太平記 現代語訳 18-5 瓜生兄弟の母、脇屋義治をなぐさめる

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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敗軍の兵たちが、杣山城(そまやまじょう:福井県・南条郡・南越前町)に帰ってきた。

里見時義(さとみときよし)、瓜生保(うりうたもつ)・義鑑房(ぎかんぼう)兄弟、保の甥の七郎等、戦死者53人、負傷者500余人と判明。子は父に別れ、弟は兄に死に遅れ、慟哭(どうこく)の声が家々に充満(みちみち)る。

しかし、瓜生兄弟の老母の尼公だけは、あえて涙を見せない。彼女は、脇屋義治(わきやよしはる)の前にきて、

尼公 今回の戦、敦賀へ向かいました者らの失敗のせいで、おん大将の里見殿を、むざむざと死なせてしまいました。義治さまのご心中、さぞかし残念無念であられるやろうなぁと、お察し申し上げます。

脇屋義治 ・・・。

尼公 でもまぁ、これが、かりにですよ、里見殿だけが戦死されてしもぉて、うちのせがれどもは全員無事に帰還、なんて事になってしもてたら、もう、なさけないやら、無念やらで、どうしようもなかったですやろうねぇ。

尼公 保ら3人が、里見殿のおともをしてあの世へ行き、弟3人は、義治さまのお役に立たせていただくために生き残りましたんですからねぇ、嘆きの中の喜びとでも言いますか・・・。

尼公 義治さまの為に、ということで、うちのセガレたちは立ち上がったのですからね、甥や子供が百人、千人討たれようが、わたしは一切、泣き言を言うつもりはございませんですよ! ねぇ、義治さま!(涙)

脇屋義治 うん・・・。(涙)

尼公 (酌をしながら)さぁ、義治さま、元気出して! 一杯いきましょう!

これを見て、意気消沈していた者も、愛する人との別れを歎き悲しんでいた者も、愁いを忘れて再び勇気を取り戻した。

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義鑑房がその最期に臨んで、応援に駆けつけてきた兄弟3人を堅く制した言葉は、「あれほど何度も言ってきたのに・・・」。

まさに彼は、合戦に臨む都度、「もしも敗け戦になったならば、我ら兄弟のうち2人は討死にし、残りは命を全うして、脇屋義治様をお助けするべし!」と、言っていたのである。

これは、古の世に義を全うした二人の人物の事跡に、自らもまた、ならわんとしてのことであった。

古代中国、晋王朝の世、趙盾(ちょうとん)と智伯(ちはく)は、長年にわたって、趙(ちょう)の地をめぐっての争奪戦を展開していた。(注1)

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(訳者注1)これ以降の記述、太平記作者は相当な間違いをしているようで、史記の記述と大幅な食い違いがある。
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その争いも終盤に入り、智伯はついに趙盾の重囲を受けるに至った。

彼は二人の臣下、程嬰(ていえい)と杵臼(しょきゅう)を呼び寄せて、

智伯 わしの運もついに尽きて、今、趙盾の包囲を受けるに至ったわい。夜が明くれば、わしは必ずや、趙盾に討たれるであろう。おまえら二人、わしに忠節の心深くあるならば、ぜひとも頼みたい事がある。

程嬰 殿、なんなりと、お申しつけ下さりませ!

杵臼 殿のお為とあらば、どんな事でも。

智伯 よぉ言うてくれた。頼みと言うは他でもない、今年3歳になったわしのあの息子を、お前らに託したいのじゃ。なんとかして、あの子を敵の目から隠し通し、立派な男に成長させてやってくれい。そして、あの子に趙盾を滅ぼさせ、わしの生前の恥を、そそがせてやってはくれぬか。

程嬰 殿!

杵臼 殿!

智伯 これが、わしの最後の願いじゃ。

程嬰 思うに、殿の御伴を仕って討死にする、これはいと容易なる事。

杵臼 かたや、殿のお子を敵の目から隠し通し、その命を全うさせん事、これは、難事中の難事なるかな。

程嬰 しかしながら、いやしくも臣下たるもの、困難なる道を捨て容易なる道を選ぶ、などということが、ありえましょうや!

