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レポート書き直し

はじめに (第0章)

私が住んでいる西和賀町は人口は5500人前後、高齢化率は全国トップクラス。財政の過半数を外部に頼っている。主要産業は農業、林業等の一次産業。ある意味、日本の地方自治体の将来像とも言えるような町である。
私は高校生活の中で、この西和賀町で「ここで豊かに生きるということはどういうことなのか」、「仮にその豊かさが存在するとしてどうしたら創造できるのか」という問いに向き合ってきた。
きっかけは知り合いの社会起業家、瀬川然氏が主催した西和賀町の「暮らしの美しさ」について、ゲストを招いての車座とワークショップに、本人から誘われたことだった。そこから「町を面白がる」という視点で人と対話し、行動してきた。最初と現在ではもちろん未来へのヴィジョンや、方法、さらには思想までもが、これまでの活動によって変容した。これより先は、時系列に沿ってこれまでの活動と、考察の流れを書き記したい。

第1章 地域の価値を上げる場作りについての車座

ここでは私が町に向き合うきっかけとなった、瀬川然氏が主催した車座とそのワークショップについて記述する。

2019年3月29日 車座「地域の価値を上げる場作りとは?」に参加した。内容としては地域の本質的な価値をどうやって掘り起こし、伝えていくのか、ということを念頭に置き、「地域と宿」というテーマで対談者を取り囲み、話を聞いていった。対談者は高級旅館山人(yamado)経営者高鷹政明氏と日本の地域の本質的な文化を残し、未来を担う拠点となる、ゲストハウスを輩出している中村功芳氏であった。

車座での内容では町宿という宿のあり方について、また、それがどう地域を実際的に価値付けるのかということについて話された。まず町宿とはなにか。町宿というのは町全体で宿の役割を分担するやり方のことだ。そもそも宿の性質は下のようなものである。

宿の性質とは・・・宿はその街の食材や美的感覚(感性)をそのまま表すことができる。その街の縮図や、街の強みを解説してくれるナビのような側面も持つ。(中村氏の発言より)

それを宿だけではなく、町全体を使ってその機能を強化する取り組みである。これによって宿によって紹介されていた魅力を、直接感じることができる。また経済的側面でも多くの面でお金の循環が起こる。

対談のなかで二者は「本物」という言葉を使っていた。中村氏は以下のようなことを言っていた。

貨幣経済のなかでは一般的には安く、高いものを得る、ということが正義とされている。しかし、一泊3000円のビジネスホテルに素泊まりするよりも、一泊7000円のゲストハウスにその地域の面白い人や暮らしの美しさを感じた方がある側面では豊かではないか。そして世の中はそういう本物を感性的に受け取りたいという価値観に向いてきている。

それに対して高鷹氏は以下のように話している。

山人は土地のもつ豊かさを丁寧に伝えることをコンセプトとして立ち上げた。

事実、山人は一泊五万円近くはするのにリピート率は非常に高く、国内、海外からも高く評価され、西和賀ファンを確実に増やしている。

まとめると地域における「本物」、この言葉がこの対談でのキーワードであり、印象深いものとなった。この後は地元、湯川温泉の鳳鳴館という宿に泊まり、翌日のワークショップに参加した。

第1章-考察-

この対談のなかでおおよそ私が考察するべき対象は、地域における「本物」というキーワードだろう。ここでの地域は西和賀町を指しているとして、西和賀町における本物とはいかなるものなのだろうか。「本物」は言い換えれば「本質的なもの」である。しかしそれはこの資本主義経済のなかでの本質的なものではなく、生きる行為において本質的なものであることは中村氏の言葉から分かるし、納得する。中村氏は話のなかでお金による比較をしていた。それと同時にお金以外の価値観も提示していた。それはお金という価値観を乗り越えてもっとラディカルな、「人としてなにを面白いか、美しいかと思いたいかという問い」に対して一助となるような美的感性を見せてくれる、ということではないのだろうか。また、それは確かに対談中の暮らしの豊かさ·美しさにつながる。それこそが土地のなかでのラディカルな意味での本物であるのではないか。つまり、西和賀のなかでの暮らしの美しさ·豊かさが本物であるのではないか。一体それはなんなのか、それは翌日のワークショップに持ち越すこととなる。

