食っていくための「資本論」
田舎では食えない。
林業では食えない。
これまで何度耳にしたことか。
だったらどうする?
薪、木工、アロマオイル?
山菜、キノコ、ジビエ?
あるいは、カフェ、ゲストハウス、キャンプ場?
はたまた、ブログ、YouTube、SNS、、、?
身のまわりのあらゆる資源を売れ!
持てる知識や能力をお金に換えろ!
やりたいこと、得意なことを収益化せよ!
とにかく、「商品をつくれ!!」
そんなに書くのが好きなら、このnoteだって(もちろんもっと有用なことを書いて)有料化すればええやん!
いわずと知れたマルクス『資本論』の冒頭。
「巨大な商品の集まり」に四方を囲まれ、そのひとつひとつが絶えず差し迫ってくる、「オレを欲望しろ、お前にはオレが欠けている」と。
そんな世界から逃げてきたはずだった。
だが、行き着いた先で、その亡霊は、ぼくを待ち構えていたのである。
「食っていく」とはどういうことか?
商品を売る→金を稼ぐ→商品を買う
これほど商品がありふれた世界では、そこから逃れることはできないようである(それが全てではないにしても)。
それは受け入れよう。
だが、ちょっと待ってほしい。
マルクスを引くまでもなく、商品を生みだして動かしているのは「資本」だ、ということになっている。
つまり、どれだけ商品が現実を支配しているように見えようと、それを可能にしているのは、あくまで資本の力のはずである。
どれだけ学歴が重要視されようと、実際の現場で機能するのは、「学ぶ力」、即ち「知性の運動」でしかないのと同じように、
商品とは、資本の運動における媒介であり、前提であり、そして結果にすぎない。
そこまでは問題ではない。
問題は、我々は資本なんぞ持っていない、この身ひとつ以外に資産を持たない「自由な労働者」であるということである。
一体どうやって商品を生みだせというのだろうか。
ここが分かれ道だ。
即ち、自分自身が商品になるか、あるいは、資本になるか、である。
あるものが「商品」となるためには、人々のあいだで「等価交換」されなければならない。
「等価」ということは、さまざまなもののそれぞれの価値が、ある単一の尺度で計量される必要がある。
そして、それらが「交換」されるためには、それを手に入れることでどんな「ベネフィット」があるのかを、誰にでも理解できるように示されていなければならない。
商品とは、つまり、「誰でもその有用性や価値がわかるもの」でなければならない。
自分自身が商品になる、ということは、その「既知の価値」に自ら還元される、ということを意味する。
彼は、既成の商品規格に準じて自身のスペックを表示し、他の商品と並べられ、比較され、値札を貼られる。
より高値で買い取ってもらおうと思えば、当然「付加価値」が必要となる。
つまり彼は、「誰でもその価値がわかる」知識や能力を、できるだけ多く身につけなければならない。
既知の所有
それが、商品たろうとする彼のむかうところである。
彼が勉強するのは、学歴や資格を得るためであり、
外国語を習得するのは、自国内でのプレゼンスを高めるためであり、
筋トレに勤しむのは、数値としての筋量を上げるためであり、
婚活で狙うのは、自分と同じ価値観のパートナーであり、
流行を追いインフルエンサーに倣うのは、勝ち馬に乗じて「成功」を掴むためであり、
安定を望み計画的に生きるのは、未来を既知にしてしまうためである。
彼は常にある種の欠落感に灼かれている。
物質的豊かさ、社会的成功、悠々自適な生活、、、
ひとつ「既知の価値」を手にいれるやいなや、まだ手にしていない次なる「既知の価値」に向かって、
彼はその欲望を止めることができない。
さて、「壱万円」と刻字された紙切れがそれだけでは紙幣にならないように、ただのお金をいくらかき集めようと、それは資本ではない。
資本は利潤を生みださなければならない。すなわち、かき集められたお金は「運用」されなければならない。
運用された貨幣はまず、生産手段や労働力などの商品と交換される。(G−W)
次の過程で、それら商品は生産的に消費される。つまり、労働力を消耗して、原材料は無くなり、道具や機械は損耗し、かわりに新たな有用性をもつ物が生みだされる。(W−W')
