太平記 現代語訳 32-7 足利直冬、京都を制圧 付・宝刀・鬼丸と鬼切の由来
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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。
太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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吉野朝廷(よしのちょうてい)は検討を重ねた末に、「足利直冬(あしかがただふゆ)を大将に任命して、京都攻めを決行!」との天皇命令を発行した。
これを受けて、山名時氏(やまなときうじ)とその子息・山名師義(やまなもろよし)は、京都朝年号・文和3年(1354)12月13日、5,000余騎を率いて、その本拠地・伯耆(ほうき:鳥取県西部)より京都を目指して進軍開始。山陰道(さんいんどう)一帯の武士たちはことごとく、これに合流し、その兵力は7,000騎にまで膨張した。
山名軍リーダーA 但馬(たじま:兵庫県北部)から、杉原越(すぎはらごえ:兵庫県・多可郡・多可町)ルートで播磨(はりま:兵庫県西南部)に進み、鵤宿(いかるがじゅく:兵庫県・揖保郡・太子町)に滞陣中の義詮(よしあきら)殿を打ち散らすってのは、どうやろう?
山名軍リーダーB いやいや、それよかな、山陰道ルートをまっすぐ丹波(たんば:京都府中部+兵庫県東部)へ進むべきやでぇ。あそこにはほれ、あの仁木頼章(にっきよりあきら)が佐野城(さのじょう:兵庫県・丹波市)にたてこもって、おれたちを通せんぼしとるやろ、あれをまず、やっつけるんよ。
作戦会議を開いてあれやこれやと議論をしているさ中、越中(えっちゅう:富山県)の桃井直常(もものいなおつね)と越前(えちぜん:福井県北部)の斯波高経(しばたかつね)からの使者が、同時に到着した。
彼らからのメッセージは、「とにかく、急ぎ京都へ攻め上られよ、北陸地方の勢を率いて、こちらも同時に攻めるから」との内容であった。
山名時氏 ならば、夜を日に継いで、京都へ進めぇ!
山名軍リーダー一同 ウゥィ!
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山名父子率いる7,600余騎は、前後10里にわたる行軍時・陣編成をもって、丹波国へ進軍した。
これを迎え打つ仁木頼章は、丹波国守護の任にあり、山陰道方面から京都に向かって進軍してくる敵対勢力を食い止めるという、極めて重要な任務を負っていた。その上、彼は今や、将軍執事(しょうぐんしつじ)の地位にもあって、その威勢は他を越える存在である。
山名軍リーダーA (内心)さぁ、いよいよ、丹波に入ったぞぉ!
山名軍リーダーB (内心)これから、仁木軍との間に、火花を散らすような激戦の5回や10回・・・。
山名軍リーダーC (内心)覚悟しとかんとなぁ!
ところが案に相違、山名軍の勇鋭ぶりを見て、「戦ってみても、到底勝ち目なし」とフンだのであろうか、仁木軍側は矢の一本を射る事も無く、山名軍に佐野城の麓を、易々と通過させてしまった。
その結果、仁木頼章は、山名軍メンバーからの嘲笑を受けるのみならず、日本国中の人々のモノワライのネタにされてしまった。
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足利尊氏(あしかがたかうじ) (内心)山名軍、丹波を無抵抗状態の中に進軍か・・・まいったな・・・。
足利尊氏 (内心)京都滞在の手持ち兵力は、残らず、義詮につけて、播磨へ送ってしまってる・・・援軍は未だにやっては来ない・・・そりゃそうさ、みんな、遠国からやってくるんだもんなぁ。
足利尊氏 (内心)これっぽっちの残存兵力でもって、京都の中で戦ってみても・・・良い結果は出ないだろうな・・・うーん、いったいどうしたものか・・・。
やがて、「直冬殿と山名軍がついに、大江山(おおえやま:右京区)を越えました、一路、京都へ向かっております!」との情報が、尊氏のもとへもたらされた。
足利尊氏 よし・・・京都脱出!
