お客様は神様です、即ち「敵」です。

 いっさいノーといわないとは、何を意味しているのだろうか。
 客のまったく勝手なわがままである。それを実現するのだから、一見すると、客にたいして親身な友人のような対応と思われる。しかし違う。とんでもないことを要求してくるのだから、実はまにうけていたなら、こちらが破綻してしまうのだ。相手の客は「敵」とみなされているのである。いったいなにをしでかすか分からない敵である。これを、デリダは「非在」を持ち込む敵といっている。こちら=受け入れる側が持っていないものを持ち込んでくる「敵」である。つまり、わたしを殺してしまう、無意味だ、役立たずだとしむけてくる敵であるのだ。
 したがって、ありとあらゆる事を想定してかからなければならない。でないと、何をされるか分かったものではない。失態のないように、そそうのないように、怒らせないように、不快にならぬように、ネガティブな要素はことごとく想定しているが、しかしマニュアル化はされていない。それが場面において起きないように対応していくのである。つねに不良状態にある、それに臨機応変に対応していくのだ。
 ノーといわないのは、相手が敵であるため、その敵と戦わずにすむようにする技術、戦略をいう。相手の気持ちにたつということではない。その結果、相手の望むようになっているだけのことで、それが目的ではないのだ。ここが、ほとんどのサービス提供者には混同されている。「お客さまのため」だなどというのは偽りである、嘘である。

山本哲士『ホスピタリティ原論-哲学と経済の新設計』文化科学高等研究院出版局、2008年、401頁

我らが豊葦原の瑞穂の国におはします八百万の神は、もともとその多くが、人間にただ災禍をもたらす存在であった。

…と書き出しておいていきなり撤回するのもどうかと思うが、正確にいえば因果が逆だな。
つまり、人智の及ばぬ「よくわからないもの」に対して、人はとりあえず「神」というラベルを貼って畏れ奉ることにしたのである。

人は…"神"を恐れるのではない…
"恐怖"こそが"神"なのだ

尾田栄一郎『ONE PIECE』集英社、29巻、275話

そんな気まぐれに「罰」を与えたまふ神に対して、人々はただ「無事」を祈った。
「無事」とはつまり、何も起こらなくてよい、それが最良ということである。

それは、日本の自然環境が、(何も起こらなくても充分すぎるほど)豊かかつ頑丈であり、その反面、(何も起こらないということが起こり得ないほど)災害が多いということの裏返しであろう。

「ご利益信仰」というのは、京都のような都市で生まれたらしい。
都市というのは、自然を排除しすべて「人為」によって成り立っている(ことになっている)場所であり、そこでは「無事」とは文字どおり良いことも悪いことも何も起こらない。
それでは信仰の有難みがないので、人間に利をもたらす都合のよい神が「発明」されたのだ。

だから神にお参りする際は、「無事」を言祝ぐのが本来あるべき姿であって、神からなにか「利益」を得ようなどと下心を抱くのは不届き千万なのである。

「あれ?そんな感じの『カミ』ならすぐ隣にいるような…?」と思った男性諸君、
その直感は正しい。

君はなぜ、その御方を「カミさん」と呼ばずにはいられないのか。
一説によればその由来は、気性の激しい女神「山の神」だとされている。

いいか 息子よ
男はウチから一歩外に出たら
七人の敵が待っているというのは
ウソだ
本当の敵は ウチの中にいる

『息子よ』作詞作曲:藤岡藤巻

閑話休題。

そんな神は、人類共通にして最大の「敵」にちがいないのだが、もちろん人間ごときが「敵う」相手ではない。

それゆえ、打ち勝つでもひれ伏すでもなく、
「鬼神を敬して之を遠ざく」
即ち、敵対せぬよう適当な距離感をたもつべきとされてきた。

「敬して遠ざける」とは要するに、人智の及ばぬ「よくわからないもの」に対しては、自前の物差しを当てたり引出しに収納したりして、安易に「わかった」気になってはならないということである。

「よくわからないもの」を「よくわからないまま」にしておく。
孔子曰く、之を「知と謂ふべし」と。


話はここでなんと前回とつながる。

人間が欲望するのは、この「よくわからないもの」である。

だから現代においても、人は自身の理解を超えた存在を「神」と称して崇め奉る。
そして、他者とかかわる際には、「神」の役と「人間」の役に分かれ、こぞって自らが「神」として振る舞おうとする。

その「神」に対して、一見無駄としか思えない習慣やマナーなどの「よくわからない」礼儀作法が依然厳しく定められているのは、「神」を敬して「よくわからない」存在に遠ざけておくための装置なのである。


それはそうと、神を相手にして人は必ず「後手」に回る。
つまり、「神はいったい何を欲しているのか」と、その思し召しをおしはかり、それに適う解でもって即答しようと、出方をじっと窺うようになる。

それをして「活殺自在」というのであり、凡人には、そのまま神に翻弄されるか、あるいは神を拒絶するか、そのいずれかしかできない。

ここで達人は「後の先」を制する。
つまり、当意即妙に至れり尽くせり神の意に応じるそのまさに「神業」でもって、それと気づかぬうちに主従をひっくり返してしまう。
そして「神」は、我の欲するところのものを的確に次々と与えたまふこの「人間」は「いったい何を欲しているのか」と、気前よく「ご利益」を遣はしあそばされる(こともある)のである。


「神」を演じ、「私は神だ」と騙り合う。
何故そんなことを始めたのかはよくわからないが、それは「暇を持て余した人々の遊び」なのかもしれない(ネタが古い)。


おひねりはここやで〜