瑠璃の人生☆七転び八起きVol.1

☆初めまして☆の方も、
昔からの方も💦
 (ex.キャプチュード)
瑠璃と申します。
今年8月で、63歳になります。

本業を持ちながら(某人材派遣会社内勤)、
リアルビジネスの副業で
タロット占い師&占星術師として36年間活動しています。

紆余曲折あった今までの人生ですが、
自己紹介を兼ねて綴っていきます(長文失礼します)

簡単に言えば、本当の母親にも関わらず、
私は毒母の元、最初の結婚までの30年間を過ごしてきました。
母は所謂『統合失調症』でした。

今では心療内科が町中にあり、
受診も抵抗なく行けるようになってきましたが、
昭和中期のこと。
それこそ精〇病院と言われ、
住んでいた市では、外れの山奥にポツンとあるだけでした。

その病院に行ったことが近所に知れようものなら、
町中の笑いものになると。
当時は本当にそんな状況でした。
また心療系の情報もなく
単に「迷惑な人」で済ませていたのです。

なので母の病名が判明したのは、
平成に入ってから。
その頃にはすでに認知症も併発してました。

私は幼稚園から小学校卒業あたりまでの記憶がはっきりしません。
そしてその頃が身体的虐待が一番ひどかった時期だと思います。
殴る、蹴るは当たり前。
段々と母は何か物を使って殴るようになっていきました。
今の時代でしたら、
間違いなく《虐待》で通報されているレベルでした。

ある時父に聞いたことがあります。
「お父さん、お母さんを愛してる?」と。
私は覚えたての「愛してる」を使ってみたかったのでしょう。
父は
「愛してない」と一言。
子供ながらにそういう家庭ではないんだと感じ、
それ以来、父には何も言えなくなりました。


段々と恋をする年頃になっていき、
学校では「彼がね~」みたいな話も増えていきました。
私はそんな話を家では絶対にできませんでした。
母は私が男の子に興味を持つことを極端に嫌いました。

憧れの先輩の写真をカバンに忍ばせていたのですが、
それが見つかりビリビリに破かれました。
「汚らしい、お前コイツとどこまでいった?!(場所じゃなくね)」と
いま思えばバ※じゃねーの?と思えることを
平気で聞いてきました。

母は私のすべてを握っていないと気が済まない質で、
私がお風呂に入っている間や学校に行っている間、
何かの隙に、
カバンから机や本棚の隅々まで調べ回してました。
今みたいに携帯とかがある時代だったら、
帰宅した瞬間に「見せなさい!!」が始まると思います。

それに反して、私は中2で初彼ができ、
中3でそのことが母にバレると、
しばらく学校に行けないぐらい殴られ、
「どこのホテルに行ったんだ!!〇〇か?✖✖か?!」と。

あとでわかったことですが、
結局母は、自分の子供として、の心配ではなく、
一人の女性として
これからたくさん恋もできる、
男性からチヤホヤされる、
そんな私に対して嫉妬していたのです。

それはずっと続きました。 
社会人になって何人か彼もできましたが、
必ず家に連れてこなければどこへも出させてもらえないので
仕方なく連れて行くと、
「これからお友達としてよろしくね」
と母が釘を刺すのが常でした。
門限は18時。
1分でも遅れると、殴られました。

家を出て一人暮らしをすれば良かったじゃんって
思うかもしれませんが、
異常な母のこと、必ず見つかり
※ろされるという事態になり兼ねない、
いや必ず※ろされてたでしょう。
そんな母親なんです。
できませんでした。

何人か付き合ったあと、
そんな攻撃にもめげなかったのが、
最初の夫でした。
それもそのはず、元夫は実は既婚者だったのです。
実直そうに見せて、行動も全く独身者と変わらない感じで、
私は既婚者だということに全く気付きませんでした。
そんな元夫でしたから、
母の言う事など意にも留めずにいられたのでしょう。

元夫は、養育費・慰謝料を払うことで協議離婚し、
私との再婚を選びました(私は初婚)。
いま思えば、
私はとにかく実家を早く出たかった、
それだけだったのかもしれません。

それでも母は
実家から徒歩10分圏内での新居を強要し、
事あるごとに住まいに乗り込んできて文句を言う。
外で大声でわめきながら嫌がらせをしてました。

母は最後の嫌がらせなのか、
18年間寝た切りとなり介護が必要でした。
13年前に母が亡くなった時は、
涙一つ出ませんでした。
 

私は仕事が大好きです。
当然結婚してからも養育費の支払いもあり、
仕事は続けていました。

国家公務員から始まり(これは独身時代)、
あるキッカケがあり、
格闘技団体のスタッフ、
アーティストの担当マネージャー、
総合ディスカウントストア・ブランドコーナーで
販売コンシェルジュ、
人材派遣会社にて内勤(社内カウンセラーも兼任)。
等々、人と接する仕事にずっと就いてきました。

実は今までの仕事で危険な思いをする事が多々ありました。

格闘技団体にいた頃は、
選手の引き抜き問題勃発で
某他団体が雇ったであろう反社の方から
「夜道気を付けて歩けよ」と
映画のセリフのような言葉を吐かれたり、
仲間のスタッフが、選手発掘で訪れていた某国で内戦が突然始まり、
滞在先の家主から銃を渡され
「これを枕の下に入れて寝ろ」と言われたり😅💦。