1月12日(注1)の暮れ方、尊氏は、後光厳天皇(ごこうごんてんのう)を守り、京都を離れて近江国(おうみこく:滋賀県)へ退避、武作寺(むさでら:滋賀県・近江八幡市の長光寺)へ入った。
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(訳者注1)史実においては、12月24日。
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そもそも、今上天皇陛下(きんじょうてんのうへいか:注2)が即位されてから未だに3年にも満たないというのに、その間2度も、京都から離れる事を、陛下は余儀なくされた(注3)。その都度、朝廷に仕える百官は皆、他郷の雲の下にさ迷う事になってしまったのである。あぁ、まったくもう、なんというメチャクチャな世の中になってしまったのであろうか!
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(訳者注2)後光厳天皇のこと。
(訳者注3)後光厳天皇の、京都脱出・一回目については、32-3 を参照。
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1月13日(注4)、足利直冬は京都に入った。越中の桃井直常、越前の斯波高経も、3,000余騎を率いて京都にやってきた。
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(訳者注4)史実においては、1月22日。
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直冬はこの7、8年間というもの、継母の讒言(ざんげん)(注5)によって、こなたかなたへと漂泊の生活を余儀無くされていた。しかし今や、多年の不運も一気に晴れて、にわかに、国中の武士に仰ぎ見られるような存在となったのである。
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(訳者注5)ここでいう「継母」とは、尊氏夫人、すなわち、義詮の生母の事を言っているのであろうか? はたして彼女が、自分の産んだ子ではない直冬の事を尊氏に讒言したのであろうか? ここに書かれているこういった事柄がいったい史実なのかどうか、よく分からない。太平記作者の書いている事はフィクション(非史実)が多いので、注意が必要である。
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「1年に2度も花を咲かせた木は、その無理な開花が原因となって、ついに根が枯れてしまう」と言われている。そのような地上の真理を認識する事も無く、直冬とその周囲の人々は、今回のこの大成功に完全に酔いしれてしまっている。まさに、「春風三月、一城の人、皆狂する」の言葉そのままである。
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今回のこの京都攻めを成功に導くにあたっての重要メンバーは、いったい誰であったかといえば、それはなんといっても、山名時氏、桃井直常、そして、斯波高経であろう。彼らは、それぞれそれなりに、足利幕府に対する恨みがあったが故に、この戦いに参加したのである。
まず山名時氏、既に述べたように、彼は、若狭の領地の件に関して、足利義詮に恨みを持っていた。(注6)
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(訳者注6)32-3 を参照。
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桃井直常は、故・足利直義(あしかがただよし)の党派に属した結果、権力闘争において敗退を余儀なくされた事への憤りがあった。
故に、この二人が幕府に対して叛旗を翻すに当たっては、それなりの理由があると言えばある。しかし、いったいなぜ、斯波高経までもが、今回のこの京都攻めに加担したのであろうか?
高経は、足利幕府の草創期以来、忠戦の功績面において、他の足利家親族をはるかに超えている人である。将軍・尊氏も、彼に対しては別格扱いの恩賞を与えており、世間からの高経に寄せられる声望も、極めて高かった。
故に、尊氏に対しては、何の恨みを含むものでもないと思われるのに、今やにわかに、彼の敵方に回り、打倒・尊氏政権の挙に、打って出たのである。いったいどのような遺恨(いこん)が、高経の心中に潜んでいたのであろうか?
世間の声D あのっさぁ、その真相、あたいは知ってんだよねぇ。教えたげよっかぁ?
世間の声E うん、教(おせ)て、教(おせ)て。
世間の声D あいよぉ。ずっと前にっさぁ、越前国の足羽(あすは)の戦の時にっさぁ、斯波高経さん、敵方の大将、討ち取ったでっしょぉう?(注7)
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(訳者注7)20-9 参照。
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世間の声F 新田義貞(にったよしさだ)ですな。
世間の声D そっそ。その時にっさぁ、義貞さんが持ってた源氏代々の重宝の太刀、2本とも、高経さんの手に渡ったんだよねぇ。
世間の声G 義貞はんが持ってはった源氏代々の太刀言うたら・・・えぇと、なんやったかいなぁ・・・鬼平(おにへい)やったかいなぁ・・・オムスビやったかいなぁ?