第2章 駅前エリアの価値を上げるにはどうすればいいかを具現化するワークショップ

前日の車座の翌日、3月30日。泊まっていた鳳鳴館で朝食をとったあとに湯川温泉から町の駅、ほっとゆだ駅に移動。その移動の間に町の南、旧湯田町(西和賀は以前は沢内村の湯田町に分かれており合併した歴史を持つ。)の戦後を支えた鉱山、土畑鉱山になんとなく惹かれた。移動した後はほっとゆだ駅の駅前を中村氏と、他の参加者と共に歩いた。普段何気なく通りすぎている町並みをどう捉えるか。どう面白がるか、ということを中村氏は言っていた。

その後ほっとゆだ駅にて、各人が持ち寄ったアイデアや構想を持ち寄って中村氏やそれぞれの参加者がアドバイスや、成功への仕掛けをどう作るか、ということをじっくりと話し合った。私はそのなかで来る途中で見つけた土畑鉱山で芸術祭を開くことを提案した。ただし、その芸術は町の中の暮らしの美しさや、そこからの能動的な町の人や町が生み出した芸術にしたい、町の人が自分の生活を「いかに豊かに生きるのか」ということを表現できる場にしたい、ということを言った。既存の外部からアーティストを招く、ということではなく、町自体を、能動性溢れる作品として作り上げたいということであった。その時に理想像から逆算して仕掛けを作っていく必要がある、ということをアドバイスとしてもらった。

第2章-考察-

今回考察するべき、詳細に記述するべき事柄は3つある。
一つ目はなぜ土畑鉱山に着目したか、である。先ほども書いた通り、西和賀町は元々湯田町と沢内村に分かれていた。土畑鉱山はその湯田町に存在しており、戦後の経済、文化形成の両面を担った。町の多くの人々が鉱山に勤めており、この中で多くの生活と文化があった。しかし、段々と採掘が冷え込んでいき、いよいよ閉山となった。当然そこにあった生活も消えてしまった。だからこそ、時代と共にお金という側面で淘汰されていった場所に対して、「本物」という価値観が存在する現在になって文化的なアプローチをしてみたい、資本主義経済とは別のベクトルの豊かさをそこで見いだしたいということであった。それはこの先の西和賀町にとどまらず、ポスト資本主義のこの時代において豊かさの1つの形を示せるだろう。

二つ目はなぜ芸術祭なのか、ということ。すこし話が遠回りになるが、私は元々美術部と地域の20~30代が主として集まる演劇部という2つの場所で高校一年生から作品の創作をしてきた。そして高校一年生の3月には高校演劇アワード(レポート3を参照)に出た。そこでは、当時3年生6名、同級生であった1年生1名とともに演劇部が学校になかったため、学校に出場の権利をかけあい、そして出場した。高校演劇アワードはプロの劇作家の書き下ろし戯曲を各校が上演台本として捉えるアプローチする演出勝負の大会だ。その大会で私は演出と役者としてチームのなかで動いた(そもそも発端は私が出たい、と一人の先輩に協力を仰ぎ動き出した)。そのなかで、なにを表現するのか、なにを考えるのか、どう考えるのか、そしててどう伝えるのか、ということを相当に年齢という差を取っ払って議論した(製作の半分以上が議論であった)。そういうなかで、芸術を見いだす、創作する過程において、なにか論理的に、直感的に考えずにはいられないことが分かった(これは美術でも同じ)。そして、それを表現したときの感動は凄まじい。それらの特筆すべき創作の特徴を知っていたからこそ、これまでとは別のベクトルの豊かさを見いだす、という目的を芸術を通して完成させたいのだ。

