【総括の日は近い!?★九弁連シンポでのガッコウの話】

昨日は誠志郎の学校の懇談会。

学校に行くと誠志郎がクラスの話し合いを取りまとめる「議長」の役割をしていました。
クラスは1〜6年の混合だけど、議長をするのはだいたい6年のうちの二人か、3年の誠志郎という感じらしい(議長はクラスで順番に回すが、嫌な人はパスしても良い。パスしないのが20人ほどのクラスでこの3人らしい)

「まー、進め方は6年の二人の方が上手くて俺が一番下手なんだけど、議長する?って言われたら、他の子は結構断るけど、俺は断らないようにしてるんだよ。りゅうさん、まりちゃんもちょうど俺が議長してるところを見られて良かったね」とのこと。

誠志郎が議長として、クラスで飼っている馬の朝、昼、晩のお世話係について、低学年か高学年か、寮生か自宅生か、それぞれの枠の人数バランスも考慮しながら決めてました。

あと「連休明けの授業計画を今話し合うか、それは連休明けにして今は自由時間にするか」も子どもたちで話し合われ、自由時間とすることが満場一致で決まっていました。笑

この学校は
・どのクラスに入るかも自分の意思を示して話し合いで決める
・どの授業を選ぶかも自分の意思を示して話し合いで決める
・その授業をどう進めるかも自分の意思を示して話し合いで決める
・学校内でどう過ごすかのルールも自分の意思を示して話し合いで決める
と、やたら自分の意思を示すことが求められるし、やたら話し合いが多いので、子どもたちはひたすら大変だろうな、、と。

で、僕は彼が入学した当時、
・小学生でも髪を染めてる子も、マニキュアしてる子も、化粧してる子もいる。
・授業でツリーハウスを作ってる。
・クラスで馬を購入し、その代金の一部を自分たちでなんとかする
・市内の会社に子どもが電話してアポを取っている
・授業でマイペースに焚き火してる子がいる
などなどを見て、「なんて革命的な学校なんだ!」「俺も行きたい!」と興奮していました。

でも、実はそんな興奮を示す自分にどこか違和感がありました。

憲法や法律などを学んだハシクレとして、
・髪型をどうするかとか服装をどうするかとかは個人の自由。余程じゃないと他の人の人権と衝突するわけでもないから自由なのは当然だよな。
・何かを学ぶってことは、生存権的社会権の側面があり、その子の人生を左右するものであるから、そこに子どもの意見を表明して、話し合いで決める(全てその子の好きにするというわけではない)のは当然だよな。
・いろんな人が一つの空間で過ごすためにいっぱい話し合いをして合意形成のプロセスを学ぶのは民主主義の基本だから、当然だよな。
・憲法的には「子どものため」という理屈での子どもの人権へのパターナリスティックな制約は限定的にされるべきとされているから、学校でもおとなが子どもにいちいち言わないのは当然だよな。
・子どもの権利条約では、子どもに影響ある全ての事項に対して子どもは意見を表明する権利があり、それを尊重されるとあるので、それに忠実なだけだよな。
との結論にしかならないのであり、むしろ「俺はなんでこんな当たり前のことを“革命的”だと感じてしまったのだろうか?」という気持ち悪さだけが残ってしまったのでした。

この間、秋のシンポに向けて、コロナの制約もあり思ったほどは見られなかったけど、いろんなガッコウ(いわゆる一条校を“学校”、それより広いフリースクールなどに分類されるものも含めて“ガッコウ”としてます)の実践を見ました。
すると僕の気持ち悪さは的中で、むしろ上で当然と指摘した内容に従って運営されてるガッコウは決して誠志郎の学校だけではありませんでした。

子どもの自己決定や主体性を信頼して運営してる学校や教員単位での実践は、まだ一部ではあるけど、私立だけではなく、公立でもあります。
中には子どもの自己決定をより進めて「そのガッコウに誰が入学し、誰を退学にさせるべきか」も子どもに決めさせようと試みているガッコウもありました。
子どもの自己決定や主体性を全面的に刺激する、まるで海外の大学というか、ビジネススクール?のような超絶な授業を展開している公立の中高一貫の学校もありました。
だいたい、文科省も経産省も、上の方は、子どもの主体性とかそんなことをどんどん言い始めています。