世間の声H ブフフ・・・あのねぇ、「鬼丸(おにまる」と「鬼切(おにきり)」ですよ。「オニギリ」じゃぁないんだからぁ。
世間の声D そっそ。ところがっさぁ、それ聞いた尊氏さんがね、さっそく、横ヤリ入れてきたんだよぉ。
(以下、世間の声Dが語った当時の話)
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尊氏よりの使者 高経殿、尊氏様は以下のように、仰せでございますよ、「鬼丸と鬼切、これは、源氏末流の者が所有すべき物ではない。だからすぐに、こちらに渡すように。我が家の重宝として、代々、嫡流が相伝していくようにするから。」
斯波高経 ・・・。
尊氏からは、その後もしつこく催促が来た。
斯波高経 (内心)・・・。
斯波高経 (内心)いやだ! どうしても、渡したくない。鬼丸、鬼切は、わしが新田義貞を倒して、手にいれたんだ、だから、わしのもんだ!
斯波高経 (内心)よぉし!
高経は、同じ寸法の太刀を入手し、それをわざと火中に投じた。そして、それを使者に渡していわく、
斯波高経 ほら、それが例の、鬼丸と鬼切だ。持って帰れ!
尊氏よりの使者 エェッ・・・なんですか、こりゃ・・・焼けてしまってるじゃないですか。
斯波高経 そうなんだよ。実はな、これ、長崎(ながさき)の道場(注8)に預かってもらってたんだよな。で、あそこが焼け落ちた時に、いっしょに焼けてしまったんだ。
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(訳者注8)称念寺(福井県・坂井市)。
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尊氏よりの使者 ・・・。
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(世間の声Dが語った当時の話、以上で終わり)
世間の声D ところがっさぁ、事の真相、そっくりそのまま、京都へ伝わっちゃったんだよねぇえ。
世間の声E うわぁ。尊氏はん、そら、ものすごい、お怒りどしたやろなぁ。
世間の声D そりゃぁ、もう。
世間の声G ふーん、そないな事、ありましたんかいなぁ。
世間の声D ってワケでっさぁ、新田義貞を討ち取った抜群の功績があるってのにぃ、たいした恩賞もらえなかったんだよねぇ、高経さんは。
世間の声H ふーん・・・。
世間の声D それだけじゃぁ、ないんだよぉ。それからも高経さん、尊氏さんから面目まるツブレされるような事、何度もあっちゃってっさぁ、で、とうとう、キレちゃった。
世間の声H ふーん・・・。
世間の声D ってワケでっさぁ、高経さんは、故・足利直義さんが尊氏さんと戦(いくさ)やらかしちゃった時に、直義さんサイドについたんだよねぇ。今回もまた、直冬さんの上洛に合力して、京都へ攻め上ったってぇわけよぉ。
世間の声E ふーん・・・。そやけどその太刀、よっぽど、すごいもんどしたんやろうなぁ。斯波高経はんほどのお人が、そこまでこだわらはった、いうんやから。
そう、確かに、すごいものなのである。
そもそも、この鬼丸という太刀は、かの鎌倉幕府・初代執権(しっけん)・北条時政(ほうじょうときまさ)に由緒ある太刀なのだ。
以下に紹介する話は、北条時政が、国家の最高権力を手中に納め、日本国中をその支配に服せしめた後の事である。
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毎夜毎夜、身長1尺ほどの小鬼が、北条時政の枕元にやってきては、彼に襲いかかろうとする。これははたまた、夢か、幻か。
修験道(しゅげんどう)の行者に加持祈祷(かじきとう)を行わせてみても、その怪奇現象は一向におさまる気配すら見えない。陰陽寮(おんみょうりょう)の博士に鬼封じの祈祷をやってもらっても、一向に、ききめがない。ついに時政は、病に伏す身となってしまった。心身の苦しむが止む事、一瞬の間も無し・・・。
ところが、ある夜の事、
北条時政 うん?・・・あそこにある太刀・・・あれは、わしの守り刀だが・・・。
北条時政 やや! 太刀が変形していく・・・なんと不思議な!
