お客様は神様です、即ち「敵」です。
我らが豊葦原の瑞穂の国におはします八百万の神は、もともとその多くが、人間にただ災禍をもたらす存在であった。
…と書き出しておいていきなり撤回するのもどうかと思うが、正確にいえば因果が逆だな。
つまり、人智の及ばぬ「よくわからないもの」に対して、人はとりあえず「神」というラベルを貼って畏れ奉ることにしたのである。
そんな気まぐれに「罰」を与えたまふ神に対して、人々はただ「無事」を祈った。
「無事」とはつまり、何も起こらなくてよい、それが最良ということである。
それは、日本の自然環境が、(何も起こらなくても充分すぎるほど)豊かかつ頑丈であり、その反面、(何も起こらないということが起こり得ないほど)災害が多いということの裏返しであろう。
「ご利益信仰」というのは、京都のような都市で生まれたらしい。
都市というのは、自然を排除しすべて「人為」によって成り立っている(ことになっている)場所であり、そこでは「無事」とは文字どおり良いことも悪いことも何も起こらない。
それでは信仰の有難みがないので、人間に利をもたらす都合のよい神が「発明」されたのだ。
だから神にお参りする際は、「無事」を言祝ぐのが本来あるべき姿であって、神からなにか「利益」を得ようなどと下心を抱くのは不届き千万なのである。
「あれ?そんな感じの『カミ』ならすぐ隣にいるような…?」と思った男性諸君、
その直感は正しい。
君はなぜ、その御方を「カミさん」と呼ばずにはいられないのか。
一説によればその由来は、気性の激しい女神「山の神」だとされている。
閑話休題。
そんな神は、人類共通にして最大の「敵」にちがいないのだが、もちろん人間ごときが「敵う」相手ではない。
それゆえ、打ち勝つでもひれ伏すでもなく、
「鬼神を敬して之を遠ざく」
即ち、敵対せぬよう適当な距離感をたもつべきとされてきた。
「敬して遠ざける」とは要するに、人智の及ばぬ「よくわからないもの」に対しては、自前の物差しを当てたり引出しに収納したりして、安易に「わかった」気になってはならないということである。
「よくわからないもの」を「よくわからないまま」にしておく。
孔子曰く、之を「知と謂ふべし」と。
話はここでなんと前回とつながる。
人間が欲望するのは、この「よくわからないもの」である。
だから現代においても、人は自身の理解を超えた存在を「神」と称して崇め奉る。
そして、他者とかかわる際には、「神」の役と「人間」の役に分かれ、こぞって自らが「神」として振る舞おうとする。
その「神」に対して、一見無駄としか思えない習慣やマナーなどの「よくわからない」礼儀作法が依然厳しく定められているのは、「神」を敬して「よくわからない」存在に遠ざけておくための装置なのである。
それはそうと、神を相手にして人は必ず「後手」に回る。
つまり、「神はいったい何を欲しているのか」と、その思し召しをおしはかり、それに適う解でもって即答しようと、出方をじっと窺うようになる。
それをして「活殺自在」というのであり、凡人には、そのまま神に翻弄されるか、あるいは神を拒絶するか、そのいずれかしかできない。
ここで達人は「後の先」を制する。
つまり、当意即妙に至れり尽くせり神の意に応じるそのまさに「神業」でもって、それと気づかぬうちに主従をひっくり返してしまう。
そして「神」は、我の欲するところのものを的確に次々と与えたまふこの「人間」は「いったい何を欲しているのか」と、気前よく「ご利益」を遣はしあそばされる(こともある)のである。
「神」を演じ、「私は神だ」と騙り合う。
何故そんなことを始めたのかはよくわからないが、それは「暇を持て余した人々の遊び」なのかもしれない(ネタが古い)。
おひねりはここやで〜