【俺は差別をしているのかもしれない★子どもの権利】

なんで日本では?30年も経つのに子どもの権利条約が社会に浸透しないんだろう、、とか最近モヤモヤ考え続けています。

答えに辿りつく気配はまったくない。。
夜中3時に目が覚めたわ。

ただ、ここんとこ感じるのが、俺は子どもの権利が確立されるべきだとかエラソーに言ってるけど、大人も子どもも人格は平等だという前提に立つ以上、そう言ってる俺ら大人の側が単に子どもを差別してるだけなんよね。
大人の側が「(自分は子どもを)差別している側だ」という自分の“醜さ”を自問自答するところがないと、何もはじまらないような気がします。

で、こんな「子ども差別」って、被害者である子どもが時間が経つと自動的に大人になり、いつの間にか大人として加害者側に回るという構造があるので差別が顕在化されにくいのかもしれない。
被害者として感じていた気持ちが、加害者としての体験を重ねる中で自身を正当化するように打ち消されていくみたいな。
だからいつまでも問題が世間に浸透しないんかなと。

オレも放っといたら誠志郎のこと(大人相手だったらしないような)無用な子ども扱いしてるもんね。

俺自身が「子どもの権利の確立を願う正義のキラキラ大人」みたいなチープな世界観から脱しないと先に進めないんだろうなと感じるただ今、午前4時。

もうひと眠りするか。

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