北条時政 太刀が、老人に姿を変じたぞ!
老翁 時政、時政よ・・・。
北条時政 あなたはいったい?
老翁 わしは、そなたを護持する太刀の霊じゃよ。
北条時政 ・・・。
老翁 わしは常に、そなたを擁護(ようご)せんと念じておるでな、先日より、かの妖怪を退けんとしておるのよ。じゃがのぉ、どうもうまくいかん。その原因はの、汚(けが)れたる人間の手でもって、わしに触れたが故に、錆びが身から出てしもぉての、刀身を抜こうにも抜けぬのじゃわい。
北条時政 ・・・。
老翁 かの妖怪を速やかに退けんと欲するならば、清浄(しょうじょう)なる人間をもってして、わしのこの身の錆びを拭わしむるべし。
北条時政 ・・・はぁ・・・。
老翁 この身の錆びを・・・拭わしむるべしぃーーー・・・。(人間から太刀の形状に戻りつつ)
北条時政 ・・・はぁ・・・。
北条時政 (ガバァッ!)ハッ!・・・あぁ、夢だったのか・・・。
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時政は、翌朝早々に側近を集めた。そして、老翁が夢に示したごとくに、側近中から一人の者を選び、彼に沐浴(もくよく)させた後に、問題の太刀の錆びを取らせた。そして、その刀身を鞘にささないまま、寝床の側の柱に立てかけておいた。
時は冬。
北条時政 あぁ、寒い、寒い!
時政は、身を暖めようとして、火鉢を近くに寄せた。
その火鉢が据えられている台を何気なくみやった時政の目は、そこに釘付けになってしまった。
北条時政 お、お、お・・・。
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火鉢が据えられている台の上には、銀製・鋳物の装飾がついていた。その形はまさに、身長1尺の鬼! 目には水晶を入れ、歯には金を沈めてある。
北条時政 (内心)こないだから毎夜毎夜、夢の中にやってきては、わしを悩ましてる鬼のようなヤツ・・・似てるなぁ・・・いや、ジツに似てるぞ、この飾りに。
じっと見つめていたその時、抜いたまま立ててあった例の太刀が、にわかに火鉢台の上に倒れかかってきた。
太刀 ヒューーーン、バシッ!
火鉢の台 スコーン!
小鬼の首 ポトッ!
