見出し画像

「JOKER」を2度観て。

アカデミー賞発表ですね。
作品賞ノミネート9作品。

『フォードvsフェラーリ』
『アイリッシュマン』<Netflix作品>
『ジョジョ・ラビット』
『ジョーカー』
『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』
『マリッジ・ストーリー』<Netflix作品>
『1917 命をかけた伝令』
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』
『パラサイト 半地下の家族』

観たのは

『フォードvsフェラーリ』
『ジョジョ・ラビット』
『ジョーカー』
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』
『パラサイト 半地下の家族』

結構観てるというか、Netflix作品除いて、日本の公開作品は全部観ている。

『フォードvsフェラーリ』
は簡単に感想書いたし、

『パラサイト 半地下の家族』は改めて、
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』も同様。

重要人物 マレー・フランクリン/ロバート・デ・ニーロ

にて、言及しつつ
『JOKER』のキーになる、『キング・オブ・コメディ』『タクシードライバー』のこともね

『ジョジョ・ラビット』は『JOKER』観る直近に観た。
記すのは改めて、

ジョーカー/アーサー・フレックとバッドマン/ブルース・ウェイン

よくよく考えたら、
ダークナイト3部作では

バッドマン/ブルース・ウェインは『フォードvsフェラーリ』の”ケン・マイルズ”を演じたクリスチャン・ベイル
彼のケン・マイルズとバッドマン/ブルース・ウェインとの印象の差は言うまでもない。

ジョーカー/アーサー・フレックのホアキン・フェニックスはスパイク・ジョーンズの『her/世界でひとつの彼女』の主役セオドア・トゥオンブリーを演じている。
『her/世界でひとつの彼女』は以前観ていたのだが、全く同じ俳優さんであると気づいていなかった。
気づいて、同映画を見直してしまった。
余談だが、AI(サマンサ)の声はスカーレット・ヨハンソン
『ジョジョ・ラビット』主人公ヨハネス・"ジョジョ"・ベッツラー(ジョジョ・ラビット)の母親ロージー・ベッツラーを演じている。

階段

画像1

ひとつの見せ場とされる階段。
踊るシーンが有名であるが、その踊るシーン以外は
2度アーサーとして上り、
ジョーカーとしては踊り降りている。

階段だけでなく、アーサーは冒頭を含め走っている描写が多い反面、
ジョーカーはゆうゆうと歩む。

2度目の方が疾走感があるように感じた。

一度観ていたので、大方の流れは覚えているし、
そろそろアレだなと思いながら観ていたので、ゆうゆう観れるかなと思っていたのだが、
1度目しっかり観た感覚があったのだが、2度目は疾走感を感じながら観ることが出来た。
ボクはジョーカーにはなれずアーサーなのかもしれない。

画像2

アーサーは狂気の”瞬間”を除いては常に心優しく気弱なアーサーなのだ。

現実と妄想の間なく表現され、アーサーを擬似体験できる没入感によって生まれる、壮大な裏切り。

虚構と現実の間が見えないことで、正義と悪の間も見えづらい。

多くのジョーカーは武器を持たず、バットマンと対峙するが、
アーサーは拳銃を持つ。
拳銃を持つことで弱さから解放されるわけでわなく、
弱さと寄り添い生きていく。

ジョーカーに生ることはアーサーの死ではない

ジョーカーに生(な)ることはアーサーの死ではない

ジョーカーになることでアーサーは消えないし、死なない
あくまで狂気の一瞬に過ぎない。
もし、アフターストーリーを描いても、アーサーが死してジョーカーにはならないであろう。

put on a happy face
俺の人生は悲劇だ いや 違う 喜劇だ

彼はJOKERとしてではなく、もちろん道化師(ピエロ・クラウン)でもなくコメディアンとして生きたいのだから。

ボクもアーサーほどではないが、社会に適応できていなかったり夢と現実の狭間で打ち拉がれている

「この人生以上に硬貨な死を望む」
“I hope my death makes more cents than my life.”

精神障害を持ち合わせていない(と思っている)が”人々からは普通の振る舞いを期待されること”は最悪かもしれない。

「君には理解できないだろうね。」と言わずとも、思って生きている部分の多い。

「善悪を主観で決めている」世の中で「ずっとハッピーなのは難しい」


さぁ、アカデミー賞作品賞の栄冠はいかに


この話はこんなところで

気にいていただいたり、興味を持っていただいたり、いいなと思っていただけたらサポートいただけると大変嬉しいです。 サスティナブルなコーヒーワークの実現に役立てます!