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人生を振り返る

少しずつ前を向き始めた私
過去からの罪悪感、トラウマ、自己肯定感の低さ
いろいろな自分が変わりつつある

それは出会う人が変わること、自分が変わることを自分に許したから

ずっとどう手をつけて良いか、どう向き合っていけば良いか、分からないことを書いてみようと思う

自分の生い立ちから、順に書いていこう。


私の幼少期から思春期にかけて


私は、両親と3人の弟の6人家族で育った
景気が良かった頃は、父の仕事も順調で家族仲も悪くなく、毎月ディズニーランドへ行ったりと、楽しい思い出も多い

しかし、小学校中学年くらいからだろうか。
父の仕事がうまくいかなくなり、父は10年間ニート生活をしていた

2DKの団地の一室にこもり、ひたすら倉木麻衣を聞きながらゲームしていたイメージ

たまに仕事へ行っていた気もする
記憶の中では、ほぼニートだ

母親の稼ぎで成り立っていたという印象
夫婦喧嘩が絶えなかった

母もストレスが溜まるのだろう。
父は昔から女遊びが派手だったようだ
私達が生まれても浮気を繰り返し、母の苦悩を綴った日記を読んでしまったことがある

父の友達と何回か会った事があるが、子供の前で恋人同士、妙にイチャイチャしたり、当時目を覆いたくなるようなハレンチな場面が多かったのを覚えている

そんな父の悪友は、何度も覚醒剤取締法違反で逮捕・釈放を繰り返していた

小学校のころ、父と母が仲の良かった近所の家に行ったことがある

母はいなくて、父だけだ

そのおばさんは母子家庭だったのだけど、精神状態がおかしくなり、「河童が見える」と、包丁で畳みをひたすら刺していた…

衝撃的😱

大人になって母に聞いたが、どうやらそのおばさんと父と男女の関係があったようだ…


母と父の喧嘩は悲惨だった

母が激しく父をののしる
「死んでやる!」とヒモで自分の首を締める

父が「死ね!」とあおる

今度は、母が父のプライドをへし折る

母はボコボコに殴られ、髪の毛を掴まれ階段から引きづり降ろされた事もある

止めに入る小学校低学年の弟は、父に殴られ鼻血を出したことも。

私は、喧嘩が始まり出すと近所の親戚の家に駆け込んだ

深夜、親戚を連れていけば喧嘩はおさまる…

その繰り返し。
いつまで続くのだろう。

当時、それでも父と母も良い時もあり幸せな時間も多かった

家族でドライブしたり、母が手作りのクッキー、ドーナツなどを作ってくれたり、潮干狩りに行ったり色々な想い出もたくさんある

なのに、私の心はたまにどんより影を落とした
小学生にして友達に「死にたい」ともらす私…笑

母はほぼワンオペで育児していて、3人年子の私達の面倒を見た

イライラして怒られた記憶が多い
ご飯を食べるのが遅いと、3人でベランダに出された
ベランダでご飯を食べた。けれど楽しかった記憶もある、私達図太い 笑(1番下の弟はまだ生まれていない)

宿題をやらないと叩かれた
言うことを聞かないと叩かれた
とにかく優しいけど怖い母、そして父
叩かれた頭や頬、ズキズキと痛む

2人で攻撃されるから、なにしろ怖かった!笑

けれど長女の私は、習字・家庭教師・英語・そろばん、習い事をたくさんさせてもらって感謝✨️

当時は、勉強する意味が分からなく、
ただ「やれ!」と怒られるので、仕方なくやるが続かない…笑


中学校の想い出


思春期になると私は、妙にイライラしていた
中3の終わりまでは、水泳部に入り運動に熱中した
この頃は、ひたすら水泳🌊🏊🌊
夏休みは、朝から夕方まで
冬休みは、筋トレと近くのスイミングスクールでレッスン

私の初めての成功体験は、水泳かな

進路も決まり、中3の終わりにして私は中学で悪友ができる

その頃の私と言ったら、家の門限が19時までの真面目な子と仲良くしていた

そんな友達も放れていき、悪友とつるむようになる

売春・セックス依存症・酒あるゆる欲求のまま突き進んだ。

孤独や現状を変えられない不安を、思考停止して欲望に溺れることにより、解消していく…

自分でも分からなかった
どうすればいいのか?
ただ親の言うことを聞くのは苦しかった

「家族が大切でしょ!」
確かにそうだ
けれどお互いがお互いの主張を通し合い、狭い2DKの団地で6人、いがみ合って生活して家族だと言えるのか?

何が家族だ!

当時の私は、ひたすら「死ね!」しか家族に言わなかったらしい…

今でも根に持たれている…笑

私は家にいるのが嫌で家出を繰り返した
長い時は半年ほど
友達やその日限りの男の家を渡り歩いた

今でも忘れない。
17歳の誕生日、私は孤独で夜道を1人とぼとぼ歩いていた
(この人生は、疲れるな…なんか、もういいんじゃない?)


