「良し」とされた規範、秩序はすぐに守られなくなり、神は一度は全てを滅ぼそうとされるが、人間は生まれた時から悪いのだと 思 い 直 し て「何でも食べていいよ」と考えを改めたということだ。
ここでは直後に「肉は命である血を含んだまま食べてはならない。」とだけ掟が告げられているが、そもそもはあらゆる生き物を食べてもよくなったのだと言えよう。
その後、律法が少しずつ整備拡大されるにつれてイスラエルの食物規定は煩雑なものとなっていった。それはバビロン捕囚がきっかけとなったと言われている。異民族の中で生活せざるを得なかった彼らがアイデンティティを保つため、また罪を犯し主に背いたがゆえに亡国の悲しみを味わわなければならなくなったことを悔い改めるため、律法が詳細に規定されるようになっていったのだ。

「全ての聖書の言葉は一字一句霊感によって書かれており、絶対的に正しい神の規範である」とは代々の教会が語り、日本基督教団でも告白している信仰ではあるが、その内容には矛盾があり、優劣があり、時代による変遷があり、時に簡単な事実の誤認があることは忘れられてはならない。
そもそも、命あるものを「殺して」食物として摂取してはならないという「摂理」から始まって、掟を守れない悪人に対する妥協がある。そして、それに続く秩序の再編成こそが主の民の歴史なのであり、聖書の物語なのだということは、キリスト者が常に念頭に置いておくべき事実である。

本日の聖書日課から考察した結論。
他者の持ち物、とりわけ命を奪うことをしないという禁止命令と、神と隣人を愛しこれに仕えるべしという命令以外に規定しなければならない掟などないと私は思う。わたしたち人間が細々と決めた掟のほとんどは「人の言い伝え」なのだ。
律法は確かに神の霊感を借りて作り出した「掟」ではある。しかしそれは、メソポタミアとエジプトに挟まれたカナンの厳しい荒れ野で不平不満ばかり言う聞き分けのない、「うなじの硬い」民を率いていくために作られたものであって、普遍的に適用すべきものではない。
最後にマルコによる福音書の主イエスの言葉を引用します。
2:27そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。 2:28だから、人の子は安息日の主でもある。」
ここでは安息日について語られていますが、安息日規定を含むあらゆる律法の規定は「人間が幸せになるように定められたもの」なのです。つまり、人の子は律法の主でもあるのだと言ってよいでしょう。
過去にあった律法をなかったことにするのは、また別の問題です。そして「律法の一角一点も失われることはない」との言葉は、未来永劫律法の規定に変更はない、という意味ではありません。主の霊を、キリストの精神を身に着け、その霊に従って新しい「掟」を決めることができるのはまさしく「人間」だけなのです。
最後にもう一点追加するならば・・・
14:01信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。 14:02何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。 14:03食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。 (中略)14:06(中略)食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです
わたしたちは主のために制約を課し、主のために掟を守る。すべては主イエスと父なる神に感謝するからである。

祈ります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?