母に伝えたかったこと

わたしの母は2年前に他界している。認知症になり、体が弱って、岩手の厳しい冬を越せずに死んだ。父が病の進行を隠し通し、施設に入所させた後はプロの手厚いサポートのもとで暮らすようになったため、わたしは母の壊れていった様子をよく知らない。ただ、父は文字と映像ですべての記録を残していたから、あとからどのようであったのかを知ることはできた。パンツを腕に通して着ようとしている画像があった。

「お前には夫婦2人の世界がある。俺たちもそれは同じで、だから1人でお母さんの面倒を見た。2人きりの時間を過ごせて俺は幸せだった。お母さんにもう一度恋をしたんだ。もっと、ずっと一緒にいたかった」父はそう言って少し泣いた。長年「仕事で全然いない、家のことなんてどうでもいいに違いないおじさん」と思い込んでいた父との距離は、最近になってぐっと縮まった。父は人間で、家族のためにがんばって働いてくれていた。今となっては、わたしのたったひとりの近しい肉親なのだ。お互いを思いやって暮らすようになった。

母はわたしたち父娘が「配線がつながった」と表現する、状態のよい時以外はぼんやりとしていた。認識できる人間は父1人で、わたしは母の世界からほぼ消えた。日々病弱なわたしに付き添い、あちらの病院こちらの病院と渡り歩いて治療法を探し、夜はわたしのために祈ってくれていた母はどこかに隠れてしまった。3人家族で、娘のわたしこそが中心であると驕っていたが、父と母のつながりの間に割り込むことなんてできやしなかったのだ。家族の単位は夫婦から始まるんだと、両親を見て今更ながらに実感させられた。母が父を覚えていて、2人が幸せならそれでいいや。そう思ったので、母の世界から自分が消えたままの事実を受け入れることにした。

わたしは本当に何もしなかった。父が打ち明けてくれた時に母はすでに入院していた。施設に入って亡くなるまでの8ヶ月、たまに面会に行って、母の目を拭き、手を握るぐらいしかしなかった。金があり、父が壮健だったからよかったが、そうでなければ泥沼だったろう。穏やかに母を見守り、送ることなんてできなかったはずだ。

結果オーライだ。健康に問題があり、自分の家庭を持ち、離れたところに住むわたしはどっちみち役には立たなかった。父は心から望んで、母と2人きりで過ごした。だから、ええと、きっとこれでよかったのだ。そう思って罪悪感を紛らわしている。

母は汚物をどうこうする、人を傷つけるなどの行動はなかったものの、嫉妬妄想がひどかったそうだ。父がほかの女のところに行ってしまうと怒り出したら止まらなかったらしい。いつも「お父さんが熱心に頼み込むからしょうがなくってOKしたのよ」と母は言っていたが、長い結婚生活を経て、母もまた父に夢中になっていたのだろう。と、いうことを父に話すと、父は泣き笑いした。「お母さんの言うことは本当だ。歳下なんていやだと断られたけど諦めきれなくて、何度も何度もプロポーズしたんだ。受け入れてもらえた時は幸せだったなぁ」父は母の意外な本音が見られてうれしかったのかもしれない。人はほしいものにしか嫉妬しないのだから。

母は光の巨人のような人だった。わたしはかなり小さいころからの記憶があるが、母がかがんで目線を合わせ、幼児言葉混じりで優しく話してくれた思い出などない。160cmを超える高みから、太陽を背負って逆光に立つ母が、大人に話すのと同じ口調で厳しく語る姿ばかりが思い出される。

ある夏に、蝉の死骸を見た幼いわたしが「せみさんかわいそう」と思わず言った時の記憶はとりわけ強く残っている。母は「蝉は長い時を地中で過ごしてから、ようやく成虫になって出てくる。真剣に生きて死ぬのにあんたに蝉の何がわかるの」と言い、わたしは母を見上げるのが精一杯で、何も言い返せなかった。わたしが不確かなことや間違ったことを言うたび母はど正論で殴ってきた。たまにわたしが正しい時もあったが、そんな時も絶対に折れなかった。「私たちがあんたに残せるのは教養だけ」と大学に行かせてくれたが、時折高等教育に嫉妬しているようなそぶりも見せた。

こう書くとわたしたち母娘は不仲だったように思われるかもしれない。しかしどうしても相容れない部分はあったものの、わたしたちは仲がよかった。母は全力を以ってわたしの生命維持に力を注いでくれた。たぶんそれだけに、あらゆるパワーと集中力を使い切ってしまったのだ。優しい母ではなかったかもしれないけれど、強い母だった。優しいお母さんがよかったと思う時も多かったけれど、わたしは自分の母が彼女でよかった、と思っていた。どんなときも母はわたしの味方だった。あらゆる敵に立ち向かい、殴り倒していく女戦士だった。いじめっ子、根性論教師、ひき逃げ犯、乱暴運転ドライバー、変質者。わたしが泣いている間に、母は全員ぶちのめした。(物理的にではないよ) 強く厳しくあらねばならないと誓ってそうなったことがわかっていたから、そんな母を認めようと努力してきた。

亡くなる2ヶ月前に、母に会いに行った。「今日は調子よさそうだなぁ」と父もうれしそうだった。母は甘酒味とかいうトンチキな味の飴を父に食べさせられ、わたしに手を握られてもぐもぐとしていた。

急に、握っていた手を外された。どうしたのかと母を見ると、やせ細った手を伸ばして、わたしの頭をぐいぐいと下に押した。わたしは押されるままに頭を下げ、母の膝のあるあたりに額をつけた。少し待つと、母がわたしの頭をなで始めた。

「そういえばこんなことをしてやったことはなかった……」

母は確かにそう言った。わたしは動けなかった。何が起きているのか、すぐにはわからなかった。母の娘として生まれて40年を優に越えた今、生まれて初めて頭をなでられているのだということが理解できずにいた。どうしたらいいのか。どんな気持ちになればいいのか。何か言えばいいのか。わからなかった。わたしは混乱していた。ただじっとなでられていることしかできなかった。数分ほどで手が止まり、顔を上げると、母の配線は「切れて」おり、またいつものように虚空を見つめていた。

今ならわかる。どうすればよかったのか。
「お母さん、なでてくれてありがとう。うれしかったよ。ずっとこうしてほしいと思ってたんだよ」
そう言えればよかった。その場で伝えられたらよかったなぁ。残念ながら思いつかなかったんだ。急に子供のころからの願いがかなって、頭がついていかなかった。仕方がないから、仏壇の前でつぶやいている。彼女は時間も距離も関係ない世界に行ったのだから、いつかこの言葉が届くかもしれない。

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