17歳子供ができる


7月、私は子供を出産した
子供は可愛かった✨️
自分のために生まれてきてくれたような気さえしてしまった…💦(なんて傲慢な考え…)

(立ち直ろう!頑張ろう)
そう決意した!

未婚の母だった私は、家族の元で子供を育て始めた(今、思えば家族には感謝しなくてはだよね、分かる)

18歳には結婚して、もう1人子供を出産

幸せな時間も続いた
子供のために、キャラ弁を作ったり、母がしてくれたように保育園の帽子やタオルに刺繍で名前を縫いつけたり(かなり下手だったけど)

私の両親は挨拶にうるさかったので、同じように挨拶を教えた

私の両親は、怒って手を挙げて私に愛情を示した
だから私は、怒る事も愛情だと本気で思っていた
同じようにする…

子供を殴る、蹴る
愛情だもの。

なのに私の母親が怒る
うるさい、同じように愛情伝えてるじゃん

また自分の人生から逃げた

今の多様性のある考え方とか、孫がASD(自閉症スペクトラム)と診断されて少し学んだ今なら、分かる

私も、ADHDとASDだったんだ。
(実際ADHDに関しては、大人になって診断されている)

私は、子育てのイライラからアルコールに逃げた
仕事も続かなくなり、もともと女遊びが激しかった夫とは離婚した


離婚後の悲劇


離婚して、私は風俗で働くことになるのだけど、その時の子育ては悲惨だった

幼い子供を家に残し、飲み歩く
託児所に朝まで預けて飲み歩く
子育てはほとんどしなくなった…
いわゆるネグレクト

私は日中ひたすら寝ているので、保育園の先生、近所の民生員、様々な方が助けてくれた

その時に公正していれば良かったのだけど、私は子供を手放すことになる

実家に預け、その後は元夫の元へ行った


自分のために生きた人生

子供とは、定期的に会ってはいた
有難いことに、私に会いたがってくれていた

アルコールが辞められない私は、仕事もあまり続かなかった

子供達にしてあげられることは、安い店にご飯に連れていくこと、わずかなお小遣いをあげる、話を聞いてあげるくらい。

家族の中で、父がいなくなった後(父と母は後に離婚)父に似ている私と1番上の弟はよく母と他弟に責められた

当然だ!迷惑をかけていきてきたんだがら
ひどいことをして生きてきたんだから。

私は、ずっと幸せなんかなれないと思っていたよ。
家族が言うように、ずっとその後悔をひたすら背負っているよ。

母と弟は、私がそんな気持ちを抱えていることは気付こうとしなかった

子供を捨てた事は、ずっと責められるべき罪だ。

子供が成人した時、2人の子供に当時の事を謝った
謝って許される訳ではないけれど、子供2人が私の謝罪を受け入れてくれている事を肌で感じて、そんな子に育ったことに、周りに感謝した

子供は大切な気持ちはあったのだが、心から向き合えなかった。

罪悪感の方が大きく、どう接して良いのか分からない
家族にも責められ続けて、どう人生を立て直せば良いのか、もう分からなかった

私は身近に手を差し伸べてくれる男と付き合い、私がやるべき事、金銭面などの子供への援助を代わりにやらせ、自分がやるべき努力から逃げていた

金銭面で助けてほしい、
自分を幸せにしてもらいたい、
不安や恐怖を取り除いてもらいたい、
罪悪感から解放されたい

そんな考えで選ぶ男との交際など、ますます不幸になるだけだ。

お互い幸せになれるはずもない…


悲しい悲劇が起こる

私の娘も、紆余曲折あり16歳で子供を出産
非行に走っていた娘、
子供ができたと言い、また相手の男がどうも胡散臭い感じだったので、私も含め周囲は大反対

しかし、子供を産むと強く決意する2人

仕事が続かなく口ばかりだったその男に、元夫が
「ちゃんと職に就いて安定したら結婚を許す」という条件で、娘は実家で子供を育てることになった

しかし、1日も早く一緒に暮らしたい、実家にいたくない娘は、子供と一緒に少し遠い場所にいたその男の家へ行くことになる

まだ未成年だった娘を、迎えに行って連れ戻すのだが、何度も出ていってしまう…

その男は、私達から見れば口ばかりの胡散臭い野郎だったけど、娘から見たら、この彼だけが自分の理解者だと、当時は感じたのだろう。

金銭的に苦しかった娘とその男、そして孫の生活
2人が生活して何年か経ったわけではない

数週間の間におきた出来事

ある日、娘はその男に子供の面倒を見てもらい、ラーメン屋のバイトに出かけた。

そして夕方、帰宅した。

わずか生まれて2ヶ月の孫は、意識不明の重体となり、救急車で集中治療室へと連れていかれた

対面した孫は、顔や腕がパンパンに腫れ上がり、ピクリとも動かない。

顔の原型がないのだ。


その男の証言が胡散臭いと思っていたのは私だけではない

男は乳児暴行死で逮捕された

後に警察に聞いた話、男はまだ生後2ヶ月の孫を泣き止まないからと、首も座っていないのに人形の様に足を持ち、壁に頭を叩きつけ、引きづり回したらしい…

地獄に落ちろ!