三つ目はなにが現状なのか、ということである。これはこの時点では私の視界の範囲内でしかなかった。例えば演劇部に来ていた子育て真っ最中のお母さんは外から結婚を機会に移住してきた。しかしながら相談できる場所が少ないことや、お母さん同士のコミュニティが無くて心細いことなどの悩みを抱えていた。また、前に近所の食事会に顔を出したときは、ある年長者はしきりに行政の愚痴をこぼし、まわりはそれに対して頷いていた。

しかしこれがなにを意味するのか、しっかりとしたところで確認する必要があるし、もっと多くの人の意見を聞く必要があることが判明した。それからこれからどうするべきか、という仕掛けを考える。

第3章 町政懇談会、

2019年5月。町で町長や、教育長、各役場の課長が各地区の公民館に出向いて町政についての報告や意見を聞く町政懇談会があった。 私は最寄りの公民館で開かれた町政懇談会に参加した。夕方6時頃に始まり、8時ほどに終わった。参加している多くの人は案の定、高齢者が多く、女性は少なかった。20代、30代は私の母以外にはおらず、当然高校生は私一人であった。議題は町のこれからの政策のコンセプトから始まり、増税にともなう各種料金の値上げで終わった。私はコンセプトの中の、西和賀ブランドの確立や定住プロジェクト、女性の活性化についていくつか批判的に、意見を述べ、質問をした。これらのコンセプチュアルな部分について質問したのは私だけで、他の人たちは各種料金の値上げについて批判的な意見(こうするべきだ、正当ではない、ということではなく、ただ不服であるということを述べていたので半ば文句であるとも捉えられる。)を述べていた。その後まもなく、有益な結果が出るわけでなく、平行線のまま町政懇談会は終了した。

第3章(考察)

ここで考察、というか解きほぐすべき事柄は1つである。なぜ、これからの政策の根本であるコンセプトに対しての質問ではなく、料金等への質問に集中したのであろうか。考えられる理由は2つある。1つ目は単純にこれからのまちづくりに対しての関心が薄いから。二つ目はより自分達に対してネガティブな影響の方に関心があるから。

この2つはどちらも存在しているだろう。この2つのなかでさらに考察を進めなくてはいけないと思われるのは前者である。関心が薄い、ということがどういうことであるのか。前の章で書いた行政への愚痴をしきりにこぼす、ということと、どこか似通った印象を受ける。共通しているのはあくまで他人事、ということであるのであろう。自分達の暮らしであるのにも関わらず、どう創っていくということではなく、結果に飲み関心が集まり、そこに対してもの申す。つまるところ自分達がどう楽しむのか、面白がるのかということに対して無関心であり、無気力であるのではないか。そのようなことは傾向としてはあり得る。そして芸術祭による能動的な町とはある意味対極にあるのはそのことではないだろうか。これが意味するのは能動的な町を目指すにあたって最初にやりとげなくてはいけないのはこの無気力の打破である、ということだ。

第3章(考察)続

ではその無気力はどうすれば打破することができるのか。私は自分達がどう楽しむのか、面白がるのか、美しいと思うのかという目線に注目した。これらの目線は総じてなにか、ものを創作するときの目線に近いのである。ものを創作するときは「これはどう見えるのだろう」「これはどう意味付ける?」「ここからここへの流れは?」というように、どう見るか、見せるかという目線である。自分達がどう楽しむのか、という目線は普段の世界をどう見るのか、ということである。つまり、芸術としての捉え方となにかを面白がるという行為の目線の根底は等しいのである。そして私自身が「暮らしの美しさ」と読んでいたのはおそらくこのことではないかと考えられる。暮らしの美しさをテーマとする廃鉱での芸術祭との関わりも当然あるだろう。