太刀は火鉢台に当たり、その小鬼の飾りの頭の部分を、スッパリ切り落してしまった。
まさに、この鬼の装飾こそが、毎夜変身しては時政を悩ましていたのであろう、それを期に、時政の病はあっという間に直り、鬼形のものは、全く夢に現れないようになった。
時政は、この太刀に、「鬼丸」と命名した。その後、この「鬼丸」は、北条氏本家に代々家宝として伝えられていき、最後に、北条高時(ほうじょうたかとき)のものとなった。
高時が鎌倉(かまくら:神奈川県・鎌倉市)の東勝寺(とうしょうじ)で自害に及んだ時、彼は、この鬼丸を、次男・時行(ときゆき)に、「これは我が北条家の重宝だから」とことづけて渡した。その後、鬼丸は諏訪祝部(すわのはふり)を頼って逃亡した北条時行と共に、信濃へ移った。(注9)
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(訳者注9)10-13 参照。
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建武2年(1335)8月、鎌倉の合戦に敗北した諏訪頼重(すわよりしげ)はじめ、北条氏与党の有力武士40余人は、大御堂(おおみどう)の中に走り入り、全員、顔の皮をはいで自害した(注10)。
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(訳者注10)13-6 参照。
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遺骸が群がる中に、この鬼丸が残されていたので、「きっと、北条時行も腹を切って、この中にいるんだろうなぁ」と、人々は皆、哀れに思った。
その後、鬼丸は新田義貞(にったよしさだ)に進呈された。
義貞は大いに喜んだ、
「これが、かの音に聞こえた、北条家代々に伝わる重宝・鬼丸か!」
というわけで、それから後、鬼丸は、新田義貞の秘蔵する所となったのである。
この太刀は、奥州(おうしゅう)宮城郡(みやぎぐん:宮城県)の府に住んでいた三の真国(さんのさねくに)という刀匠が、3年間の精進潔斎(しょうじんけっさい)を貫きながら、七重にしめ縄を引いた中に鍛えあげた、まさに名刀中の名刀なのである。
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一方の「鬼切」、これもまた、ものすごいいわれのある名刀である。
これは、もとはといえば、清和源氏(せいわげんじ)・源頼光(みなもとのよりみつ)の太刀であった。
昔、大和国(やまとこく:奈良県)の宇陀郡(うだぐん)に広大な森があった。そして、その周縁部には夜な夜な、妖怪が出現、往来の人を採って食い、牛馬六畜(ぎゅうばろくちく:注11)をつかみ裂いていた。
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(訳者注11)牛、馬、羊、犬、鶏、豚。
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これを聞いた源頼光は、郎等の渡部源五綱(わたなべのげんごつな)に対していわく、
源頼光 おい、綱、あんな、大和の宇陀まで行ってな、例の妖怪、しとめてこいや!
渡部綱 はいはい!
源頼光 あんな、この我が家の秘蔵の太刀、持ってかんかいや!
渡部綱 うわぁ、おぉきに、ありがとさんですぅ!
渡部綱は、直ちに宇陀郡に赴き、甲冑を帯して夜な夜な、森の陰で妖怪を待ち構えた。
妖怪は、綱におそれをなして、あえて、その前に姿を現そうとはしなかった。
妖怪 えぇい、あの、綱とかいうヤツ、うっとぉしいやっちゃのぉ! よぉし、変身して、だまくらかして、イテもたるわい!
妖怪は、髪を解き乱して顔を覆い、鬘(かつら)をかぶり、自らの歯を黒く染めた。眉墨(まゆずみ)を使って太く眉を描き、薄衣(うすぎぬ)を頭からかぶり、女に変装した。
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時はまさに、おぼろ月夜、綱の眼前に、森の中から、一人の女が現われた。
女は静々(しずしず)と、綱の方に歩み寄ってくる。
渡部綱 ムムッ!
にわかに空がかき曇り、何者かが森の上空を疾走(しっそう)する気配がした。と、その瞬間、
何者かの手 ムギュ!
渡部綱 アッ!
何者かが、綱の髪をひっつかんだ。
綱の身体が、空中に宙づりになった。
綱は、頼光から賜った例の太刀を抜くやいなや、虚空を払い斬りに切った。
渡部綱 テャェーイ!
太刀 ヅヴァッ!
何者か ギュャェァエーーーイ!
たれこめた黒雲の上に、異様な叫び声が轟(とどろき)き渡った。
何者かの血 ドヴァーーーッ!
綱の顔に、血が降り注いだ。
渡部綱の身体 ドン!(着地)
何者かの腕 ボスッ!(着地)
渡部綱 なんや、これ!
見ると、綱が切り落とした腕は、黒い毛むくじゃらで、指は3本、カギ爪が生えている。
太刀は、妖怪の二の腕から下を、完全に切断していたのであった。
綱は、その腕を京都に持って帰った。
渡部綱 見てぇな、タイショウ、これ、これ!
源頼光 ウワッ! なんやねん、これ!
渡部綱 例の妖怪の腕ですわいな。わし、切り落してきましたんやぁ。
源頼光 そうかぁ! ワレ、よぉやりよったのぉ!
