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何者であるか、を捨てる

出社前のドトールで、朝の仕事の整理が終わったので、残り時間でnoteを書いている。

インターネット上に実名アカウントを設けて、遊んで、仕事して、を繰り返して、はや10年が経過した。このタイミングで、実名のアカウントを残しつつ、匿名のアカウントを作って、あらたに動かしてみようと思った。

この段階ではプロフィールも、ヘッダーも、なにも設定していない。よくある、ネットにある匿名アカウント。頭の整理がてら、なぜそう考えたのか、ここに書いておこう。

自意識に囚われていた

ひとつの理由は、囚われていた自分から脱したい、という想いだ。

昔々、実名アカウントを設けたのは、大学の新歓で知り合った友人に誘われたmixiがきっかけだった。まだ完全招待制だったmixiは、サークルの先輩後輩、友人とのオンラインコミュニケーションを目的として楽しんでいた。

そこから、大学3年のときにTwitterを始めた。そのときも、友人のアカウントもフォローして日々のつぶやきを楽しんでいたものの、どちらかというと、共通の趣味で繋がる他匿名アカウントの人たちとの交流を楽しんでいた。就活で上京したとき、オフ会を開いてもらったり、なんならTwitterで知り合った人に紹介してもらった企業を受けたりもした。

Web上の活動が、オフライン/リアルに確実に影響を及ぼすことがおもしろかった。仮想世界だと思っていたネット上のコミュニケーションが、リアルでも動くという不思議さの虜になっていた。

そこからはや7年が経過して、ぼくは30代になった。23歳で就職したころから日本で働いたり、海外でも仕事をしてみたりと、贔屓目に見てもあまり一般的ではない働き方・経験をしてきたんじゃないか、と思う。

ただそれと同時に、自身が少なからず積み上げてきた経験領域、知見、そして他者からどう思われているのか、が壊れることを気にして、自由に行動・発言ができなくなっていた。

「こういう人だと思われているから、こういう発言はしないほうがいいよね」
「こういう経験を積み上げてきたのだから、関係ないことはしないほうがいいよね」

「他人なんか気にしなくていいんだよ!プライドを捨てるんだ!」とネット有名人はいうかもしれない。しかし、2,3年ほど試みたけど、それはとてもむずかしかった。

だから、いま一度初心に帰り、「なにも持たざる者」「何者でもない者」として改めて、スタートを切ってみたい。

自由に発信ができる場が欲しかった

自意識の囚人から脱するために、匿名アカウントをつくるという決断をした。ただ、アカウントを作るだけでは満足がいかない。発信できる場も欲しかった。

先に書いたように、自意識が高まりすぎると、自由に発言ができない。こういうことを言ったら、こう思われるんじゃないか。会社の人にも叱られるかもしれない。そう思っていると、果てはなにも発言できない世界観しか広がっていない。誰かが「SNSは現代の相互監視社会」と言っていたが、まさにそうだ。

noteでは、気ままに、日記的なものを書いていく。日々のなんでもない学びであるとか、本稿のように思考整理のためのようなものも。リアルの同僚や友人・知人の目に留まるわけもない場所だから、真の意味で自由に発言ができる。

ここに来るまでに、紙のノートに書けばいいじゃないか、とか、コピー用紙に書きなぐっていれば勝手にすっきりする、など思い、いろいろ試してみた。しかし、それだけではなぜかスッキリし切らなかった。

きっと、ネット人生活がそこそこ長く、「社会に対して意見表明する」ことで頭の整理をし、歩を進めていくことが当然になっている。

最後に

noteはできる限り、毎日書いていく。こう言った先から、明日から長期の海外出張が控えていて、なかなか書く時間を確保するのが難しそう。それでも、独り、淡々と日々の出来事や思ったことを書いていきたい。



お読みいただき、ありがとうございました。淡々と日々の考えを更新していく日記のような、エッセイのようなものを書いています。いただいたサポートは、明日も頑張るために無駄なく使わせていただきます。