仕事は愉快をもって旨とすべし
私は人の機嫌を伺って生きてきたタイプの人間である。
…と聞いて一言(どころではなく)異議申し立てせずにはおれない人もちらほら(どころではなく)おられるかもしれない。
だがもし、それが客観的事実と反するというのならば、それは一つには、私が他の誰よりも先んじて伺うのが、何を隠そう「私の機嫌」だからである。
(もう一つは、他人の機嫌を伺いながらもそれを損ねさせずにはいられない私の中に棲む天邪鬼のせいであり、すでに文頭から軽口を叩いて不機嫌になる人を量産しているあたりに彼の存在ははしなくも露顕していよう。ともあれ、それについては弁解の余地が一片とてあろうはずもないので今回はひとまず措いておく。)
我が人生の最優先事項、それは私自身が上機嫌であり、愉快であり、快活であることである。
そのためには、周りの人たちにも同じく愉快でいてもらう必要があるので他人の機嫌を伺うだけであって、事の順序を間違えてはいけない。
とりあえずこれまで、私を不愉快にして憚らない人間からは可及的速やかに距離を置き、苦難に遭ってなお快活さを失わず、その八方塞がり的状況さえ面白がり、周囲の人間をもその気にさせる、そんな人間に憧憬の眼差しを向けてきた。
もちろん、前者からは直ちに人は立ち去り、後者のような人間のもとに人は集まり、ひいては金も引き寄せられるというのは、自然の摂理からいっても当然の帰結といえよう。
だからもし、ビジネスの世界で成功したければ、単に、「いつも愉快に仕事している」と周りに思わせれば良いのである。
そして、「『いつも愉快に仕事している』と周りに思わせることに常に成功する人間」とは、当然のことながら、何は無くとも年がら年中「いつも愉快に仕事している人間」だけである。
しかし、ここで誤解されぬよう。
「愉快な仕事」なんてものはこの世に存在しない。
そもそも、「仕事」とは「労苦」の代名詞であるという周知の事実からして、そんなものは語義矛盾を孕んだ空言に過ぎない。
だがあえて言わせてもらう。
「仕事は愉快をもって旨とすべし」
これは仕事の基本である。
「愉快な仕事」は確かに存在しないが、「愉快に仕事する人間」は現に存在する(おそらくあなたの周りにも)。
べつに彼らは他人が羨むような職務に就いているわけではない(と思う)。
彼らはただ、それこそが成功の秘訣であるということを本能的に熟知したうえで、信念とプライドを賭けて「断固として上機嫌」を貫いているだけである。
しかし、そうは言っても、渡る世間は不愉快なファクターで満ち溢れており、決意だけでもって乗り越えられるほど甘くはない。
例えば、狭量な上司、無能な同僚、反抗的な部下、横柄な取引先、無粋な顧客などに(要は馬鹿に)、とり囲まれながら上機嫌を貫き通すなんてことはほとんど不可能である。
反対に、寛大な上司、優秀な同僚、素直な部下、フレンドリーな取引先、センスフルな顧客などに恵まれた場合、私たちはどんな過酷な労働であってもそれを愉しむことができる。
だから、愉快に働くためにはまず、敬意と信頼のおける人間関係の構築は欠かせない。
また、どんなビジネスにおいても、大小の問題が降って沸いてくること日常茶飯事であり、先行きの全く不明瞭たること未来永劫であることは論を俟たない。
これらにストレスなく対処するには、
「ま、そういうもんだよ」
「で、それがどうしたって?」
「そのうちなんとかなるやろ(知らんけど)」
といった一連の呪文を唱えることで、平然と居直り、立ちどころに煙に巻くという、徹底して世間を舐めきった態度を会得せねばならない。
さらには、やりたくないことはやらない、それも、一切弁明の余地もなく、
「やなもんはやだ」
の一言で、歯牙にもかけず一蹴してしまうことだ。
しかし、これを口にできるには、その極まった態度の悪さに釣り合うだけの確固たる実力も、周囲からの信認(というよりは諦念)も、さらには一時的に食うに困らないだけの懐の余裕もなくてはならない。
いま一度言う。
「仕事は愉快をもって旨とすべし」
これは仕事の基本である。
されど、敬意と信認のおける人間関係も、確固たる実力も、いざのための懐の余裕も、そして態度の悪さとて、一朝一夕には手に入るものではない。
それゆえ、あらゆる芸道において「基本」とは即ち「極意」を意味するのと同様、それは仕事の「第一歩」であると同時に、遥か無限の彼方に臨む「究極の頂」なのである。
上機嫌、愉快、快活。
それらは、「正しさ」とは次元を異にする度量衡である。
私は自分が「正しいかどうか」には用がない(おそらくあらゆる点で間違っている)。
正しく生きる人には、それぞれ「正しさ」の基準がある。
それは、「夢」や「使命」であったり、「勝ち組」や「自分らしさ」であったり、「社会的成功」や「サステナビリティ」であったり、要するに何でもよろしいのだが、理想や意味を人生に与えて、それに照らし合わせて生きるということである。
その対極にあるのは、おそらく、「ただ生きる」ことである。
その「霄壌の差」とは何なのかについて、著者は何も教えてくれない。
しかるに私には思うところがある。
そのように「もとの凡夫」になった人間は、一所懸命に四苦八苦しながらどうして無我夢中で愉快闊達にちがいない、ということである。
おひねりはここやで〜