団体の大会をオランダで行うことになった時も、
リング周りでいろいろ大会の準備をしていると、
「立つと撃たれるからなるべく姿勢を低く」と注意されたり😱。

同じくオランダの夜。
食事や買い物がしたくて外出するんだ~とオランダ選手たちと話てると、
「待て、俺たちが付いていく」と言われ、
危険な街に出ようとしている私の周りには
屈強な選手たちが(まあ安心😵‍💫)。
私156cm、選手たちはほぼ2mに近く体重も100Kg超えwww。
景色、見えないからねwww。

いろんな国から選手がやってきていました。
戦争にすぐ直結するような国からも、
その他危険な事が半日常的にある国からも。

だから、毎日出勤すると必ずFAXを確認してました。
『He is died』
こんな悲しい文字があった時、
そんな危険な国に、
普通に生活をしている彼らの人生を思い、
FAXを持ちボロボロと泣きながら仕事に入るのです。
だから今、大変だけど
まあ死にゃあしめえ、と思ってるから頑張れるんです。

私が最初、タロット占いを始めたのが
高校2年生の頃。
文化祭の出し物で
クラスでグループに分かれ何かをやろうとなり、
私のグループではカフェとお茶しながらタロット占いを、みたいな。
何かのヒントが無いかなぁと、たまたま本屋さんで巡り合ったのが
「タロット占い」の本でした。
元々興味があってカードも付いていたので購入。
カフェ&タロット占いは大盛況でした。

それから関係する本を読み漁り、
タロット占い師として鑑定をするようになったのが
25歳頃だったと思います。

様々な事があり、
本業と合わせてたまにやってましたが、
格闘技団体にいた頃に、
選手たちを何気に鑑定したりしてたら、
ある選手から「〇〇さんもみてほしいって」と紹介されたり、
その後、芸能界に足を踏み入れた訳ですが、
ありがたいことに紹介は途切れることがなく、
スポーツ界、芸能界、政界、大企業の役員クラスの方々と、
様々な方面へと拡がりました。
紹介のみで続けてきましたが、
気がつけば
延べ約6500名以上の方の鑑定をしてきました。

その間、タロット占いだけでは長いスパンでの鑑定が難しいため、
占星術を学び始め、約12年になります。

3年前、新型コロナウィルスが拡がり始め、
そんな私も2022年9月に新型コロナウィルスに罹患し、
病院へ運ばれた時には意識がなく重体でした。
「ああ私の人生終わったな。何もいいことなかったな」と
途切れゆく意識の中で思ったのです。

目覚めたら病室の天井が見え、
声をかけてくれる看護師さん達がいました。
「生きてた」とひとすじ涙が。

そろそろ私も老後ということを真剣に考え始めなくてはなりません。
いつ何が起こるかわからない昨今。
今は正社員で働いているのであまり実感はありませんが、
「ねんきん定期便」が毎年誕生日月に届いてる方は、
その金額を計算したり見たことがありますか?。
まあビックリしますよ、少なくて。

で、現在まだ老後なんて想像もつかない若い方が、
続々とネットビジネスの世界に入ってきてますよね。
もちろん積立NISAとかiDeCoやらも含めて。
賢いと思います。

私が就職の頃は『終身雇用』のことを考えて
会社を選び、入ることがステイタスでした。
母親は教師か公務員に、と言ってきかなかったので、
教師には全く向いてない私は
公務員試験を受け郵便局へ就職しました。
当時はまだ民間企業ではなかったですからね。

入ったはいいけど、
局長と大喧嘩して辞めましたwww。
母親は大激怒しましたけど、
私には息苦しさしかありませんでした。

そんな私でも、今まで10社近く転職しています。
入ってみて合わなければ辞める。
そんな選択をしてきました。

ネットにその老後を見出す為に、
いまこうしてここにいる訳ですが、
大変だけど何も辛いことはなく
毎日が学び。
一生、死ぬまで勉強です。

私が今までリアルで行ってきた占い業。
もちろん鑑定には自信をもっておりますが
果たして何名の方を幸せの方向へと導けただろうか・・・と考え始めました。

私は今まで読んでいただいたような人生を送ってきたけれど、
自分の幸せの方向というのは、
占星術も合わせほぼ明らかになります。
離婚後のどん底だった人生を歩きながら、
毎日毎日『もういなくなりたい』と思っていた間も、
必死で自己修正をかけ、なんとか歩いてこられました。

占いというのは、人間様と向き合いながら読み解くものです。
コロナにかかり、意識不明状態から目覚めた時に、
周りにいてくださった看護師さん、先生方。
その方達の表情を見て本当に慈愛に満ちたお顔をされていて、
どれだけ救われたことか・・・。
もう一度、【占い】という職業を考え直したキッカケにもなりました。

これからも【それぞれの幸せ】という事に
しっかりと向き合い、
私に関わって下さった方々の人生が、
笑顔で過ごせる毎日になりますよう
精一杯お手伝いさせていただこうと思います。

最期の時に
『いろいろあったけど、楽しかったなぁ』と
笑って、皆さんに感謝しながら言えたら。
それで私は幸せです。

まだまだいろんなことが書き切れません。
離婚から再婚までもたくさんの事がありました。
それはまた別の機会に書きましょうかね・・・。

長文、お読みいただきありがとうございます。


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