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演歌の源流 6

☆中山晋平

歌は流れるあなたの胸に 今歌謡界に燦然と輝くいちばん星 佐藤千夜子嬢唄うところの
♫ゴンドラの唄

司会者の名調子に乗せて歌い手がしっとりと唄いだす。
いまなら、徳光和夫か宮本隆治か いずれ名のある元の局アナ達。
この歌謡曲と言うジャンルも105年の歴史になる。
その最初をどこまで遡るかは識者によって分かれるところ。
小生は、この中山晋平が歌謡曲の流れの正に源流で有ろうと観ている。
大正3年(1914年)に島村抱月が主宰した松井須磨子主演の芸術座によるトルストイ原作「復活」の主題歌として晋平が作曲した♫カチューシャの唄 がヒットした。
中山は明治38年(1905年)に故郷である長野県中野市の尋常小学校の代用教員を務めて上京し島村抱月の弟の縁で抱月の書生として採用されて、東京音楽学校(現 東京芸大)に通う。
芸術座の「復活」は大当たり、主演の松井須磨子の人気もさる事乍ら、須磨子が唄ったカチューシャの唄(レコードでは♫復活唱歌)が大変な人気となった。
抱月は中山にこの歌を依頼した時に「西洋のリードと日本の俗謡の中間を狙ってくれ」と、言ったがそれは中山にとって難しい注文となった。
一か月近く詞に曲が付かず悶々とした日々を過ごすが、或る日代々木練兵場(現在建設中の国立競技場一帯)付近の草むらに横になっていた時、に

…せめて淡雪とけぬ間と
神に願いをかけましょか

の…願い と かけましょ の間に ララ と挟むことを思い付いて💡曲を完成させたという。

この曲の人気は凄まじく、余りの反響から上演した帝国劇場には歌詞を教えてほしいと言うファンからの投書が、相次いだ為廊下に歌詩を書いた大きな紙を貼り出したところ、それを書き写しにくる観客でごった返した と「帝劇五十年史」にある。
ボーカルの須磨子は可憐なカチューシャ役で人気を博したが唄の方は余り練習しなかったらしくオリエントレコードから発売された無伴奏の♫カチューシャの唄 を今聴いても決して褒められたものではなかったが、名曲の力ゆえ全国を風靡し実に2万枚の大ヒットとなった。
日本の流行歌史は最初から現在のアイドルと同じ形態で流布したのである。
翌年大正4年(1915年)にはツルゲーネフ原作「その前夜」で吉井勇 作詩のおなじみ♫**命短し
恋せよ乙女 **の歌い出しで始まる♫ゴンドラの唄
が、大正6年(1917年)にはトルストイ原作「生きる屍」の主題歌として♫さすらひの唄 がそれぞれヒットしてそれまでは、巷の演歌師の政治批判などが盛り込まれた壮士歌の様な形態から脱し、プロの詩人により詞に中山晋平と言う新たなる才能の作曲家による流行り歌が流布する流行形態に転移していった。
これら一連のレコード化して相つづくヒットの招来は一つの大きな意義が有った。
それは後の流行歌のビジネスモデルになったからだ。

この時期の一連の歌は当時の音質の悪いアコースティック録音ではとても聴き物にはならず、幸い佐藤千夜子が昭和初期に二度イタリアに渡りミラノ・スカラ座管弦楽団、ミラノグラムフォン管弦楽団で吹き込まれたものがビクターからリリースされていたので今では貴重な遺産となっている。
大正9年(1920年)には中山は詩人の野口雨情や西條八十、中山の弟子だった佐藤千夜子らと新民謡運動を立ち上げて、全国の御当地ソングを書いて地元で披露すると言うものを展開、これが後の流行歌に繋がってゆく。

〇〇音頭と言った風な従来の民謡とは一線を画す流行歌や様々な御当地の観光地や風土を盛り込んだ歌を作曲していった。
その気運の高まりから昭和2年(1928年)に一斉に外資系レコード会社が日本に参入して中山はビクターレコードの専属作曲家となり、不動の地位を築いていく。
何と言っても彼の発明は長調の旋律にヨナ抜きした短音階を考案して、日本人好みの独特の哀調を帯びた世界観を持つ曲を作った。
この直ぐ後にデビューする古賀政男などの後身の作曲家にも多大な影響を与え、我が国の歌謡曲の先鞭を付けて現在の演歌に至る大きな流れを作った功績は現在もなお、知られているところである。

https://youtu.be/Nf_4dPr-oFY

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