杵臼 我ら二人、必ずや、殿の仰せに従いまするぞ。

かくして、程嬰と杵臼は、夜陰に乗じて城を脱出。夜明けとともに智伯は討死、智伯軍は全滅し、長年の争いの的であった趙の地はついに趙盾の所有するところとなった。

やがて趙盾は、程嬰と杵臼が智伯の子供を隠していることを察知し、その子の命を狙うこと、度々。

程嬰は憂慮して、杵臼にいわく、

程嬰 今はなき殿は、我ら二人にご子息を託された。その使命を全うするに、二つの道がある。一方の道は、「死して敵をあざむく道」、もう一つの道は、「しばらく命を長らえてご子息を守りぬき、立派にご成長せしめる道」。さてさて、双方のうちいずれがより困難な道と、貴殿はお考えか?

杵臼 義に向かって一心を傾くれば、死する事への覚悟も、自ずと固まるもの。かたや、生くるは困難極まる事である。ありとあらゆる方向に智をめぐらさねば、全うできぬからのぉ。ゆえに、わしには「死する道」よりも「生くる道」の方が、より困難な道と思えるが。

程嬰 ならば、わしは、難しい方の道を選び、「生の道」を採る。貴殿は、易しい方の道を選び、「死の道」を採られい!

杵臼 喜んで!

程嬰 よくぞ言うた!

杵臼 ならば速やかに、謀をめぐらすべし。

杵臼は、3歳になった我が子を抱きかかえ、「これは智伯の子なり」と世間に公表した。一方、程嬰は、智伯の子供を、「これはわが子なり」と偽って、朝夕にこれを養育した。

そして杵臼は、山の奥深くに隠れた。一方、程嬰は、趙盾のもとに行き、降伏を申し出た。

趙盾はなかなか、程嬰を信用して許そうとしない。程嬰は、重ねて訴えた。

程嬰 せっしゃ、智伯の側近くに長年仕えながら、彼の行状をつぶさに見つづけ、その先を危ぶんでいたのでありまするが、案の定、趙の領土を失う事になってしまいました。趙盾様の徳と力の偉大さは、智伯に比ぶるならばもう雲泥の差。それゆえに、私は今ここに、趙盾様にお仕えせんとして、やってまいりましたのですぞ。亡国の君主のために、賢人の貴方様をたばからんとする事など、ありえましょうや。

趙盾 ・・・。

程嬰 あなたが私めを、臣下の一員に加えてくださるならば、今は亡き智伯の子の居場所を、お教えいたしましょうぞ。杵臼がこっそり養育しているのでありまするが、その場所、私は知っておりまする。一刻も早くその子を殺して、貴方の政権を末長く安泰せしめられんことを。

趙盾 (内心)程嬰は真実、我が臣下にならんと欲しておるようじゃな。

趙盾は程嬰をすっかり信じ込み、程嬰に武官の位を与えて身辺近く召し使った。そして、杵臼が隠れ住んでいる所を程嬰から詳しく聞きだし、数千騎の兵を差し向けて彼を捕えようとした。

杵臼は、かねてから程嬰としめしあわせていた通りに、膝の上にいる我が子を刺し殺して、

杵臼 あぁ、智伯様のお家を再興せんとのわしの計画、ついに露見してしもうたか。今は亡き殿のご子息の運命も、これまでじゃ。

杵臼は、その場で腹をかっ切って死んでいった。

趙盾 よしよし、これで我が家も、子々孫々に至るまで安泰じゃな。わが子孫に害するような者は、おらんようになったわい。

趙盾はいよいよ、程嬰を信頼するようになっていき、大禄高官を授けて国の政治を司らせた。

程嬰の庇護の下、智伯の遺児はついに成人の日を迎えた。そして程嬰は兵を起し、その3年後に趙盾を滅ぼし、智伯の遺児を趙王の座につけた。

智伯の遺児・趙王 すべては程嬰、おまえの功績じゃ。大禄を取らせようぞ。

程嬰 いいえ、それはお受け出来ませぬ! もし私めが官位に登り、禄を得て生を貪るならば、杵臼と共に謀った道に背く事となりまする。

程嬰は、杵臼が埋葬された古塚の前で、自ら剣の上に伏した。かくして、程嬰と杵臼は、共に同じ墓の苔の下に眠る事となった。

以上が、古代中国の程嬰と杵臼の事跡である。今の世の瓜生保と義鑑房の討死もまた、それに劣らぬ立派な行為であると言えよう。

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