また、無気力とは孤立した自分の感性の届く範囲が狭いことによって起こるのではないか。周りの「本物」に対して盲目になってしまうこと。その本物を通しての感性を共有できないこと。そのことを「自治」の不在と言いたい。自分で自信の周りを面白がることこそが自治であると思うからである。自治とは文字通り自ら治めることである。治めるとはなにか。自分の周りをコントロールすることではない。自分の周りを、半径5メートルを豊かにすることであり、自分自身がその豊かさに身を置くことではないか。

また、芸術とはあるところに固定されていながらも、その人々の解釈や、感性によって人から人へと繋ぐ、窓のような役割を果たす。それはそこに「いながらにして、いない」という状態を作り出し、その窓は時代の枠すらも通り越す。

ここから分かることは、芸術化することは自治を生み出すプロセスの中の1つであること。つまり無気力を打破するためには
1.自分自身の視界を「環境の芸術化」することの対象として捉えること。
2.そこから多くの人と「環境を自治」すること。
3.その積み重ねで自分自身にまで「環境の芸術化」を及ばせること、つまり「生の芸術化」をすること。
4.「生の自治」(どう自分の人生を面白がるか、という意識を持つこと)をすること。

に分けられる。であるならばまず1から。次の壁画製作はそれにアプローチしたものである。

第4章 壁画製作

2019年8月3日。壁画製作スタート。場所は瀬川然氏のお家の裏。ダム湖である錦秋湖沿いにある壁面だ。対岸から見ることができる。壁画を描きにくる日は毎週土曜日。事前にチラシをその地区の全戸配布にお願いして混ぜておいたら多くの人の物珍しそうな声があった。そういうこともあってか、お隣のおばさんは(名前は未だによく知らない)掃除をし始めて早々に話しかけてくれた。

「なにしてるの?」
「これから絵を描こうかと。」
「なんでここに?」
「みんなが色々とふっとした瞬間に考えてくれたらいいなって思って。」
「楽しそうね。」

のような会話であった。それ以降もそのおばさんはお昼くらいになってジュースを差し入れてくれるのを機会に、この先なにが楽しそうなのか、ということについて話し合った。

8月10日。この日は下書きであった。チョークを買ってきて壁に描く。知り合いが訪ねてきてくれた。役場で働いている人だ。ここがどういう風に楽しめそうか、かなりフィードバックをしてくれた。

8月17日。この日は始めて色をのせていった。この日は後輩に手伝ってもらっていた。そしたらお隣のおばさんがそばを振る舞ってくれた。この日は午後に地域の演劇部の顧問的な立ち位置の劇作家の人と、その人の知り合いのライターが訪ねてきてくれた。哲学と生活の関わりについて話した。そのライターの人は東京から来ており、ここが桃源郷的な場所であると言っていた。

8月24日。この日も色をのせていった。この日は然氏の知り合いの総務相の人が見に来てくれた。話のなかで、地方自治体の財政という点で話を聞いていた。アートによって人々に介入しようとしているが、その実お金という面に蓋をしがちであった私が垣間見えた。自分のヴィジョンについて、つまり芸術祭やそのための無気力の打破。環境の芸術化から始まる一連のプロセスについて話したりした。この日はこの人以外にも地域の人が一人来た。

9月14日。しばらく描きにくることができなくて久しぶりに描きにくることができた。この日も地域の人が二人時間を空けてきてくれた。毎度のことながら作品を創っているときに聞く言葉はなぜだか、前の飲み会のエピソードのような刺々しさや、なげやりな感じがどうも少ない気がする。なにを楽しみたいか、面白がりたいか。こちらの問いかけに真摯に答えてくれているような気がする。

9月15日。2日連続で描きに行った。この日は人は来なかった。作品も大方仕上がってきた。

9月21日。作品が完成した。この日は知り合いが訪ねてきてくれた。どう見られるのか、ということについて。むしろ、ポジティブな思いが溢れている、ということを知り合いに話した。