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その後、源頼光は、この腕を朱色の唐櫃(からびつ)に収納して秘蔵していた。
ところが、それからというもの、頼光は夜な夜な、恐ろしい夢を見るようになってしまった。
源頼光 ウーン・・・まいったのぉ。ちょっと、診(み)てもらおか。
そこで、陰陽博士(おんみょうはかせ)に、夢診断をしてもらうことになった。
頼光から、夢の内容を聞いた博士は、
陰陽博士 うーん・・・。
源頼光 どんなカンジですか?
陰陽博士 うーん・・・あかんな・・・。(首を左右に振る)
源頼光 ・・・。
陰陽博士 厳重なる物忌(ものいみ)が必要やな。
源頼光 日数は?
陰陽博士 7日間やな。
というわけで、頼光は、自邸の門戸をかたく閉ざし、自宅の周囲に、しめ縄を七重に引き回した。四方の門に12人の護衛を置き、毎晩、夜警担当の者に、ヒキメ(注12)を射させた。
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(訳者注12)朴(ほお)や桐(きり)の木で作り、中を空洞にくりぬいた孔を彫る。これを射ると、高く響く。ようは、魔除けのまじないである。
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源頼光 あぁー、やれやれ、ようやっと7日目かぁ・・・今夜で、物忌も終わりやなぁ・・・やれやれ・・・。
頼光の家人 (ドタドタ・・・)タイショウ、タイショウ、えらいこってすわ、どないしましょ?!
源頼光 またまた、えらいソウゾウしいやんけ。まだ物忌終わってへんねんぞ! 静かにせんかいや!
頼光の家人 すんまへん・・・。
源頼光 で、なんやねん? いったい、何が起こったんや?
頼光の家人 いやな、河内(かわち:大阪府東部)の高安(たかやす)の里(大阪府・八尾市)からな、タイショウのお母さまが、おこしになりやしたんやがな。
源頼光 なにぃ、おかやん(母)がぁ?!
頼光の家人 そうでんがなぁ。門、叩いて、「ここ開けてぇなぁ」言うたはりまっせぇ、いったいどないしましょぉ?
源頼光 うーん、こらぁ困ったなぁ。今、物忌みの最中やねんけどなぁ。
頼光の家人 ・・・。
源頼光 うーん・・・年とったおかやん(母)が、はるばる高安から京都まで、たん(訪)ねてきてくれたとあっては、会わんわけには、いかんわなぁ・・・しゃぁない、おい、門ちょっとだけ開けて、通したってくれや。
頼光の家人 よっしゃ!
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久々に再会した母と子の、終夜の酒宴が始まった。
頼光は酔いに乗って、例の一件を語り始めた。
源頼光 ・・・てな、わけでしてな、なんと、その妖怪の腕をな、綱が、持って帰ってきよりましたんやぁ。
母は、手に持った盃を前に置いていわく、
頼光の母 いやぁ、まぁ、なんちゅう、恐ろしい話なんやろ。
源頼光 はい、ほんまにもう。
頼光の母 妖怪いうたらな、高安の方でも、妖怪がアバレまくっとんねんでぇ。子供に先立たれた親とか、夫が食われてしもうた未亡人とか、最近よぉけ出てんねん。
源頼光 そうですかぁ、高安の方でもなぁ。
頼光の母 それにしてもやな、その妖怪っちゅうのん、いったい、どないな姿カタチ、してるんやろかいなぁ?
源頼光 ・・・。
頼光の母 な、あんた! ワタシに、その妖怪の腕とやら、いっちょ、見してくれへんか!
源頼光 エェッ!
頼光の母 な、な、頼むから、その腕、見せてぇなぁ。
源頼光 そんなぁ、見て楽しいもんやおまへんで。ごっついコワイもんやねんから。
頼光の母 えぇから、えぇから、ちょっと見せとくれ。なぁ、頼むから・・・えぇやろぉ?
