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大野君のコーディネーターとしての仕事みてみたいです。具体的にはどんな役回りだったのか知りたいですね。そしてhaziのオープンおめでとう!

ぼくは一年以上制作活動をしていません。ふとした時にアイディアをメモに残していますが、表現について自分のなかでゆっくりと大きく転換するものがあったので、そちらに身体の調子を合わせている感じです。思考はさまざまな事項が同時進行していて、いくつもの抽象的なモチーフが乱雑に浮かんでいますが、これらはぼくにとってはひとつのテーマのようなのです。なので今回はまとまりのない短文をいくつか返してみようと思います。


ぼくはディストピアを生き抜く技術のことを美術と定義する

①まず初めにぼくは表現者として、制作だけではなく発言やSNSの投稿を含むすべての表現が具有する政治性について考えた結果、何も発信できず、ただ口を噤むことしかできなくなっていました。これは表現についての大きな転換の途中段階に自分がいることも重なっていたと思います。しかし、今後も表現を続けていくうえでぼくはユーモアを必要としています。

②これからの時代は、どう転んでもディストピアになると考えています。自身の制作に準えるなら、夕凪が終わって夜が始まるのです。ぼくはその夜をネガティブなものと考えてきましたが、どうやら必ずしもそうではないようなのです。世界の人口が78億人を超えた今、人類は課題を先延ばしにしながら資源を食い尽くすか、人口を削減して相対的に使用可能な資源を増やすかという二択を迫られています。人間が活動を続けていくうえでのひとつの限界がもうすぐそこまで来ているのです。そのディストピアの中をどのように楽しく生きることができるか、そこに宿るポジティブが、そのユーモアこそが夜を生き抜くための技術になると考えています。


ゾンビ・ゴースト・フランケンシュタイン

③最近はゾンビ映画の変遷に興味があります。今でこそ、ゾンビは感染し増えていくイメージがあるけれど、元はただの生ける屍の怪物でした。それは土葬した遺体への恐怖の表れだと思います。そこからドラキュラが嚙みついて血を分け与えることで仲間を増やすという特性を引き継いで、ゾンビが噛みついて増えるという描写がされるようになりました。さらに時代が進み、ゾンビが持つ細菌やウイルスに感染することがゾンビが増殖していく原因という表現に変わりました。そしてそれの対抗策として抗体やワクチンが描写されるようになっていき、ついにはゾンビから人間に戻るような描写がされる映画もでてきました。もし、自分がゾンビになったとして、自分の身体を勝手に動かすゾンビのことを他者と捉えるならば、自己の身体は常に他者性を孕むことになります。

④『攻殻機動隊』という漫画を原作としたアニメーションのシリーズでは、”ゴースト”という概念が存在します。それは自我の核となるようなものを指し、人間のサイボーグ化や、人工知能の技術が進む世界で、入れ替え可能な身体を動かす自我の存在をどう証明するのかという問いへつながっていきます。作中では人間の自我をコピーする技術や、人工知能の個別性の獲得など、自我の認識を拡張するような描写が多くでてきます。入れ替え可能な身体とはゾンビにも通じる概念で、ゾンビとして死んだ自分の身体と、それを眺める自分の幽霊=ゴーストとの出会いのようなものも想像上では可能なのです。

⑤フランケンシュタインの原題は「フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス」です。フランケンシュタインとは人間を作り出し、人間に火を与えた神であるプロメテウスに例えられているように、怪物を作り出した科学者の名前なのです。普段ぼくたちがフランケンシュタインと呼んでいるものは名前もない「怪物」と呼ばれる存在です。しかし怪物は理想の人間の創造のため、盗み出された死体と化学と錬金術によって生み出されました。優れた知性や心を持ちながらも、容姿があまりにも醜いために人々から恐れられてしまうのです。フランケンシュタインは初めて火に出会った時に、火は食べ物を調理することで味を良くしたり、身体を温めたりする一方で、人を傷付けることもあるという両義性に気付きます。プロメテウスも人間に火を与えることで人々の生活を豊かにした一方で、人間が争いのために火を使用したことでゼウスの怒りを受けることになるのです。この両義性はディストピアを生き抜くユーモアに通じると考えています。

*この文章を推敲している間に、ロシア軍によるウクライナ侵攻が始まってしまいました。より一層ぼく達はこのクソみたいな素晴らしい世界を楽しく生き抜く技術を求められているように感じます。

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