このすこし後に完成したことを知らせるチラシを最初と同じように全戸配布に混ぜた。

第4章-考察-

この第4章の考察をするにあたって町政懇談会から壁画製作までの経緯をここで書かねばならないだろう。

まず、第3章の考察で無気力を打破するために4つの段階のプロセスを提示した。そして、そのうちの1つ目である「環境の芸術化」に今回取り組んだ。

そもそも「環境の芸術化」とは一体なんであるか、ということから具体的な行動を決めるにあたって考え始めた。「環境の芸術化」とは第3章の考察(続)にもあるとおり、自分自身の周辺環境を芸術作品をつくる時のような視点で見ることだ。「環境の芸術化」を行うということはそれを自他共に促す、ということだ。

なるほど、では一体どのような手段でやるのか。私はそれを芸術的アプローチである壁画製作によって成し遂げられると考えた。その理由(狙い)は3つあった。

1.壁画というグラフィックアートは多くの人の目に留まる。ということは普段何気なく通り過ぎている風景も批評の対象となる、ということだ。批評とは、どう見るのか、ということであり、「環境の芸術化」の視点そのものだ。(オブジェクトの装置的意味合い)

2.外での製作の過程において対話が生まれると考えられるからである。製作の過程において、様々な人々と対話することによって、自分自身のヴィジョンや、面白がろう、という「環境の芸術化」の視点を内側から起こせる機会が増えるのではないか、ということ。また町政懇談会のとき以上に深く、その人とクリエーションという特殊な場所において対話の可能性が増えるのではないか、ということ。(調査的、対話的意味合い)

3.そもそも「環境の芸術化」を自分自身の手で自分自身に対して実験してみたかった。私はこれまで西和賀町の演劇文化やその他諸々の文化に触れてきたが、みずから文化を創造する、ということはしたことがなかった。なにかを面白がる文化、それをそもそも興そうとすることが自身に対して可能なのかどうかを見てみたかった。(実験的意味合い)

このような経緯のもとで実際に壁画を描くに至った。では次に実際の壁画製作が担った役割について考察していこう。先ほどの狙いとも書いた3つの視点から書いていこう。

一つ目。グラフィックアートであることの利点を生かして周りに「環境の芸術化」の意識を喚起させる、ということに対しては製作過程に訪ねてきてくれた人や、完成した後に然氏に声を届けてくれた人がしきりに「これはどういう意味なの?」ということを言ってくれた。私にとって最も厳しかったのは流される、ということであったのである程度の批評の対象となることはできたのではないだろうか。しかしながら湖面沿いということもあって毎日見るということは厳しく日々の生活の批評対象という役割はこなせなかったように思える。また、これも場所に関係するのだが見た人の絶対数はやはり少なかった。見た人が少なければ少ないほど批評対象として影響を及ぼす範囲は小さくなり、装置としての意味合いは弱くなる。

二つ目。先の記録を見てもらったら分かるように対話自体は生まれた。さらに特筆すべきは、一対一だからか、クリエーションの場だからかは不明であるが未来のヴィジョンに向けてある程度のポジティブさを確認することができた。これが意味することは2つある。一つ目はみんなある程度は何かしらに対して楽しみたいという欲望があること。二つ目はこのような日常にある対話の場がその欲望を引き出すためにはひつようであること。この調査的意味合い、対話的意味合いは十分に達成できた。

三つ目。現実として「環境の芸術化」を自分自身のなかで実験することができたか。これに関してはイエスと答えられる。グラフィックスアートとはそもそも背景やシチュエーションを含めてのアートであることは言うまでもない。壁画製作を通して、この空間をどう面白がるか、どう演出するかというような作業であった。

「環境の芸術化」を実現するにあたって壁画は確かにひとつの手段足り得ることは事実である。しかしながらその他の、芸術的アプローチ以外の側面を見つけていく必要があるように同時に思えた。

第5章 花巻市リノベーションまちづくりの公開シンポジウム。

第4章の考察の最後にあるとおり、芸術的アプローチ以外の方法を9月からこのイベントがある12月末まで考え続けてきた。その結果としてこのイベントで1つの解を見つけられたように思えたのでここに記述する。