源頼光 ・・・。
頼光の母 なぁ、頼むから、なぁぁなぁぁー!
源頼光 ・・・うーん・・・しゃぁないなぁ・・・よっしゃ、見せたげましょ・・・見せるのは、簡単な事やけど、その後が心配やなぁ・・・見て、腰ぬかさんといてやぁ。
頼光の母 大丈夫やてぇ。あんたを生んだこのワタシやで、ナニ見ても、驚きますかいなぁ。
頼光は、櫃の中から例の腕を取り出して、母の前に置いた。
頼光の母 ・・・。
源頼光 ・・・。
頼光の母 ・・・(その腕を自らの手に取り、凝視)。
源頼光 ちょっとちょっと、つかむか、そんなもんを・・・。
頼光の母 !(バサッ:突然、自らの右の袖をまくる)。
源頼光 アッ!
彼女の右腕を見た頼光はびっくり。肘から下が無い!
頼光の母 これは、オレの右腕やぁ!
頼光の母はたちまち、身長2丈ほどの牛鬼(うしおに)に変身した。そして、その場で酒の杓(しゃく)をしていた渡部綱を、左手にひっつかんだ。
牛鬼 よぉも、オレの腕、切り落としてくれたなぁ! エェーイ!
牛鬼は、綱をひっつかんだまま、頼光めがけて走り寄った。
頼光はとっさに、例の太刀を抜き、
源頼光 テェェーイ!
太刀 シュヴァーッ!
切り落とされた牛鬼の首は、なおも空中に飛び上がり、太刀に食らいついていった。
牛鬼の首 うぉぉぉぉ!(グァシ!)
太刀 ヴァキッ!
牛鬼の首は、太刀の切っ先5寸ほどを食い切った。そして、それを口に含んだまま、その後1時間ほど、ピョンピョン跳ねながら、吠え怒り続けていたが、ついに地上に落ちて静かになった。
一方、牛鬼の首から下の身体部分は、破風から飛び出て、はるか天上に上っていってしまった。
現在に至るまで、渡部党(わたなべとう)武士団の家屋に破風を設けないのは、このような事件があったからである。
後日、頼光は、延暦寺(えんりゃくじ)横川(よかわ)エリア(滋賀県・大津市)より、修験清浄(しゅげんしょうじょう)の評判高い覚蓮僧都(がくれんそうず)を招き、壇上にこの太刀を立ててしめ縄を引き、7日間の加持祈祷を修してもらった。
すると、天井からするすると、黒色の龍が下りてきた。
切っ先5寸が折れてしまったこの太刀を、その龍が口に含むやいなや、太刀は復元して元通りの形となった。
その後、この太刀は、源満仲(みつなか)のものとなり、信濃国(しなのこく:長野県)の戸隠山(とがくしやま:長野県・長野市)で、再び鬼を切った。故に、「鬼切」と呼ばれるようになった。
この太刀の起源はといえば、伯耆国(ほうきこく:鳥取県西部)会見郡(えみのこおり:鳥取県)の大原五郎太夫安綱(おおはらごろうだゆうやつつな)という刀匠が、一心清浄(いっしんしょうじょう)の誠(まこと)を込めて、鍛(きた)えあげたものである。
時の征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)に、これを奉った。鈴鹿山(すずかやま)における、鈴鹿御前(すずかのごぜん) versus 坂上田村麻呂 の剣合わせの際に、田村麻呂が使用したのが、この太刀である。
その後、田村麻呂が伊勢神宮に参拝の折、神宮の神より、「その太刀が欲しい」との夢のお告げがあり、御殿に奉納した。
源頼光が伊勢神宮に参拝した時、夢の中に、「なんじに、この太刀を与うる。これをもって、子孫代々の世継ぎに伝え、天下の守りたるべし」との、お告げがあった。その結果、この太刀、すなわち「鬼切」は、頼光のものとなったのである。故に、源家に代々伝えられていくのも、当然の理といえよう。
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