初投稿

先日、座っていると急に文章を書いてどこかにアウトプットしたい欲望・しなければならないという使命感が出てきて止まらなくなったのでこうしてnoteのアカウントを作って初投稿をします。

はじめまして。バスバリトン歌手の牧山亮です。
歌手という響きはあまり好きじゃないんです。
歌を歌う人とか、声を使う人と言った方が僕的にはしっくりくるかも。

細かい経歴は別途こちらhttps://ryo-makiyama.tokyo/profiel/を参照していただいて、、最近の出来事としては2024年10月から東京混声合唱団の団員となり、主催公演をはじめ様々な演奏会に登壇してます。

もともとアンサンブルは好きで、藝大学部在学中はハルモニアアンサンブルをはじめ様々な団体に所属していました。藝大の大学院オペラ専攻に入ってからは合唱からは少し遠のきましたが、またこうしてアンサンブルの世界にどっぷり浸ることができ充実した日々を送ってます。

いざこうやって何か書こうとすると果たして何を書けばいいのだろうと考え込んでしまい、文章が思うように進まないですね。

初投稿ということもあるので僕が歌を始めたきっかけから現在までの道のりを簡単に話すとしましょう。

あれは高校一年生の時に遡ります。音楽の授業で歌ったイタリア古典歌曲やカンツォーネを歌う授業があって、歌を音楽の下茂先生に褒められたことがきっかけでした。先生は「君は声がいいから絶対に声楽を勉強しなさい」と勧めてくれました。当時高校生だった僕は先生の言葉に気を良くして声楽の勉強を始めることにしたんです。単純でしょ、笑。先生は藝大の声楽科を卒業されていたので、最初は先生に少し習い、その後本格的にレッスンを受けるために別の先生を紹介してもらいました。ソプラノの八木先生でした。レッスンを何回か受けて暫く経ったある日、「第九の合唱を歌ってみないか?」と誘われたんです。当時僕は第九って何?という感じでしたが、これに参加しました。そして初回合唱練習に参加したんです。周りは大人ばかりで、おじいちゃんおばあちゃんが多く、僕は若かったのでだいぶ浮いてました。正直なところ「ああ、場違いだったかな」なんて思ってたかも。でも音を出してみると不思議。もう練習が楽しくって仕方なかったんです。そうして練習を重ねて、遂に本番も終わってしまった後、僕は声楽で飯を食っていこうと高校生ながらに決心してました。それからは先生のもとで猛特訓が始まりました。高校の授業の後、原付で先生のご自宅に伺い、レッスン。そして帰宅して復習と学校の勉強。次の日もまた高校に行き授業後レッスンという感じでした。僕はコールユーブンゲンが苦手でした。家で音が取れて歌えるのに、いざレッスンになり先生の前で歌うと音が取れず、、目を真っ赤にして泣きながら歌ったのを今でも思い出します。当時僕は昭和音楽大学の給費生試験を受けてましたが、結果は半額免除でした。全額免除を狙っていたのでこの進路は断念し、僕は大分県立芸術文化短期大学に進むことにしました。ここで僕はあるバリトンの宮本先生と出会うことになります。運命的な出会いでした。僕は大分芸短で先生に師事しながらたくさんの曲を勉強しました。大分芸短の環境は素晴らしく、定期演奏会ではオーケストラとハイドンの《天地創造》や、佐藤眞さんのカンタータ《土の歌》を演奏しました。僕は大分芸短の専攻科というところへの進学を考えていましたが、先生から「藝大を目指してみないか?」と言われました。そして先生から藝大で師事することになる吉田先生を紹介していただいたのでした。僕は東京に月一でレッスンに行き、勉強し、そして藝大に合格し、東京での生活が始まりました。受験の時に仲良くなった同期がいました。渡辺君と高橋君です。渡辺君は当時ハルモニアアンサンブルという団体で歌ってました。渡辺君は僕にハルモニアアンサンブルのオーディションを受けるよう誘ってくれて、僕は言われるがままオーディションを受けました。そしてハルモニアアンサンブルに入団することになりました。入団試験は酷い出来だったのでよく受かったなと今でも不思議に思います。ここで僕は多くの人と知り合うことになります。僕はオペラ団体ABQという団体の代表をしているんですが、ABQの副代表である金沢さんともここで知り合うんです。ハルモニアアンサンブルでの練習や本番は刺激的で僕はここで多くを勉強させてもらいました。現代合唱曲なども積極的に演奏しましたし、また、収録のお仕事などで、1週間に30〜40曲ほどの合唱曲を譜読みしなければならないこともあり、この経験で視唱能力がとんでもなく鍛えられました。僕は新曲視唱は嫌いだったんですが今はだいぶ得意、むしろ好きですね。この経験があったからですね。それから、もっとアンサンブルを勉強しようと思い、様々な団体に参加して歌いました。先ほども書いたように、しばらくして藝大大学院のオペラ専攻受験のために、合唱やアンサンブルから少し遠ざかりました。オペラ専攻に入学し、オペラの専門的な勉強をしました。日本語のオペラ作品に惹かれて大学院では山田耕筰作曲の楽劇《黒船》を研究しました。その副産物として酷い論文も生み出しました、笑。大学院在学中の2年次にはコロナウイルスが日本に入ってきてました。修了して、いざフリーランスになると音楽の仕事なんて何一つなかったです。家賃も滞納したり、厳しい時期でした。そんな苦しい時期にあえて「歌曲個展」という活動を始めてさらに自分を追い込んでいました。自主企画はお金がかかりますから。この時お金を援助してくれた仲間には頭があがりません。フリーランス2年目から徐々にお仕事が来るようになって、音楽もできる社会環境になってきた感じがしました。一年目に思い切って始めたオペラ団体ABQの活動も注目されるようになってきました。2021年11月には作曲家エルンスト・クルシェネク(1900-1991)の室内オペラ《信じること、その値段は》を北とぴあ国際音楽祭2021で日本初演しました。また、2022年12月には第2回ショスタコーヴィチ歌曲個展を(公財)練馬区文化振興協会 舞台芸術支援事業、並びに公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京 [スタートアップ助成]の助成を受け開催し、2023年3月には第2回シューベルト歌曲個展を公益財団法人榎本文化財団の助成を受け開催しました。一年目の頑張りが報われた気がしました。そんなこんなでフリーランスとして3年目の活動していました。ある日、神奈川県民ホールで行われたフィリップ・グラス作曲《浜辺のアインシュタイン》を聴きに行ったのが運命の出会いでした。合唱は東京混声合唱団でした。現代曲が大好物の私は万難を排して聴きに行きました。演奏は大変素晴らしいものでとにかく終始圧倒されました。そんな中、東京混声合唱団が団員オーディションを行うという話を知り、これは挑戦してみようと思い、オーディションを受けたんです。

東混に合格した後、大分芸短の時に師事していた宮本先生が東京にいらっしゃっていたので、2人で食事をしました。実は宮本先生は東混発足時にメンバーとして演奏していたらしいんですが、大分芸短で教鞭を執られるためにメンバーを抜けたということをこの時はじめて知りました。先生は東混でずっと歌いたい気持ちもあったらしく、離れるのは断腸の思いだったようです。そんな自分の居たかった東混にまさか牧山くんが入団してくれるなんてこんな嬉しいことはないとおっしゃっていただいた時に、何かの輪が繋がった気がしました。

あの時食べたハンバーグの味を今でも思い出します。


というお話でした。
いかがでしたか?

ではまた。

牧山亮


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