太平記 現代語訳 29-4 高師泰、三角城攻めを中止して、近畿地方へ向かう

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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高師泰(こうのもろやす)は、三角城(みすみじょう)攻めの為に、石見国(いわみこく:島根県西部)に長滞陣をしていた。

高師泰側近A 殿! 師直(もろなお)様から、急使がきやしたぜい!

高師泰 うぅ・・・ファー・・・(あくび)。

高師直よりの使者 これ、お手紙です!(手紙を捧げ持つ)

高師泰 あぁ・・・ファー・・・(あくびをしながら、使者から、手紙を受け取る)

高師泰 ・・・(手紙を開く)。

手紙 パサパサパサ・・・(開かれる音)。

高師泰 ・・・(手紙を読む)。

高師泰 エェー!

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高師直よりの手紙:
 摂津(せっつ)と播磨(はりま)において合戦、事は急。速やかに、石見の合戦をさしおいて、馳せ上られたまえ。中国地方の勢力が、我らの弱みに付け込んで、そちらの軍勢の帰還の道を塞ぐ可能性もあるので、師夏(もろなつ:注1)を備前(びぜん)へ派遣し、中国地方の蜂起を防ぎつつ、貴殿のご到着をそこで待つようにと、命じてあるから。とにかく、早く!

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(訳者注1)高師夏、幼少時の名前は、「武蔵五郎」。
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高師泰 ・・・。

高師泰軍リーダー一同 ・・・。

高師泰 全軍、すぐに出発!

高師泰軍リーダーB エーッ!

高師泰軍リーダーC いったいどこへ?

高師泰 近畿!

高師泰軍リーダー一同 アワワワ・・・。

父・師直の定めたこの手はずを間違いなく実行するために、高師夏は、播磨を発ち、備後(びんご)の石崎(いわさき:注2)に到着した。

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(訳者注2)[新編 日本古典文学全集56 太平記3 長谷川端 校注・訳 小学館] の注には、「広島県福山市駅家町中島・駅家町弥生ヶ丘の辺。芦田川中流左岸の地。」とある。
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ここで、舞台は近畿地方へ。

京都近郊の八幡山(やわたやま:京都府・八幡市)の、足利直義(あしかがただよし)の陣営に、石見国よりの密使が到着した。

石見国よりの密使 高師泰は、急に三角城の包囲を解きよりましてな、今頃は、東へ向かっとりますわな。

足利直義 ふーん・・・そうか。石見方面は今、そういう情勢か。

足利直義軍リーダーD よぉしよし、遠路はるばるご苦労さーん!

石見国よりの密使 では、これにて。(退出)

足利直義軍リーダーD オレたちは八幡から、桃井(もものい)殿は比叡山(ひえいざん)から、東西から、ニラミきかされたとあっちゃぁねぇ。

足利直義軍リーダーE そりゃぁ、いくら将軍様だって、京都にはとても、踏みとどまれねぇやなぁ。

足利直義 で、兄上は、今いったいどこに?

足利直義軍リーダーF 最新の情報によりますと、京都撤退の後、播磨まで行かれ、現在、書写山(しょしゃざん:兵庫県。姫路市)にたてこもっておられる、との事です。

足利直義軍リーダーG あのぉ・・・自分が思うにわぁ・・・高師泰が将軍様と合流する前に、師泰をタタイといた方が、よかぁないでしょうかねぇ?

足利直義 そうだな、それがいいな。

というわけで、上杉朝定(うえすぎともさだ)が、迎撃軍の大将に選ばれた。(注3)

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(訳者注3)上杉朝定は当初、尊氏サイドにいたが、直義サイドに転じた。

[新編 日本古典文学全集56 太平記3 長谷川端 校注・訳 小学館] の注には、「朝定。重顕息。一月十二日夜、今川範国とともに京都を逐電し、八幡の直義の陣営に参っている(房玄法印記)。」とある。
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朝定は、八幡を発って瀬戸内海を海路西進、備後の鞆(とも:広島県・福山市)へ上陸。これを聞きつけた備後、備中、安芸(あき)、周防(すおう)の勢力が、我先にと馳せ参じてきた結果、上杉軍の兵力は膨大なものとなり、草木も靡かんばかりの勢いとなった。

事態は、さらに急変した。

上杉軍リーダーH 殿、チャンスです! 高師夏の軍、石見から引き上げてくる高師泰軍と、備後で合流するはずでしたよね?

上杉朝定 あぁ、そうだったね。

上杉軍リーダーH それがね、師夏、どういうわけか、師泰軍の到着を待たずに、備後から動きだしたそうですよ。京都へ向かってるようですわ。

上杉朝定 と、なるってぇとぉ、なにかい、高師泰軍は、単独で東に向かってるってわけかい?

上杉軍リーダーH まさに、その通り!

上杉朝定 イェーイ! チャンス、チャンスゥー。ただちに、高師泰を追撃ぃーっ!

朝定は、2,000余騎を率いて、1月13日の早朝、草井地(くさいじ:広島県・福山市・草戸町)を発ち、高師泰軍の後を追った。

こんな事とは夢にも知らず、高師泰は、一刻をも惜しみながら東へ東へ、馬に鞭当てて勢山(せやま:岡山県・倉敷市)を通過。

後続の、小旗一揆(こはたいっき)武士団、河津(かわづ)、高橋(たかはし)、陶山(すやま)兄弟は、師泰から遥か後方に遅れながら、ようやく、龍山(たつやま:兵庫県・高砂市)の西に到達した。

高軍の先陣と後陣は互いに遠く隔たり、全軍の兵力も判然としない。

上杉軍の先鋒500余騎は、高軍の最後尾を行く陶山軍100余騎を見つけ、盾の端を叩いて、トキの声を上げた。

上杉軍先鋒メンバーの楯 バシバシバシバシ・・・(盾の端を叩く音)。

上杉軍先鋒リーダーI エーイ! エーイ!

