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演歌の源流 # 8

大利根月夜 : 田端義夫1939

**元をただせば 侍育ち

腕は自慢の 千葉仕込み

何が不足で 大利根ぐらし

故郷(くに)じゃ 故郷じゃ妹が待つものを**

オース! バタやん こと田端義夫の出世作
♫大利根月夜 三番の歌詞である。
オース! と舞台登壇の時に必ずバタやんは客席に向かって声を掛けて観客のボルテージを上げた。

そのオース!にクレームを付けたのが美空ひばりのステージママ(実母)、…お嬢より拍手が多いから共演の時はやめてほしい。
それを田端が聞入れたかどうか迄は分からないが、美空ひばりの母親の傍若無人振りがよく分かるエピソードだ。
いみじくも、先輩歌手に対して非礼の言動。
更に先輩歌手のディックミネはそう言う話も当然耳にしていたのだろう、美空ひばりには殊更に冷たく当たったらしい。
田端は歌手になる前にディックのアトラクションを観客として観ていたが、どうしたものか客席からディックに合わせて歌い始めてしまい、殊更に客席からの歌声を嫌ったディックを怒らせた。
終了後ディックに叱られ小さくなってる田端を気遣いディックは、そんなに歌手になりたければオーディションの機会を作ってやるよ!
だが、何故かディックの所属していたテイチクレコードではなくポリドールレコードへ行くよう指示され、オーディションを受け見事に合格💯。
デビューは昭和13年 ♫島の船唄 がデビューであった。
デビューからレコードはよく売れて田端は幸先のいいスタートを切れた。
そして翌年この♫大利根月夜 がリリースされて♫島の船唄 を凌ぐ大ヒットとなる。
その後も♫別れ船 ♫梅と兵隊 を次々にヒットを連発していき、スターへの階段を駆け上がるのだ。
そして戦後、心機一転先輩のディックミネがいるテイチクレコードへ移籍する。
そして移籍後早々に♫かえり船 が大ヒット。
戦争で外地に赴任していた兵隊達の心情を見事に歌い上げて復員船で帰国する兵士達の心に響いた歌だった。


月の汐路の かえり船

かすむ故国よ 小島の沖じゃ

夢もわびしく よみがえる**

舞台で田端が唄う時、先ずイントロは田端が自ら奏でるナショナルギター社のサンバーストブラウンの懐かしい響きで始まる。
それに釣られるようにオーケストラの演奏が静かに追随していく独特のアレンジが舞台での田端のスタイルであった。
ギターは昭和29年に銀座のヤマハで購入したもので後年になればなるほど傷が増えていったが、音に影響するのを嫌った田端がボディは敢えてそのままにした曰く付きの愛用ギターで、やや高めに構える田端の歌唱スタイルは味を増していった。
この時代の歌手たちはテレビジョンが確立されていなかったので、同時代の岡晴夫や近江俊郎といった歌手たちは紅白歌合戦よりも舞台でのアトラクション重視の傾向が強かった。
紅白は昭和26年にラジオ中継から始まり、2年後にテレビジョンの放映と同時にテレビ中継をする様になっていったが年々権威的に発展していった。
昭和30年代になるとその傾向は強くなり、田端らのベテランにはヒット曲が減っていき新進スターの活躍によりすっかり勢力図は様変わりしていった。
ヒットから暫くは遠ざかっていた田端は過去に波平暁男がレコードにしていた琉球音階で書かれた♫島育ち と言う歌が気に入りどうしてもカバーしたくなったが、テイチク側には当初は反対された。
そこはゴリ押ししてレコード化したらこれがヒット!
とてもいい歌だったし、昭和37年と言う高度経済成長と言う時代の気分に合ったので有ろう。
それ以降もチャンキーミュージックに田端は目覚め1975年昭和50年には♫十九の春 をリリースしてヒットに繋げている。

こんな背景から、2000年代早々BEGINの比嘉栄昇から提供を受けた♫旅の終わりに聞く歌は
は世代を超えた曲提供となり田端の生き様と過去の思い出に溢れた内容となっている。

本日は舞台で長年の定番となっていた平手造酒の生涯を歌で綴った標題作をオリヂナル原盤からお聴きいただきます。
田端義夫の不動の地位を確実にした永遠の出世作だ。

https://youtu.be/5-0j58U0M7o


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