願いはきっと届かない。でも。


有名アニメ会社のビルで放火事件があった。アニメにわかの自分でも、圧倒的な作画力で人気を博していたことぐらい知っている。最近で1番好きなアニメもその会社が制作していた。映画化はどうなるのだろうか。

今回の事件に限らず、多くの人の命が失われる、ショッキングな事件や災害が起こるたび、「犯人を許さない」という怒りの声や、「被害者の方を支援しよう」という励ましの声があちこちから聞こえる。SNSが普及した現代だからこそ、声を出さなくても「声」を発信できる時代になった。

今回のようなことが起こるたび、私の心に真っ先に降りかかるのは、怒りや励ましではない。圧倒的な無力感である。

「どれだけ皆が努力しようと、このような悲劇は繰り返される」

随分と悲観論的である。不謹慎でもあるだろう。でもこれは、紛れもない事実だ。

どんなに防災をしようとも、大波は容易く街を飲み込む。どれだけ愛情を注ごうとも、大量殺人者は出現する。地球のエネルギーや、異常者の暴走で、私たちの生活は簡単に壊されてしまう。

こんな世界を、私たちはどう生きればいいのだろうか。そんなことを、よく考える。一生答えが出ることはないだろう。こんなことを考えるようになったのは、震災の記憶が未だに脳裏にこびりついているからか、同級生が自ら命を絶ったからなのか、はたまた生まれ持っての性格か。それはわからない。でも、私のような人間は、きっとどこかにあるだろう。根拠はないが、そんな気がする。

 日本人の大多数は信仰を持たない。それは、生まれた瞬間から特定の宗教に縛られることがないという意味での自由を保障する。だが、それ故に、絶望の淵に立たされた時の心の拠り所が求めづらいことも確かだ。神の声に従う必要はないが、神に自分の声は届かない。無宗教に起因する倫理観の箍の緩さが、日本で猟奇的な事件が起こる1つの要因になっている、という私の考えは、どうか間違いであって欲しい。

信仰を持たない私たちは、絶望の中で何に願えばいいのだろう。何に祈ればいいのだろう。

私は、こう考える。

願いや祈りは、相手に届けるものではなく、その行為を通じて自分自身を救うものなのではないだろうか。

何かを願う、祈る。それによって誰かが戻ってくることはないだろう。きっと世界に何の変化ももたらすことはない。だが、それによって自分の心は、絶望から抜け出す一歩を踏み出せる。

願い、祈り、心。これらは全て、目に見えない。だが私は、目に見えないものも信じたい。これらを言語化、概念化、或いは偶像化したものが宗教であるならば、私たちの願いや祈りは、かたちを持たずとも、とてつもなく大きな意味を持つ。

だから私は、願い、祈る。

いつだったか、大きな音楽イベントでとある歌手がこんなことを言っていた。

「音楽で人を救えるわけがない。(中略) 私の音楽は祈りです。」

ここまで書いた私の主張は、明らかに不完全だ。目に見えないものを言語化するなど不可能だからである。いつだって、文字と文字の間から、書き手が伝えたいことはこぼれ落ちてしまう。それでも私はこの想いを伝えたいと思った。たかが一介のしがない大学生の戯言である。この駄文を読んで、世界の誰かが目に見えない何かを感じ取ることがあるとするならば、私は幸せだ。でも、誰にも届かないとしても、私の心は少し前向きになるだろう。

世界中の願いに、祈りに、最大限の敬意を。










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