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子供と親と、キッズコーナー

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子供と親の関係性を、キッズコーナーと絡めて考える
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#親子

「ぬくもり」は共に創る

「ぬくもり」ってなんだろう? 「ぬくもり」が恋しい と言う表現があるように自然と求めてしまうものではありそうだ。 ただ、求めている「ぬくもり」の正体とはいったい何なのか? さらになぜ求めてしまうのか? 「ぬくもり」を考えていく上で、自分の仕事であるレンタルキッズコーナー「リトルツリー」で日々「木製のおもちゃや遊具」を扱っていることに加え、『手の倫理』という触覚に関わる本を読んでいたこともあり、普段なんの気無しに使っている「木のぬくもり」という概念から紐解いていきたい。

子どもを本当に信頼できているのか? / 「にもかかわらず信じること」『手の倫理』より

子どもと日々ぶつかったり、愛情を確かめ合ったりしながら過ごしていると、この親子関係は絶対的なもので、前提としてお互いに信頼関係を築けていると認識している。 信頼関係を築けていると思いたいだけなのかもしれない。 それでもやっぱりけんかをしたり、怒ったりすると、子どもからどう思われてるのか信頼されているのか少し不安にはなる。 ただ、それより自分のなかでひっかかったことは 自分が子どもを本当に信頼できているのか? 無条件に感情でも頭でも子どもを信頼していると思っている。 そ

遊びながら変えていくルール / 『手の倫理』から考える

子どもとの遊びは決まりがない。 ルールがある遊びであったとしても自由に変えていいし、お互いに良いなと思ったことを取り入れて新しい遊びになる。 例えばごっこ遊びをしていても、自由に関係のないキャラクターやストーリーを組み合わせて遊んでいくことが多い。 また、ルールというものに慣れ親しんでいる大人である自分としては、時おり面倒くさく感じる場面もあるけれど、遊んでいく中でルールや遊び自体がなめらかな流れで変化していくことも楽しい。 「~~遊び」と「~~遊び」・・・をして遊んだ

その心に触れることが出来ているのか?触っているのか? / 『手の倫理』より

子供との他愛のない会話から、まじめな話、しつけ、はたまた怒る、言い合い。 そんな時、自分はどのような言葉、感情、雰囲気を投げかけているのか。 ちょっと前に読んだ『手の倫理』という本の冒頭で、「さわる」と「ふれる」の違いについて書かれている部分があり、自分のコミュニケーションの取り方について振り返ってみたくなった。 「ふれる」が相互的であるのに対し、「さわる」は一方的である。 「ふれる」は人間的なかかわり、「さわる」は物的なかかわり。そこにいのちをいつくしむような人間的なか

自分が安心するために思い込み、色めがねをかけている

「決断の瞬間とは一つの狂気である」 セーレン・キルケゴール 子どもと接していると、この子はこういうところがあるとか、自分の考え方に対して思い込みを持っていることが多い。なんでしたくもない思い込みをしてしまうのか、ちょうど読んでいた本でたくさんのヒントがあったので、前の記事とかぶる部分もあるけれど、考えていきたい。 「決断」を考える この本の中で、「決断」について述べている部分があって、ちょうど考えていた「思い込み」ととても似ているなと思った。 「思い込み」とは、何かを決

キッズコーナーの当たり前から (ほぼ自分のメモ)

今世間の状況はコロナウィルスの長期に渡る感染拡大で、様々な業界で良い影響、悪い影響が出ている。 キッズコーナー業界も想像してもらえればすぐに分かると思うが、子どもに直接関わることなので、厳しい影響が出てしまっている。 このような不安定で、正解が不確実な状況なので、自分たちの取り組みや、「正解はこれだ」みたいなことはこの記事では書かないけれど、「キッズコーナー」というそのものを改めて考え直してみたい。 キッズコーナー Wikipedia 自分のメモ用として、まずWikip