見出し画像

大学四年になって学んだこと(立教新座→ICU)

だらしなくて余裕がない、、、

やらなくてもいいことをあえて自分から選んでやるのはやっぱりつらいなぁ、きついなぁ、たいへんだぁ。ネガティブな感情ばかりが溢れてきて、自分が成長するために努力できてることをプラスに捉えて前に進みきれない自分がいる。今これを書いてる最中も、言葉でまとめておきたいなってルーズリーフにメモしていた紙の束がずっと机の上にあって、捨てて忘れ去ることもできたけど、やっぱりやらなかった後悔はしたくないし、それを言葉にして記録することで後で自分が見返せるようにしときたかったから、やっとのこと重い腰を上げて原稿に取り掛かってる。

思索の掃き溜め

決してこれはやるべきことの優先事項の高いところにいるものじゃないし、なんなら他にやるべきことあるし、右肩はなんか凝ってて痛いし、顔の額は肌荒れでニキビができてて痛いし、思考がどんどん悪い方へと流されっていてる中、頑張って書いてる。

高校3年間の定期テストをしまい込んでたファイルを取り出して

ホリエモンの『捨て本』を読んで、モノに対する執着は自分はないもんだと勝手に「優越の錯覚」に酔ってたけど、考え直してみるとモノや過去の栄光にばかり拘って、すごい身体の動きが精神的にも、肉体的にも鈍ってたなぁって気づいたから、自分の部屋の断捨離をした。そしたら、高校時代の定期テストを全てまとめてたファイルが出てきて、ふと自分が高校生としてどんな人間だったか考えてみた。そして、いろいろ気づきがあったからまとめていこうと思う。

高校3年間の中間、期末テスト

気づいたことをまとめると2つ。
1)日頃から”考える”ことをしてなかった。
2)教員も別に自分と同じように高校生だった。そんな同じ人間の彼らがそれぞれの道を歩んで異なる教科を教える’先生’っていうバイトについて、たまたま同じ箱に固まってるだけ。

ほんとに高校までは相手に言われたことを、自分で咀嚼して考えることなく、ただただ目瞑ってはいはいいって機械的にこなして、相手のご機嫌をとってるだけのつまらない人間だった。自分の中では高校から大学への進学が大きなターニングポイントになった。自分の物事の捉え方が大きく広がった転換点だった。
高校:従順で替えのきく、度胸のない都合いい捨て駒
大学:自分を大事に。周りに合わせない、ずれていく。そのために、”自分で考えて”、行動して、必要なマインドセットは鍛えて、毎日トレーニング。自分磨き。「周りの環境は道具

毎回、実家に帰ると感じることがある。自分は両親に金銭的にも、精神的にも、生活的にも守られすぎていたなと。これは幸せなことなんだけど、自分のためには全然ならない。与えられたものを口を開けて待つんじゃなくて、体を動かして鷲掴みしていく貪欲さ精神の図太さが、この世で生きるのに必要だから。
一人っ子で甘やかされて育ったから、気づくのがだいぶ遅かった(高校二年くらいかな)けど、これに気づいてから色々なものが腑に落ちた気がする。
全員これなんよ↓
「どこの馬の骨かわからねぇ、そこら辺の輩で10分たちゃあ忘れ去られる存在」

大学に入ってから

大学に入ってから、高校の99%の時間を「お勉強」に使ってきた自負のある自分が周りと比べて実は中身がすっからかんだったことにすごいショックで、中学・高校のお勉強の延長に過ぎないような授業には飽き飽きして(っていうのが率直な感想)、人として必要な素養を自分で磨く努力に専念した。授業で教えられること以外の部分にあえて多くの時間を割いて、考えを巡らすうちに「学問」を大局的に捉えられるようになった。

高校では、脳死でひたすらに板書を丸写しして暗記。
大学の授業では、授業中、「教授が言ってることのここは筋が通ってるけど、あの部分は自分はこうだと思う」みたいな批判的思考力を意識した。
頭を悩ます時に脳がカロリーを消費するあの感じ。考えに考え込んでるんだけど、一向に前に進んでる気がしないあの感じ。
西欧の国の授業ではたぶん中学や高校からこういう自分の頭でオリジナルの考えをひねりだしてそれをバトルさせることを頻繁に授業中にするんだろうなって思った。そりゃ、自分の軸が定まってくるし、話し合いも建設的なモノになる。
(海外)自分なりの考えを持って、それをぶつけあえ。特徴をもて!
(日本)みんな前ならえ、平均をとれ、満遍なく、没個性


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?