「you+ 私を変えてくれたもの」

私は臆病な人間だ。色んなものから自分の身を守り、怯え、仕方がないさと逃げてきた。いろんなものや事柄を、環境のせい、親のせい、お金のせい、家のせい、と逃げてきた。

私は東北の小さな町外れで育った。山と畑と田んぼしかない田舎だ。

三人兄弟の末っ子で、恥ずかしがり屋で、いつもお姉ちゃんやおばあちゃんに助けてもらっていた。甘えていたのだ。お父さんは優しくて、おばあちゃんはもっと優しく育ての母と言えるだろう。お母さんは今の言葉で言えば毒親というのだろうか。とにかく人の文句や気に入らないことをいつも気にしてはぐちぐちと文句を垂れていた。それは今も変わらない。母親が怖かったのが原因か、とても引っ込み思案な性格に育った。そして友達を作るのが極端に苦手だった。小さな町外れの少人数の分校で育った私はとにかく自分からコミュニケーションが取れず、5年生になったら本校と言って町の小学校に行くのだが、とにかく怖くてしょうがなかった。

運動会の練習などで何度か本校に行く機会があった。幼稚園の時に遊んでいた記憶がある女の子たちがいた。話しかけてみようと思ったが、その女の子たちはこう言っていた。「うんこう」「男の子にちゃんてつけて呼ぶのおかしいよね?」と言ってくすくす笑われていた。私はきっとこの頃から人間不信だったように思う。

そんなこんなで5年生になったら本校に行ったのだが、コミュニケーションは取れずじまいだった。何人か話しかけてきてくれる友達にも、「私なんて」という思いが強いばかりに心を閉ざしていた。

同じ分校から来ている男子や、後輩の女の子は、うまく本校の子達ともやっていけているように思えた。そんなこんなで中学生になり、高校も、家から通える範囲でという母の指導があり、自分の行きたいところに行くなんていう選択肢はないんだ、と半ば諦めていた。家から一番近い町の高校に通い、なんとなく3年間通ってさて就職だという時にふと立ち止まった「私、やりたいこと何もできていないな」と思ったのだ。

なんとなく、「このままではいけないな」と思った。このままこの町にいても、やりたくない仕事をして、工場に勤めて親の言いなりになって働くだけ。おばあちゃんは大好きだけれど、お姉ちゃんもお兄ちゃんも実家も出ていた。私も、この家を離れてみようと思った。

今思えばここが一番の反抗期だったように思う。そして私は町を出たかった。県を離れたかった。誰も私のことを知らないところに行きたかった。

昔から絵を描くのが好きだった。

絵が上手いねと褒められた。唯一の取り柄だと思った。

地元の印刷工場に勤めるのもいいなと思ったけれど、専門学校に通わなければいけない。私は思い切って東京に出ることにした。お金がないので新聞配達をすることにした。

特に行きたい専門学校や目指している大学があるわけではなかった。浪人する勇気もなかった。高校の時憧れていた先輩が行っているという東京の専門学校を選んだ。

専門学校はとても楽しかった。みんな自分と同じ目標の人ばかりが集まっているというのはこんなにも楽しいことなのか、と思った。好きな絵を描いて、デザインの会社について、自分の絵やデザインが売れて有名になったら、などど夢を描いていた。私は若かった。まだ夢や希望もあったのかもしれない。

東京という街も輝いて見えた。とても便利だし、電車に乗ってどこまででも行ける。街はキラキラしていて、刺激もいっぱいあった。そして、新聞配達の仕事がとても役に立ったと思う。私はあの仕事を通して、臆病な心が一つ逞しくなったと思う。「私を変えてくれたもの」は、確実に新聞配達であろう。

新聞配達の仕事は朝が早かった。朝の3時に周りの起きる音で飛び起きて、チラシを入れてバイクで配って、7時までには朝刊配達終わり。夕方3時頃から5時頃迄また夕刊を配るのである。私の他はみんな男の配達員だった。私は女子の友達も少なかったし、分校の同級生も男子ばかりだったのであまり気にしていなかった。

先輩や同期たちにはすごく救われ勉強になった。大学に行っている同僚もたくさんいたので色々と勉強になった。「上を見ればキリがないし、下を見てもキリがない」都内の有名私立大学に通う先輩はそんなことも言っていた。

配達の合間に専門学校通いである。とにかく私は眠かった。年がら年中眠かった。新聞辞めたら眠いのは無くなると思った。が、あれから18年以上経過して、今現在も眠いもんは眠い。眠さの度合いは軽くなったというのがせめてもの救いである。