2019年12月23日。花巻市でのまちづくりに関しての公開シンポジウムが開かれ、それに参加した。話の内容は花巻市の具体的取り組みと、それのモデルケースについて。ここでは私に1つの解を与えてくれたモデルケースについて書きたい。

まず、花巻市はまちづくりの大きな柱として、リノベーションまちづくりを掲げている。その成果物として、マルカンデパートなどか有名だろう。しかしそれにはモデルケースがあった。それがアメリカのポートランドだ。アメリカのポートランドは元々は工業都市であり、アメリカ屈指の環境破壊を繰り返してきた。しかし、時代が進むにつれて、ヒッピー文化等も影響したのか更なる工業化ではなく、エコロジーを政策の中心としていった。その取り組みの結果、濁りきった河川は元通りになり、住民の幸福度も上昇した。その過程にあったのは「ネイバーフッド」と「コミュニティ」という概念であった。まず、ポートランド市ではネイバーフッドアソシエーションという組織がある。それはコミュニティの最小単位であり、そこから要望が出される。そこから、1つ上の地域連合にまとめられ、ポートランド市のネイバーフッド担当局に持っていかれる。そのような組織形態が存在することによって達成されたのはハードとソフトをきちんと住民主導でつくっていったことである。ソフトとは木で言うと根っこのところである(便利さ、居心地、街の記憶)。そのソフトは先ほど言ったネイバーフッドアソシエーションの要望や、行動によって創られる。またハードは官民が共同して創っていく。そのハードをつくる時に重要なのがコミュニティと行政のパートナーシップである。そこでの基本的理念が3つある。

一つ目、住民から良いアイデアを集める。
二つ目、費用と恩恵を分け会う仕組みをつくる。
三つ目、パートナーとなる機関、企業、市民団体と計画を練り、実行に移す。

ここまでで分かったことはポートランドはコミュニティの持つ能動性とネイバーフッド、つまり近所に対しての自治意識を頼りに行政を進めているということだ。

第5章-考察-

この第5章で考察するべきは「自治意識」ということであろう。私も無気力を打破するためのプロセスで「環境の自治」、「生の自治」というワードを使った。そのなかで自治という言葉は、どうその瞬間瞬間、その場所その場所を面白がるか、意識のレベルから生活のレベルへ、生きるというレベルで考えることという意味で使った。しかしこのポートランドの話のなかではどう他者と自身の半径5メートルをつくっていくのか、ということであるように思えた。そしてネイバーフッドアソシエーションとはその半径5メートルを繋げるための組織であるとも思えた。むしろポートランドの文脈においての自治の方が正統な意味合いがあるのだろう。しかし、どちらも根本のところは同じことを言っているように思える。それはどう自分の周りを、自身を豊かにするのか、ということである。ただ1つ違うのは他者という概念を意識しているか、否かである。

このシンポジウムで他者という概念を含む自治を西和賀に使うか、そのところを新しく考えさせてくれた。そしてそれは芸術的アプローチ以外の方法を現実的なものとしてくれそうなものであった。

第6章-祝島-を受けて

私は第5章でうけた本来的な意味での「自治」の可能性を探る必要があると考え、瀬川然氏からかねてから「自治の最先端は祝島だ」と紹介されていた祝島に行ってみることにした。この旅についてはレポート2に詳しく記述してあるので、ここではざっくりとした概説と私に与えてくれた考察のみを書き記したいと思う。

祝島は山口県上関町の離島である。人口五百人ほどで、高齢化率は70%を越えている。昔から漁業と有機農業が産業だ。離島という立地、漁業や農業という自然から恵みをもらうという営みからか、島の多くの人の精神には「祝島は私であり、私は祝島」という身体的、精神的な土着の文化、思想が存在する。また、30年ほど前から祝島沖四キロの地点に原発の建設の話が上関町にある。しかしその海洋への影響は図り知れず、祝島島民の9割は原発反対の立場をとっている。その原発をめぐっての島民同士の推進/反対の二項対立は時として大きく、原発反対の歴史は分断の歴史ともとれる側面を持っている。そういった中で、どう生きるか、どう自分の半径5メートルを豊かにするか。そのような問いを常日頃抱え(或いは抱えざるを得ない)、考えざるを得ないことから自治という概念が自治という名をとらなくても存在してきた。