それが商品として流通し、そしてめでたく、利潤を含んだかたちで貨幣に復帰する。(W'−G')
だが、その一連で価値増殖が起こる(G−G')ためには、生産された「新たな有用性」が、「未だ知られざる価値」として人々に認知され、今まで存在していなかった「新たな消費」をも生産する必要がある。
商品の「等価交換」からはその定義上「価値増殖」は起こり得ない。
それが起こるのは、資本の運動過程で「未知の価値」が生み出されるからである。
そして「未知の価値」を生みだす運動それ自体のことを資本と呼ぶのである。
(そして、商品という「既知の価値」の交換から「未知の価値」がいかに生みだされるのかを「労働」から明らかにしようとしたのがマルクス『資本論』にほかならない。)
だから、資本とは貨幣だけに限った話ではない。
自然も、文化も、インフラも、我々ひとりひとりの知識や能力も、「資の本」となる限りは資本である。
そのためにはもちろん、「運用」されなければならない。
つまり、人々のあいだで活発に交換され、生産的に消費され、「新たな有用性」を生みださなければならない。
反対に、占有・退蔵され、自己利益のために消費されれば、その瞬間それは資本から商品に成り下がる。
つまり、それらを「所有」するのではなく、それらを「使う」ことによって、既存の枠組みの外に到達しようと運動する者だけが、自らをも資本となることができるのである。
未知へのアクセス
それが、資本たろうとする彼のむかうところである。
彼が勉強するのは、自らの知的境位を超えた世界をのぞくためであり、
外国語を習得するのは、海の向こうにある異文化にふれるためであり、
修行に励むうちに、今ある度量衡では計測不可能な潜在能力を開花させてしまい、
理解不能なパートナーの価値観にも耳を傾け、
古典を読み師に就くのは、その叡智にふれ、「師との『対話的運動』を通じて、これまでも、そしてこれから先も『彼以外の誰によっても語られることのない』言葉を発するため」(内田、前掲書、119頁)であり、
今為すべきことに集中するのは、未来を白紙のままにしておくためである。
彼は常にある種の欠落感に灼かれている。
「誰もその有用性や価値を知らないもの」どころか、「『誰もその有用性や価値を知らない』ということさえ未だ誰も知らないもの」、即ち「未知の未知」に向かって、
彼はその欲動を止めることができない。
ようやく本題である。
食っていくためには、商品が必要である。
選ぶべき選択肢はふたつ。
自らが商品となって資本に踊らされるか、それとも、資本となって資本と共に踊るか。
さて、資本になるとはどういうことなのか。
それと同様、資本が資本であるのは、それが現に資本として運動しているからでしかない。
別の言い方をすれば、資本だから運動するのではなく、運動しているその「動き」こそが資本なのである。
だから、資本としての人間の価値は、その人間に内在しているのではない。
ましてや、彼のステータスや所有物が、彼に資本としての価値を与えるのではない。
自らが、自らの置かれた場所に於いて、余人を以っては代え難い関係を結び、他の人が引き受けない役割を担い、自分にしかできない仕事を果たし、「なんだか知らないけど食っていけてる」という事実だけが、自らを資本たらしめるのである。
では、資本になるにはどうすればよいのか。
簡単だ。それはね…
…というような入れ知恵を真に受けてはならない。
「学ぶべき(価値が自明の)ことを学ぶ」「経験すべき(価値が自明の)ことを経験する」というのは、言うまでもなく「既知の所有」だからである。
そのような巷に溢れるハウツーに従った瞬間、君は商品への道を突き進むことになる。
「未知へのアクセス」とは、言うなれば、「何を経験させられているのかわからないまま、経験すべき(なんじゃないかなぁという(あくまで)気がする)ことを経験する」ことである。
投資とは、代価を払って「既知の価値」を手にいれることではない(それは商品の購入にすぎない)。
「未知の価値」に向かって、自らの「資」を「投じる」ことである。
故に、「そんなことをしていったい何になるのか」という審問に対して、彼は絶句するほかない。
ただ、苦し紛れに叫ぶのである。
「いいから黙って見ていてくれ」
と。
おひねりはここやで〜