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意味からの逃走線。

 一昨日から始まり今日まで大学に行ってきた。とは言ってもまだ登録期間中でまともな授業はあまりなかった。面白そうではあった。色々と考えるいとまもなく、家に帰ったら適当に飯を作って寝るというようなそんな日常とも言えないようなその日暮らしだ。私は人間ジャンキーとも言えるような感覚を覚えた。全てが上澄みだけの関係に転化されていくような、そんな感覚。けどもなんとかそこから抜け出そうともがいたのだが。わたしの知性も随分と死んでいったように思えてならない。なぜだろうか、「悔しくてならない」なんて言葉は書きたくもない。早くあれ、もっと早く。その場に居ながらも、そこから逃れるような、もっと早く。そのような言葉が口をついて出る。自分自身も浅い人間になったと思う。何かを書き綴ることに関してのブランクか。或いは、本性が現れたのか。機微を素早く享楽する。いまだに函館の美しさには気が付かない。当然だ、ここから動かないのだから。西和賀の路傍を玩味したい。けども捨て去るように。捨てるというには、代わりがあるから、代替できるから言えるのだ。しかし私は一体何を代わりににするのだろう。分からない、今まで美しいもの、綺麗なものを見過ぎた。これは幸福な喪だ。
 
 あれやこれやと行ったり来たりしているようで、その実、何が行き来しているのかは定かではない。
    「春の日や あの世この世と 馬車を駆り」
何を私は駆っているのか。すったもんだの押し合いに帰結されていくような、そんな頭の中。ここに来て、肌触りを意識できなくなった。なんでだろうか。いつだってそのことが私の第一感覚であり、所感であったのに。何を話せばいいのか、そんなことばかり考えるようになっていた。何を思うのかではなく捏造にさえ立ち入るような。

 昨日今日と函館はひどく冷えた。雪も降っていた。けども幸福さはなかった。内と外の境界線が意識され、その一線を守ろうとするそのような心のみが働いた。意味から逃げたい、もう一度逃走線を引きたい。そのような逃げ道たり得るようなもの。レーションのような、或いは捨てられたばかりの三角コーナーの生ゴミのようなもの。ここで決して叶わない冷凍睡眠と腐敗、発酵、そして分解をこのバラック小屋のようなラボラトリで試みたい。

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