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大野くんの言う、歴史の中の「自分のパート」というのは歴史の中における個人の役割ってことなのかな?
それとも、もっと抽象的に捉えた歴史に対する個人の行動の意味みたいなことなんでしょうか?
そして大野くんの言う「歴史」という言葉が指し示すものについても、どういう意味なのか聞きたいなと思いました。
教科書で習うような、現在の人間の生活に続く時代の潮流や文脈を明確化させるためのできごとの羅列なのか。フランシス・フクヤマがいうような人間の政治体制や思想の進展についてなのか。史料として残されることのない個人的なできごとや物語なのか。それとも過去から現在を経た、未来的な指向を持った言葉なのか。はたまた人間的な視点から乖離した、もっと異なる次元でのできごとなのか。「歴史」と一言で言っても色々あるなと考えてしまいました。

僕もある意味、「歴史」というものに向き合っていると思っています。それは思想の変化という意味においてで、それを象徴する具体的なモチーフがある風景に対してのアプローチだと考えています。僕は風景を撮影すること、またそれらに編集を加えたり、物としてアウトプットする際に意味を加えたり、変えることで作品にしています。けれど表現の手法の新しさを求めた時に、意味を加えたり、変える表現について、もっと違う姿勢を持つべきだと思いました。僕の表現はモンタージュという手法とそれが作り出す「意味」を物語と合わせるというのがベースになっています。これまでは映画を作り、ドキュメンタリーを作り、写真をコンクリートにプリントしたものを複数枚並べてみたりという表現をしてきました。それらを意味のレイヤーで言語化するならば風景に物語を重ねたり、ひとつの物語をふたつの風景に与えたり、物語を解体した一部を象徴的なものとして扱うことで風景や、風景が持っているナラティブにアプローチしてきたということになります。けれど物語やナラティブに対しての姿勢が、いまひとつ納得いっていない気がしていて、そこに新しさを求めています。いま思い付きで書いているものの、これは大きな課題になっています。

制作では物語への姿勢を今一度考えている段階ですが、日常では物語への興味が薄れています。というよりも物語を邪魔なものとして考え始めました。それは自分ができごとの意味や象徴性といった構造を重要視しているからで、直感的に言葉にするなら構造のレベルでの暴力と感情のレベルでの暴力は異なり、構造を組み換えるためには、感情的な暴力を肯定する瞬間があるということです。これについてはもう少し思考を深めたいところです。

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