身内殺しは、刑務所で1番軽蔑され何度も刑務所に入るベテランヤクザや色々な人から壮絶に虐められるしい。

少しは地獄を味わっているかな…

大きな後悔と罪悪感から、子供と向き合うと決意する。

私は、最後に孫と会った時、引き止められなかったこと
娘の1番の理解者になれなかったこと
負の連鎖で、孫の命を消してしまったこと

全て激しく後悔した
子供達としっかり向き合おうと決意した


娘18歳での出産


娘に彼氏ができた
今度は、笑顔が素敵な性格も良さそうな男
仕事も真面目にやるそうだ!

受け答えもしっかりしている

付き合い始めて間もなく、娘は妊娠し結婚することになる

事件から少ししか経っていないのに、という賛否両論もある

もちろん、事件後、病院から避妊については徹底してアドバイスいただいた

彼と距離をとった付き合いをするように、娘にも私を含め周囲がアドバイスした

24時間監視するわけにもいかなく、娘はまた妊娠する事となった

いくら加害者ではないとはいえ、娘にも事件に関しての責任がある

現在5歳、3歳の子育てをしているが、その後の子育ては大変だ。

2人とも自閉症スペクトラムという少し変わった個性があることに加え、娘も事件後の検査でADHDという事が分かった。

本人や保護者である元夫が拒んだ為、薬服用などの治療は行えなかった

娘の子育ては、事件後7年経った今でも児童相談所・子育て支援課・保育園・保健師

色々な人達が1年で代わり、親身に寄り添ってくれる人もいれば、偏見や先入観から強く当たる人もいた

私が、娘だったらとっくにストレスで逃げ出しているだろう

娘は天然でふわふわ世間知らずな部分もあるが、元夫似で芯が強くブレない軸も持ち合わせている

児童相談所などが教育、聞き取りのような感じで子育てに関わってくださっているが、私も勉強になることが多い。

偏見があったが、心理学とか認知行動学をよく熟知しているのか、行動から見る改善方法、アプローチ方法などを教えてくださる。

娘も徐々に色々な面で代わり始め、たくましく子育てを頑張っている


息子の子育て


息子も早くにして結婚し、子供を授かった

一番、厳しい対応してしまい、申し訳なさでいっぱいの息子への気持ち

息子は表面的には良い子だった
ただ中学、高校など思春期にさしかかる時期、イライラを抱え始めた

私はその時、息子から遠ざかった
向き合うのが怖かったのもあるし、私が近くにいない方がいいと思ったからだ

上記のような事があり、息子とも少しずつ向き合おうと思った

息子が高校を卒業して専門学校に行くころ、少しの期間だが一緒に暮らし始めた

相変わらず私はいい母親ではなかったが、少しでも一緒にまた暮らせて良かった

息子も、複雑な経験をしたからか、家族には異様に優しい

私の母のことも慕っている

母は、あれこれ指図し相変わらず思い通りに動かそうとするが、息子は聞いたふりして距離の取り方がうまい。



そんな息子は、付き合った女性に対して優しいが、嫉妬深く、暴力を振るう一面があった

彼女との交際期間の中で2回DVがあり、一度逮捕されている

逮捕というか、留置所で頭を冷やせ!というもの

専門学校に行き国家資格を目指して、将来有望なのだからと、気づく機会をくれた

この時、初めて息子と向き合う期間だったのではないかと思う

この出来事から、息子は女性に対して暴力をふるわなくなった

その後の彼女と結婚し、今では1歳の子供がいる。
とても可愛がっていて、少し神経質で過保護な面もある

まだ息子の闇は残ったままで、心の奥底にしまい込まれているのだと思う

しかし、子供ができたことで、息子の心がだいぶ解放され、息子の中に愛という感情が育っていることを感じ、私は嬉しくなった

今でも鮮明に、昔の映像が思い出される瞬間がある

自分の幼少期、思春期、そして子供達にひどく当たっていたことなど…。

これからの人生

病気完治した後、勢い余って占い師を目指すことになった

そして自分の人生と初めて向き合って、書いているのかもしれない

人が見たら呆れる人生だろう。

これは、自分のために書いた
自分が前に進むために
もう自分の人生を、人任せにしないために…

向き合っていくと誓う。

心が少し軽くなった気がする。
もう、過去を悔やむのではなく、今から動ける力に変えていこう

息子と娘に感謝を伝える

「ありがとう!」

家族や、出会った人達にも伝えたい

「ありがとう!」






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