上杉軍先鋒メンバー一同 オーーウ!

戦場に臨んでは、一度たりとも相手に背中を見せた事がない陶山兄弟、これしきの事に、ひるむわけがない。陶山軍もトキの声を返し合わせ、矢を一斉射撃するやいなや、自軍側兵力の劣勢をものともせず、上杉軍中に突入。

魚鱗(ぎょりん)、鶴翼(かくよく)と、陣形をめまぐるしく変形、旗を左右に激しく振動、剣戟(けんげき)には電光が走る。一瞬の中に変化し、万方(ばんぽう)に当たる。

野草が紅色に染まり、汗馬(かんば)の蹄(ひづめ)は血を蹴たてる。河の水脈(みなまた)は分かれ、士卒の屍(かばね)たちまち、流れを閉ざす。

その奮闘にもかかわらず、前陣は、はるか彼方に隔たり、後陣にはもはや、続く味方もいない。ここを限りと戦い続ける中に、陶山高直(すやまたかなお)は、脇の下と頭部の3箇所を突かれて、ついに討死。

これを見た弟・陶山又五郎(またごろう)は、

陶山又五郎 (内心)あにき、冥土でちょい待ってろよ、おれもすぐに、行くけぇのぉ!

陶山又五郎 (内心)どこかに、えぇ敵おらんかの、そいつと刺し違ぉて死んじゃるけん。

そこに、火威しの鎧、紅のほろをかけた一人の武士が接近してきた。

陶山又五郎 おまえ、どこの誰じゃ?!

土屋平三(つちやへいぞう) おれの名は、土屋平三よ!

陶山又五郎 (ニコリ)おれは、敵が大好きじゃでのぉ! ほれ、来い! 組んじゃるけん!

二人は接近して組みあい、二頭の馬の真ん中に、ドッと落ちた。

上になった又五郎は、平三を抑え込んで首をかこうとした。

そこへ、道口七郎(みちくちしちろう)が駆け寄ってきて、又五郎の上にのしかかった。

又五郎は、下にいる平三を左手で押さえ、上にいる七郎を右手でかいつかみ、相手の首を捻(ねじ)切って殺してしまおうと、後ろを振り返った。

そこへさらに、七郎の郎等(ろうどう)が、かぶさってきた。

郎等は、又五郎の鎧下部の板をたたみ上げるやいなや、そこに3回、突きを入れた。

かくして、道口七郎と土屋平三は、危うく一命を取り留め、陶山又五郎は命を失った。

これを見た陶山の一族郎等は、

陶山軍メンバー一同 こうなったら、命惜しんでて、ナンになるんじゃ! おれたちゃみんな、死ぬだけやぁ!

長谷興一(はせこういち)、原八郎左衛門(はらはちろうざえもん)、小池新兵衛(こいけしんべえ)ら須山家一族郎党は、上杉の大軍中に破(わ)っては入り、破(わ)っては入り、一歩も引かずに、全員、討死にしていった。

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かくして、上杉軍は多数の死者を出しながらも、高軍の後陣に対して勝利を収めた。

高師泰軍に所属の宮兼信(みやかねのぶ)軍団は、総勢70騎であったが、「わが方の後陣、敗北」との情報に脱走者が続出、いつの間にか、たった6騎だけになってしまった。

宮兼信は、四方をキッと見回し、

宮兼信 へん! コシヌケどもめが、みんな逃げくさったか! えぇわえぇわ、あんな臆病もんらに囲まれとっても、かえって足手まといになるだけじゃでのぉ、逃げ出してくれて、こっちも大助かりじゃ。

宮兼信 敵サイドは、人も馬も、戦い疲れとるじゃろう、一息つかさんうちに、さぁ、かかったれやぁ!

宮軍6騎、馬の鼻を並べ、上杉軍に突撃。これを見て、小旗一揆、河津、高橋の500余騎が、おめいて宮の応援に向かう。

上杉の大軍は、浮き足立って退き始めた。間もなく、総崩れ状態に陥ってしまい、ついに一度も反撃に出る事なく、ただただ、大混乱の中に退却していくばかり。

大将の上杉朝定は重傷を負い、戦死者300余人、負傷者は無数。道中3里の間に、鎧、腹巻、小手、すね当て、弓矢、太刀、小刀等、遺棄された武具が、足の踏み場も無いほどに散乱している。

かくして、備中での合戦は、最終的には、高師泰サイドの楽勝という結果に終わった。

高師泰 ここから播磨までは、もう抵抗勢力、いやしねぇよな、ガハハハ・・・。

ところが、師泰の予想は外れ、美作(みまさか)国の武士の、芳賀(はが)、角田(つのだ)一族700余騎が集結し、山陰道の杉坂(すぎさか)を塞ぎ、高軍の進軍を食い止めようとした。

備中での勝利に乗って、勢い天地をしのぐ河津、高橋の両軍は、相手に矢を一本放つ余裕をも与えず、抜刀して一気に突撃。

芳賀・角田サイドは、谷底へ追い落とされ、ほとんど全員、討死にしてしまった。

かくして、備中、美作で首尾よく連勝し、高師泰と高師夏は、喜び勇んで歩を進め、観応(かんのう)2年2月、書写山にいる足利尊氏(あしかがたかうじ)のもとに合流した。

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