私は祝島には2020年1月5日~8日までの4日間滞在してきた。そこでは然氏の知り合いの秋山鈴明氏にお世話になった。鈴明氏は二年前に祝島に移住してきた人だ。祝島は然氏の言葉を借りるならば「世界の縮図」で確かにあった。資本主義社会の、文明社会のマネーの流れによって生まれたしわ寄せの押し付けの末に流れ着いた原発。それに対してどうするか、イエスかノーかの分断の二項対立。それらがすべて現前している。鈴明氏はその巨大な構造を見極めたい、そしてどうすれば良いのかを見つけたい、分断の二項対立を脱構築したい、そういう思いで大学卒業後に移り住んで来たらしい。今は漁師として暮らしている。

祝島では分解と循環ということを強く意識させられた。そして、どこまでも自然というシステムの中の一部でしかないことも。例えば祝島では各世帯で出る生ゴミを家の前に出してもらってそれを軽トラックで回収、そして牛や豚という家畜に与えるのだ。そして糞や尿としてそのまま自然に還す。特筆すべきはそれを始めたのは個人であるということだ。自分の周りをどう豊かにするか、その1つのあり方を祝島では見ることができた。

第7章 壁画二枚目の製作

2019年12月、私は夏の壁画を受けてもう一度壁画を描き始めた。場所はほっとゆだ駅の駅前通りのずっと昔に潰れたガソリンスタンド。西和賀で一番人が通るところだ(とはいいつつも、西和賀なのでそこまでの人通りはない)。なぜこの場所を選んだのかというとこれは前回の見る人の絶対数が少なかった、という反省からだ。冬で天候が不安定なので、土日どちらか晴れた方、というようにして進めていった。

12月7日 突然の大雪でスタンドの壁が埋まってしまったので雪掻きから始める。天候が悪くなってきたので午前中で終了。

12月21日 壁面の掃除と下書き。今回は赤いチョークで描いた。この日は近所の子供たちが集まってきた。

「なにしているの?」
「絵を描いてるんだよ。君も描く?」
「えー、描けないよ」
「筆をもって手を動かせば描けるさ」
「じゃあ、やってみる。」

みたいな会話があった。そしてその後、「私も自分野家の壁に描いてもいいか聞いてみてくる!」と言ってくれた。

1月1日 まだ汚れがとれていなかったので掃除から始める。この日は車の通りが多く、簡易的な看板を建てていたのだが、多くの車がスピードを緩めてゆっくりと見ていった。

この後から祝島へ行く。

1月12日 祝島から帰ってきて、はじめての壁画。この日に色を乗せ始める。通りすがりのおばあちゃんから缶コーヒーをもらったりした。色々と話しかけてくれる。そして、「これはこう見えるね」などのことを言ってもらった。

2月は地域の演劇部の公演のため製作できず3月に持ち越す。

3月9日 然氏やその奥さんの瑛子氏と共にコーヒーを飲みながら午前中は作業した。冬ということもあり一日はさすがにできない。然氏がいることで、近所の人は私が一人のときよりもよく話しかけてくれる。こういうところが大切なのかもしれない。

3月15日 壁画の作品の内容を大きく方向転換することにする。より装置としての意味合いを強めるため(そしてコロナウイルスの社会への批評を込めた作品にするために)。より抽象度を高めた作品にすることを決めた。

