寂しさ同好会だった私たちについて

自分の(社会的にはそう定義される)元恋人を、元恋人と呼ぶかどうかということについて、その判断は自身の全くの自由意志であることを再確認したい。
というのも、自分の過去について、存在を認めることさえもが自分の自由意志について決定されるのだと思う。
友人は言う。「あかんかった恋愛は全部セフレ。それ以外ちゃんとしたやつだけ元彼にカウントしたらいい。そうやって生きてきてる」当時大学一年だった私はこの考え方を導入しながら生きてきた。

かくいう理由は、私には一年前まで継続していたよくわからない関係があった。ちゃんと告白されて付き合ったはいいものの、最初の一ヶ月以降何回も離れてはくっつくみたいな謎の茶番を繰り返した後、散々な別れ方で散っていった関係があった。散々な言われようをしたし、総括して低脳なんだろうなとこき下ろすものの、その冷静な侮辱と分析は最後きまってそんな相手を選んだ自分に返ってきた。結局セフレだったと思う。体の相性が一番良かった。バイトと学校終わりに家に呼んではご飯を食べて決まってセックスをして寝て帰っていった。

結局寂しさ同好会だった。君の顔よりも性格よりもセックスが好きだ。私は君の何よりも君とするセックスだけが好きだ。それだけが恋しくて愛している、物質的に証明できるただ一つだけのことだ。その一言だけが喉元に出かかっては消えてしまって言わないだけだ。

そのように定期的に投げやりになっては酒を飲む。酒って全てを消化させて昇華させると思う。セックスが好きだったんじゃなくて、私は君のことが死ぬほど1番好きだったんだ。でも結局はセックスよりも君のことよりも、私は寂しさ同好会の一員で、自分が寂しくなることがいちばん怖かっただけだったってこと。死ぬほど好きだとか人生でいちばんとかずっと好きだとか、全部かったるくて洒落臭え。ただ一つ言いたいのは、結局寂しさ同好会だっただけだ。恋愛の本質が寂しさにあることを知った者は一人で生きていけるのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?