何が言いたいかというと、誠志郎の学校を見て僕は「革命的」だと感じたわけだけど、まったくそんなことはない。
誠志郎の学校は当たり前のことをしてるだけで、何も特別なことではない。

よりラジカルな試みをしているガッコウ、さらには学校も多くあるのであり、昨日は久しぶりに誠志郎の学校に行き「ホント、他と比べると当たり前の普通の学校だよな」と些か冷めた目で見てる自分がいました。笑

要は「俺が知らなかっただけ」「これを革命的だと見えてしまっている俺や同様のおとなの視野が異様に狭くなっているだけ」ということなんだろうと思います。

あと「そのおとなの視野の狭さで苦しんでいる子どもがいるなら、なんて不幸なことなんだ」「(この点には僕は批判的な気持ちも抱くが)よりラジカルな取り組みをしてるガッコウ、学校でははるか先の時代を見据えていて、子どもの自己決定や主体性に対する刺激の仕方が半端ない。いずれ圧倒的な違いが出てしまうよ(ホントに凄い)」とも実際に少し現場を見ただけでも感じました。

さらに視点は変わりますが、僕は朝鮮学校に触れてから、自分の知っている学校とは違う、もっと色々なガッコウがあるんだと「扉をノックされた」わけですが、朝鮮学校の教育実践は、
・朝鮮民族としてのアイデンティティを意識しつつも、
・日本人である僕が経験した学校にかなり“寄せている”(カリキュラムはハングルを使うなどありますが、内容としては日本の学校での当たり前の進め方をかなり意識している。)。
・全体として、こんなにも幅広いガッコウがあり、ラジカルな教育的な取り組みもかなりのウィングの幅が存在する中で、こんなに日本の当たり前の学校に“寄せている”朝鮮学校に対して、なんで日本政府はこんなにも不寛容なんだ??(単なるヘイトだろう)
・朝鮮学校はもう日本の“学校”なんて目もくれず、朝鮮民族としてのアイデンティティを教育の面でももっと爆発させていいんじゃないでしょうか?
との思いを抱きました。

話を戻すと、今後の考え方の当面の軸は法律論的には「学校における子どもの意見表明権を確立させる」ということになるのだろうと考えます。

で、学校で子どもの意見表明権を確立させるためには、それに対応し、子どもの意見を尊重しなければならないという高度に専門的な知的業務を求められる教員の体制確立が重要だと。
それは20人以下の少人数学級の実現だったり、教員の労働環境の改善、そして教員の専門性を社会として大事にすることなんだろうなと。

僕は教職員組合の仕事をしつつ、今までの働き方改革の議論が現場(教員も含めて)にあまりウケていないように思えるのはなぜか?と考えた時の突破口に「正しい子どもの権利論」があるのではないかとぼんやりとイメージしています。

今、学校では、ICT活用とか言ってタブレットの導入とかしてて、それはそれで効率化に資する面があります。
ただ、効率化、教員の負担軽減だけで議論が留まると、学校における「子どもの意見表明とおとなによる尊重の日常的な関係性」はより陳腐化するだけで、ますます子どもの自己決定、主体性を刺激して、ラジカルな取り組みをしているガッコウとは大きな差がついてしまうのではないか?と感じました。
やってるところはそんなレベルではない。

ICT活用等で効率化された面を、子どもとの充実した関係性構築のため(よりたくさんの詰め込みではない)、子どもの主体性の尊重と刺激のため、どう活かしていくかという視点がみんながハッピーになる共通項かなと。

僕はその中で学校の中で「子どもの意見表明」を信頼して活かすという視点(当たり前のことの確認)、それに対しておとなの側がどう変わるか、どう体制を整えるかというのが確認すべき事項になると思っている次第です。
子どもを信じる。で繊細な子どもの世界で日々対峙しないといけない教員の皆さんの働き方を改善して専門性を信じる、担保する(周りのおとなや社会ももっと色んな形を学んで、歪なことを求めない)みたいなオチになるのか??

総括の日は近い!?(まとまるのか??苦笑)

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