4月3日 作品の大方が終了する。

この後多くの人からこれで完成なのかがわからない、という声があったので後日落款を記しに行った。また、あれはどういう意味なのか。という批判的な声があった。

第7章-考察-

この二枚目の壁画において考察するべきは三点ある。

一つ目は場所について。やはり前回の反省通りより見られる場所ということもあり、日々の生活に批評という意識を潜り込ませる装置として多くの人に影響を与えたのではないだろうか。

二つ目は実際に一緒に描く、ということ。これは近所の子供たちが集まってきたエピソードからも分かる通り、批評の対象となる装置以上に、どう面白がるか、どう見るか、つまりこの壁画の目標である「環境の芸術化」にとって効果的であろう。

三つ目は作品の内容について。より抽象的な作品に今回したのは、どの程度の「一見したわからなさ」であれば、作品は批評の対象から外れるか、ということを試す目的もあったからだ。今回は前回と同じく好意的な意見から批判的な意見まで分かれた。これはより多くの人が見る場所でもあると同時に作品の内容が抽象的過ぎるし、ただ単純に万人受けするようなものではなかったのかもしれない。しかし、この事実を肯定的に受け止めるのならば、「なんなのだ」という批判が出てくるほどには批評の対象となるオブジェクトとしての役割は果たせるということだ。しかしながらそこのバランスは考えなくてはいけないだろう。

総じて今回の壁画製作は前回の壁画製作の反省点を見直した結果としてのものであった。その結果として、壁画製作というものが、「環境の芸術化」に対してある一定程度の効果を示すものであることは確認できた。しかしながらこのアプローチの方法だけでは「環境の芸術化」は達成できないだろう。なぜなら明らかに一面的であるからだ。普段の視界の中のオブジェクトをつくる、その過程で人と関わる。おそらくもっと多角的に、多面的に人と関わらなければいけない。そうでなければ現実と無気力を打破すること、新しいベクトルの豊かさを生み出すこと、その結果としての廃鉱での芸術祭は現実のものとならない。

第8章 これまでからなにが現在に足りないのかに関しての考察。

第7章までで私の西和賀町へのアプローチは大まかに書けた。ここ第8章ではこれまでを振り返り、私の目標を達成するにあたってなにが足りないのかということについて書きたいと思う。

私のこれまでとして考えられるのは、

1.新しい豊かさを生み出すこと、そのためにある種の無気力を打破すること、その結果としての廃鉱での暮らしの美しさをテーマにした芸術祭を開くという目標を持ったこと。

2.そのためにいまある、ある種の無気力を打破する必要があると考えたこと。

3.そのためのひとつのプロセスとして「環境の芸術化」から「環境の自治」、そして「生の芸術化」から「生の自治」というプロセスを考えたこと。
※環境の芸術化と生の芸術化は「暮らしの美しさ」と等しいのではないか。

4.「環境の芸術化」を実現するために壁画製作がある程度効果的だと分かったこと

5.壁画製作以外の多面的なアプローチが必要不可欠であること。

6.シンポジウムや祝島を通して自治という概念を実践した形を知ったこと。

大きく分けてこれらに分けられるだろう。

ここからこれから何をどうすればいいか、という答えは出てこない。しかしながら1つ取っ掛かりがあるとすれば多面的なアプローチが必要ということだ。私の目標とするところは、新しい豊かさも、無気力を打破することも、どれもが「どう生きるべきか」という問いに繋がっている。もちろんそこには芸術的なアプローチだったり、社会学的なものも含まれている。しかしながら根本的に言えば「どう生きるべきか」という問いである。私がこれからするべきはそれについて先人たちの思想を咀嚼し、それを西和賀町で実験し、また考察することを繰り返すことであるの考える。そしてもっと言えばその学問は哲学であるし、私がここで上げた言葉に近しい言葉を哲学の中で出現することはある。例えばミシェル·フーコーの「生の芸術化」である。もっとも根本的で抽象的な「どう生きるべきか」という問いを扱う哲学から、多面的な取っ掛かりを得て、思考し、実験し、考察する。このようなことを行う必要があるのではないかと考える。

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