周璇――悲劇の大スター

なかなか普段の生活では戦前の歌を聴く機会はないかもしれません。ましてや外国の歌となると、全く聴いたこともないでしょう。私もそうでしたが、最近戦前の素晴らしい中国人歌手を知ったので紹介します。

戦前の中国

1930年代、当時の中国はまだ中華民国で、満州事変や盧溝橋事件により中国各地で抗日運動が盛んになりつつあった時期でした。当時の中華民国というのは貧しい国で、各地が列強諸国の植民地であり、国として不安定であったということも言えます。そんな情勢の中、当時の中国の方々はどんな歌や映画を楽しんでいたのでしょう。

30-40年代上海の大スター

周璇は、そんな当時の中国(上海)で大活躍した歌手の一人です。

幼いころに養父母に歌の才能を見込まれた周璇は、本格的に歌を習い始めるとその才能を開花させ、1930年代には数本の映画に出演しました。その中でもヒットし、彼女を一躍スターにした映画が『馬路天使』という1937年の作品です。作中で使われた『天涯歌女』と『四季歌』は当時大ヒットし、周璇は「金嗓子(黄金の喉)」と呼ばれるほどでした。

生い立ち

周璇(Zhou Xuan)は1918年頃江蘇省の貧しい家庭に生まれます。その貧しさのため彼女の家族は生後すぐに彼女を売春婦の斡旋業者に売り、その業者は彼女を高級売春婦に育て上げようとしていました。しかし、彼女が2、3歳の頃、ある夫婦が彼女を見るなりその可愛さにほれ込み、彼女を養子として引き取り、上海へ移住します。この夫婦こそが彼女の才能を早くから見出した養父母であり、彼女の活躍の立役者と言えるでしょう。

2度の離婚と妊娠、そして・・・

おおやけには華やかな大スターであった周璇でしたが、彼女の私生活は決して幸せなものではありませんでした。二度の結婚を経験した彼女でしたが、そのどちらもうまく行かず離婚しています。一度目の結婚は作曲家の嚴華(Yan Hua)とでした。彼は周璇の楽曲の多くを担当した作曲家でしたが、8年間の結婚生活の後、離婚します。その後香港の実業家と暮らし始め妊娠しますが、財産目当てだった彼は逃げてしまいます。二度目の結婚は映画の芸術監督とでした。彼女は妊娠しましたが、またもやその監督は彼女を置いて逃げてしまいました。その後彼女は幸せな関係に恵まれることもなく、1957年に日本脳炎でこの世を去りました。

注意深く探すと、当時の中国にはその社会情勢にも関わらず素晴らしい歌手と楽曲がたくさんあったことがわかります。昨今の難しい日中関係もありますが、こういったソフト面に注目すると中国の新しい側面が見えてくるのではないでしょうか。

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