見出し画像

その名はFUJIYAMA #1

はんどん・何して遊ぼ : 増永𠀋夫 1921

かつて 日本の流行歌界でその名を馳せた藤山一郎。
レコード歌手として長く我が国歌謡界でリーダーシップを発揮したその人生は数多くの著作やドキュメントで紹介されてきたが、彼がどういったレコードで人々に希望を与え、且つそのクオリティーを保つことが出来たのか?
林 栄二的検証をして行こうと思う。
今回はその第一回目である。

藤山一郎と言えば戦前、上野の東京芸術大学の前身 東京音楽学校在学中からアルバイトで流行歌を吹き込んでそれが古賀政男の出世作ともなった♫酒は涙が溜息か や♫丘を越えて などでアルバイトの身でありながら大ヒットを飛ばしてしまう。
東京音楽学校卒業後は流行歌やジャズソングを吹き込み次々とヒットを重ね♫東京ラプソディー
や♫男の純情 ♫青い背広で など数多くの古賀メロディをヒットさせた。
その他彼の音楽的素養の広さ、深さから数多くの作曲家の作品を世に送り出し、日本の国民的歌手としてもてはやされた。
戦後も♫三日月娘 ♫青い山脈 ♫山の彼方に
♫長崎の鐘 をはじめヒットを量産、その地位は盤石であり、昭和26年1951年に始まったNHK紅白歌合戦には第一回目から毎回何らかの形で携わり時代が平成に入ってからもラストで♫蛍の光 を出演者たちが歌う際には必ず指揮者として出演され、その律儀な指揮振りが微笑ましかった。

日本語を楷書で歌う人

その発音の明瞭さからいつしか彼はそう呼ばれるようになる。
そう言った流行歌創始者としての気概なども今の人達に理解して頂ければと思いこのコーナーを立ち上げることにした。

例によって彼の経歴、その他のエピソードはウィキペディア等でご確認くださいませ。

本日は、彼が11歳の時に既にレコーディングを体験していたと言う証拠物件を用意した。
生前のラジオ出演の際などでも余り語られる事も無かったのでこのレコードに関するエピソードをざっと説明しておこう。

藤山一郎、本名増永𠀋夫。
東京日本橋蠣殻町の呉服屋の5人兄弟の末っ子として生まれた。
子供の頃の腕白振りはお歳を召されてからの顔の表情からも遠く忍ばれていた。
5歳の時に日本橋人形町にあった東華幼稚園に入園するが、まもなく御茶ノ水の女子師範付属幼稚園に転入する。
長姉のご主人の親戚で作曲家だった山田源一郎が創始した神田錦町にあった日本女子音楽学校に𠀋夫は幼稚園の帰り道に必ず立ち寄り、様々な音楽に接する機会に恵まれた。
これが𠀋夫少年をして音楽に目覚めさせる大きなきっかけになった事は、想像に難くない。
大正7年1919年8歳の彼は晴れて慶応幼稚舎に入学。

𠀋夫少年の歌の素質を見抜いたのは叔父の山田校長であったと言われている。
山田氏は知り合いだった東京音楽学校甲種師範科出身の江沢清太郎が慶応幼稚舎や普通部で教鞭をとっていることから慶応に入学させることになったのだ。
𠀋夫少年は6歳の時から江沢先生についてピアノを習った。
こうした個人レッスンのみならず学校でも江沢先生から直接学ぶ事ができたのである。
慶応での𠀋夫は52人のクラスメイト中成績は51番、勉強は余り得意ではなかったらしい。
因みに52番、どん尻の成績だったのが後の芸術家 岡本太郎だった話は有名である。
しかし、成績では不本意だった岡本の自慢はピアノでは藤山より上手かった!と後年になってかたっていた。
大正10年1921年の冬休みに江沢先生の推薦でレコーディングすることができた。
ピアノは江沢先生であるが、チョイと硬めの生伴奏だが、寧ろ𠀋夫の方が伸び伸び歌っているのがおかしい。
この日は全4曲録音した。
お送りする面の方よりも前半の「春の野 ほか」の方が後年の藤山らしさが出ていたがこちらの「はんどん 何して遊ぼ」の方が子供らしい曲なので敢えて選んだ。
南青山の霊南坂教会近くの象印スタークトンレコードスタジオで朝10時から16時まで掛けて4曲録音した𠀋夫少年は母に連れられて冬寒い霊南坂を登ってスタジオに着いたのだった。
歌う前に歌のタイトルを言うのは当時のしきたりなのだと言う。

貴重な録音をどうぞ!

https://youtu.be/aF34CnB1UZE

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?