新聞配達は奨学金とはいえ高額な借金を背負ったようなものだった。途中で辞めたら全額一括返金。ヤクザかと思った。集金の仕事もあるが、新聞の勧誘の仕事もあった。親に迷惑はかけられない。私は二年間がむしゃらに意地で働いた。そしていろんな人たちに助けられていたことを覚えている。そして何にも知らない田舎娘は、都会の闇や汚いものもたくさんその時に見たように思う。そんなこんなでなんとなく心臓に毛が生えていったように思う。

やっと専門学校も卒業の年、さあ就職先どうしよう…となり私は焦った。全然デザインの会社に就職できる気がしない。変なところ現実主義の私は、イラストコースよりもデザインコースに進んだ。デザインコースの方が就職に強いと思ったからだ。みんなには驚かれた。そして、イラストコースに進んだ友達の方が次々と才能を発揮し、就職先を決めていった。その中には同じく新聞配達をしている女の子たちもいた。私にはその子たちがキラキラと輝いて見えた。ちなみに今もキラキラと輝いて見える。私は唯一の得意分野である絵を描くこと、ということにも、上には上がいる、ということが分かり、途方に暮れた。一言で言えば挫折した。今現在も、イラスト、デザインについては挫折中である。私には何かが足りないんだな、と認識している。それは努力家、根性か、コネか、お金か頭か…

そんなこんなで挫折しつつも、専門学校の先生の勧めで受けた中小企業にやっとのこと受かった。そんなに洒落たデザイン会社ではなかった。ただ場所の立地はよかった。私はその頃悩みが多く、いろんな商売に引っかかった。そんな中で就職できた会社だった。これも何かの縁かと思った。

結果的にその会社には三年間関わらせていただいた。今思えばとてもいい会社で上司であった。デザインの仕事も少なからずさせていただき、上司も好きなようにさせてくれた。今思えば給料も良かった。わたしは若かった。色んな事を、乗り越えられなかった。ストレス耐性が大切なんだという事を後から知った。

わたしはその会社を去って以来、デザインらしいデザインを仕事としてできていない。自分を過大評価していたようだ。もっといいデザイン会社に行けると思っていた。どこにもいけなかった。それは現在も続く。

そんなこんなしているうちに今の旦那と会った。旦那は専門学校の同級生だった。デザインの仕事もしているし、パソコンにも強い、頭の回転も良い。なんでも知っているように思えた。わたしには無いものをたくさん持っていると思えた。そして今も働き者だ。いったい何を考えて、毎日どうやって仕事しているんだろうと毎日不思議に思う。旦那と一緒にいたらわたしももっとデザインできるようになるかも?と思ったけどその日は来なかった。浅はかな願いだ。体だけは気をつけてもらいたい。

そんなこんなでわたしは変わったように思う。正確には変わっていないのだが、臆病すぎた幼少時代から比べればタフになった。そして昔より忘れっぽくもなったと思う。いい意味でも悪い意味でも忘れっぽくなったのだ。自分に都合の悪いことは、忘れるかスルーする。自分にはできなさそうだと思うことには手を出さない。自分で解決できない問題が、どうしたってある。地元が震災に見舞われた時もそうだ。わたしは何もできなくて、ただ毎日仕事を同じようにこなすしかなかった。地元でない関東の人間が被災地支援に行き、被災地出身のわたしが何もできない。滑稽に思えた。

姉が病気になった時も同じだ。わたしは結局何も助けられなかった。そして今も何も変えられずにいる。直接話すとぶつかる。母親と関わる時と同じだ。それでも日々、適度な距離感を持って接しているつもりなのだが、それも自己満足なのかもしれない。

そんな思う通りに進めていない人生の中でも子供ができた。これは、また、わたしを変えてくれたものである。今は子供を中心に世界が回っていると言っても過言ではない。というか、子供を中心にしてしか世界を回せない。しかし、子供は可愛いものである。子供というフィルターを通せばうまくいっていない親や兄弟との人間関係も円滑に進んでいくのだ。わたしはまだまだ旅の途中で、人生修行の途中である。

変わっていった部分は、昔より環境のせいや、親のせいにはしなくなったと思う。嫉妬心も昔に比べたら随分と減った。わたしなんて、という悲観も随分減ったように思える。

後悔することもいっぱいある。それでも一度は自分のやりたいようにやって良かったと思える。

これからは、困っている人を、遠巻きにでも助けて行けたらいいなと思う。自己満足で終わっでしまうことが多いとしても。

わたしはこの先も、何かを通して変わっていくのであろう。

#you +#クリラボEXPO

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?