「ここは天川村ではない」
ここに来て3年が経った。
「どうして『ここ』なの?」
移住してきた者には定番の質問である。
そんなの聞かれても困る。
理由なんてない、ただなんとなく。
そういう人は案外多いのではないか。
「ここがここで、私が私だから」
そうとしか言いようがない。
人との出会いだってそうでしょう。
人を愛するのにそれ以上の理由が必要だろうか。
「ここ」とはどこなのか。
「ここ」は「ここ」である。
そうとしか言いようがない。
私が今いる「ここ」とは、「資本主義社会」でも「過疎化する中山間地域」でもなければ、「日本」でも「天川村」ですらない。
「ここ」といえば「ここ」のことだ。
冒頭に掲げた有名な絵画は、ルネ・マグリットの『イメージの裏切り』という作品であり、パイプの絵の下には「これはパイプではない」と書かれている。
そんなことわざわざ書くまでもない。
だってあなたの目の前にあるのはパイプなどではなくただの液晶画面のはずだから。
「ここは天川村ではない」とはつまりそういうことだ。
私はかつて異国の地でフィールドワークをしていた時代に、とある媒体に寄せてそう嘯いたことがある。
今だってそうだ。
「ここ」で私がやろうとしていることは、「持続可能な社会の実現」でも「悠々自適な田舎暮らし」でもなければ、「吉野林業の再生」でも「天川村の地域おこし」ですらない。
「あしたここでどう食っていくのか」
「あさってここでなにを夢みるのか」
「ここ」と「自分」の「あした」と「あさって」、
それが私にとってのアルファでありオメガなのである。
(といってもこれは、他人が私を「移住者/林業従事者/○大卒」などとラベリングをすることに嫌悪を示すものではない。特に、「男前/しっかり者/太っ腹」などのラベルは(それが誤った情報だとしても)大いに貼っていただいて何の不都合もない。)
人は誰しも、各々の「ここ」で「あした」を食いつなぎ「あさって」の夢をみる、その運命から逃れることはできない。
ただその「ここ」と「自分」の範囲と奥行きが人によって異なるというだけのことである。
そして私の場合はそれを、私の顔と腕がとどく広さと深さにしておきたい、ただそれだけのことである。
おひねりはここやで〜