欲望の継承 : 師に就いて学ぶとは
山に道をつくる仕事をしている。
そのすべては「踏査」からはじまる。
その山をどう守るか、どう遺してゆきたいのか。
そのためにはどんな道を入れる必要があるのか。
それをはたして山は許してくれるのか。
現地に赴き、ひたすら登ったり下ったり、行ったり来たりを繰り返しながら、道を、ひいては山全体をデザインする。
それは、もっとも肝腎にしてもっとも難しく、そして、私の「道」のはじまりでもある。
6年前、
大学院生だった私は、教授に連れられて参加したとあるイベントで、たまたまその現場に居合わせた。
この道四十年だというその講師は、老齢に似合わぬ健脚で山をとび歩き、ここはこうだからこうして、あそこでああして、と息をつかせる間もなくそこに一本の「道」を描いてみせた。
もちろん当時の私には、その言っている意味の何一つ理解できなかったが、むしろ、それが何より意味のあることだったのだろう。
それは、今まで培ってきた、文脈から切り離され形式化された知識一般とはまるでちがう、その時その場所でしか価値をもたないような、記述することも再現することも不可能に思える、まさに「生きた知識」であった。
その未知なる境位にただぽかんとするばかりだった私は、まさかその人の拓かんとする「道」につづくことになろうとは、思いもしていなかった。
踏査を学ぶには、「師に就く」ほかない。
なんせ相手は「山」である。
そこには、どう扱えばいいのか「正解」が無いのみならず、「不正解」にはたちまち無慈悲な天罰が下る。
そんな人智を絶したカオスを前にして進むべき「道」を指し示す者、それが「師」である。
そこに立った瞬間、私には見えていないものが、師には見えている。
師に「見えているもの」を自分も見ようとする者、あるいは、師がそこに「実現したいと欲望するもの」を自ら実現しようと欲望する者、それを「弟子」という。
詮ずるに弟子の仕事は一つしかない、
師の「欲望を欲望する」ことである。
踏査にあたって、私は、五感を総動員して、師の「見えている世界」に目を凝らし、頭をトップギアでフルスロットルさせて、師の「先取りする未来」に追いつこうとする。
そこでは、録画もメモも用をなさず、そのつどその場かぎりの勝負で、理解というより「感得」、記憶というより「体認」すべく、全身全霊を投じなければならない。
当然、それでも師の有する知識と経験の深さと厚みに届くということはない。
しかし、その欲望に惹きつけられるうちに、眼高手低な不肖の弟子にも一つわかったことがある。
師もまた、かつてその師の「欲望を欲望した」弟子なのであり、年輪を重ねて今なお、その「欲望の継承」にとり憑かれてやまないのである。
…と格好をつけておいてなんだが、これらは私自身の洞見ではなく、もうひとりの師として(面識もないながら勝手に)仰いでいる内田樹先生のほとんど「受け売り」である。
その真意は、以下に引く師のテキストに言い尽くされており、ここまで冗長な前置きを弄してしまって、文字どおり僭越というほかない。
しかしながらこれは、その師の「欲望を欲望する」師の「欲望を欲望した」私の物語であり、またいつの日か現れるべき、我が欲望の継承者へとつづく「道」とならんことを欲するものである。
おひねりはここやで〜