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徒然草

大学三年になる頃、たぶん一番こころがぶれぶれのとき

2022年の3月、この時期は世界の大きさに対して自分の力のなさ、存在そのものの小ささを一番感じた時だったと思う。2020年に大学に入学したときは、コロナの感染者が日本でも出始めて、世界全体がロックダウンしたり、時短営業したりして右も左も分からない状況であたふたしてた。そんな中、大学一年のスタートは慣れないままZoomでオンライン授業して、それが一年がっつり続いた。2年目からは感染者数の推移が大何波とか言って急増化したり、落ち着いたりを繰り返して、2週間後にグラフは反映されるから、祝日が重なった長期休暇は気をつけようみたいに、お互いがコロナ警察するっていう年で、大学の方は相変わらずずーっとオンライン授業。そして、大学2年も終わりに差し掛かってて、3年になる頃に色々悶々としてた。

まず、大学生活がコロナの影響をもろに受けて、刺激のないオンライン授業を延々と、他の学生とキャンパスやその外でご飯食べたり、遊びに行ったりする社会的交流が全くない中、年間に150万払ってる意義が感じらなかった。そしてでもそれに対して何かできるわけでもなく、そのストレスのかかる状況に自分から能動的に変化を起こすことができなかったことがすごい歯痒かった。
そして、ICUの学生のバックグランドの多様さと国際さにすごい圧倒された。やっぱりそこから英語力や物事を考える視野の広さや自分の形の芯の通った個性的な意見などの、自分が18年間生きてきて想像すらしなかったような経験値を持ってる人たちに急に囲まれて、よく言えば多様な学生層の中刺激を受けるってことなんだけど、内実は鶏口牛後で言うところの牛の尻のほうに押し倒されて、悔しかったし驚いたし落ち込んだ。

自分のまだしっかりとした芯が固まってなかったからこそ、他人との比較で一喜一憂して、自分の足りないところばかりに目がいく、そんな大学3年生に差し掛かった頃に、自分の当時感じてた頃をメモアプリに書いてたから、ここでシェア。今見ると、自分の相対的に低い能力ばっか気にして、周囲からどう思われてるかに気を遣って、「自分が持ってる駒を最大限に活用してのし上がっていく」みたいなマインドセットに慣れてなかったていうのが反省。

March 7, 2022
様々な生き方があっていいと思う、たまたまYouTubeで観た動画で尾崎豊が言っていたこの言葉がこれまでの人生で一番深く自分の心の中へ浸透していった気がする。なぜだろう?たぶんまさに自分の人生どう生きようか、迷い、悩み、他者との差に打ちひしがれながらこの広くて小さい世界の下で自分のありようをずっと心の内側の奥深くのところで考えこんでいた(今も考えている)からなのかもしれない。そしてまた長渕剛の「しあわせのとんぼよどこへお前はどこへ飛んで行く」の歌詞にもやっと(というかこの歌を知ったのはすごく最近だけれど)本当の意味で自分自身をつなげることができたように思える。
自分が体の内側ずっと深いところで疑問に感じていたり、こうだと信じていたりするものがいくつもあって、それらのどれかと言語化された歌詞とを結びつける感覚。だから、字面の意味を言語的に理解する以上に、情熱の薔薇が咲いてる心のずっと奥の方に具体化、抽象化それぞれが半分ずつくらいなされている流動的(根源的?)なものが言語という歌詞の型に流れ込んでいくようなそんな感じ。最近、リズムよりも歌詞の意味をより大切にしながら音楽を聴いて、どこか漂流している心に安心感を持たせてくれる歌はいつもそういう感覚を覚えさせてくれているのかもしれないと今書きながら考えて思った。
人生の誇りとして掲げられる生涯を通じてやりたいこと、そしてそこから見出される自分の存在意義のようなものは今この段階では皆目見当もついていなくて、そんな自分のよりどころとして尾崎の言葉は働いているのかもしれない。それは「様々な」が幅広くいろんな意味を帯びていてその範囲がすごく曖昧で、この先のどんな形の自分も包み込んでくれる安心感を与えているからなのかもしれない。そして、五体満足に生まれ経済的にも政治的にも安定し大きな苦労がない人生だからこそ、しあわせの意味がつかみにくくて、長渕の歌詞はそのとらえきれない、わかったようでもどこかまた遠くへ行ってしまうそんな自分の苦しさだったり悩みだったり苛立ちを、夏になれば当たり前のように見る、しあわせのイメージの持たないとんぼという意外な組み合わせの比喩で表現してくれたことに印象を強く持ったんだと思う。
ひとり孤独に物事を静かに考えてる時と友人とともに大きな声で笑いながら過ごしている時とで思考の幅、深さ、水準、透明度がまるで違うのが不思議だなぁ。おそらく人って恵まれていたり楽しかったりして満ち足りているときはほとんど頭を使っていなくて、周囲と自己とを一歩引いて深く思索するのはいつも心がどことなく沈んで一人寂しく冷え切っているときなんだ。

あとがき
May 9, 2023
このメモを振り返って思ったことが2つ。
1、言葉ってやっぱりすてきだなぁ、、自分が過去のある瞬間に何を考えていたのかが固定される。新しく自分の広がった価値観、改めて感じたことが、できたてホヤホヤのときに言葉に固定されるから、そのときの純粋な気持ちや考えを再確認できる。

2、ひとって、思い出せないだけで忘れてるわけじゃないんだよな。一年と2ヶ月まえのことぱっと思い出してって言われても、その間の一年間が濃いほど、いろんなことがあったからすぐには思い出せないもんだけど、その時に書いた文章を読んでると、自分が当時どれだけ他人と比較して、自分の置かれた状況やこれまでのバックグランドの違いからそのとき現れてる力の差を、これまでの境遇のせいだと心の中で言い訳しては、一人勝手に落ち込んでたな、っていうのが手に取るように感じられる。落ち込んだところでもう違いとして現れてるんだったら、もうそれは逆には戻せないんだから、その状況を毎日の自分だけができる積み重ねでどう埋めてくか、またはどんな力を自分なりにつけていくかに思考の重点を置いて、さっさと行動に移すべきなのに、、、
こう、冷静に分析して行動に移すマインドセットができてるってことは、それだけ一年前の自分よりも自分の中の芯がしっかり出来上がってきてるってことで、まぁこれはうれしい成長ですな。

これからはもっと的をいた適切な言葉の選択、シンプルで無駄のない表現をできるように毎日の積み重ね大事にがんばろ

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