太平記 現代語訳 35-5 仁木義長、逼塞状態に

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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小河中務丞(おがわなかつかさのじょう)と、土岐一族に属する東池田(ひがしいけだ)は、連合して仁木義長(にっきよしなが)と手を結び、尾張国(おわりこく:愛知県西部)の小河庄(おがわしょう:愛知県・知多郡・東浦町)に、城を構えてたてこもった。

土岐直氏(ときなおうじ)は、3,000余騎を率いてこの城に押し寄せ、7重8重に包囲して、20日間余り、攻め続けた。

にわかづくりの城であったので、たちまち食料が尽きてしまい、小河中務丞と東池田は、共に投降して城から出てきた。

以前から、領地争いに関して含む所のあった土岐直氏は、小河中務丞の首を刎ね、京都へ送った。

一方、東池田の方は、同じ土岐一族どうしなので、命を助け、尾張の番豆崎城(はずがさきじょう:愛知県・知多郡・南知多町)へ護送した。

吉良満貞(きらみつさだ)も、仁木義長の誘いに乗り、三河国(みかわこく:愛知県東部)の守護代理・西郷弾正左衛門尉(さいごうだんじょうさえもんのじょう:注1)と連合し、矢作川(やはぎがわ:愛知県・岡崎市)の東岸に陣を張り、東海道を塞いで、畠山国清(はたけやまくにきよ)の関東帰還を阻止した。

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(訳者注1)35-3 に登場。
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しかし、大島義高(おおしまよしたか)が三河国守護に任命され、星野(ほしの)、行明(ぎょうめい)たちと連合して三河に進軍。これに敗北して、西郷弾正左衛門尉は、伊勢(いせ:三重県北部)へ逃走した。

吉良満貞は、将軍側に寝返り、京都へ出ていった。

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一方、石塔頼房(いしどうよりふさ)と仁木義任(にっきよしとう)(仁木義長の弟)が大将となって、伊賀(いが:三重県西部)、伊勢の軍勢を集め、2,000余騎を率いて近江(おうみ:滋賀県)へ侵入、葛木山(かずらきやま:滋賀県・甲賀市)に陣を取った。

佐々木氏頼(ささきうじより)とその弟・山内判官(やまのうちはんがん)は、近江国中の軍勢を集め、飯守岡(いいもりがおか:甲賀市?)に陣を張り、両軍、にらみあいとなった。

数日後の9月28日早朝、仁木義任は、配下の軍勢を集めていわく、

仁木義任 この近江までやってきても、なお数日間、合戦の一つも無しに、たたいたずらに、地元の民を煩わすだけの現状、おれとしては、まことに残念でならん。伊勢にいるアニキもさぞかし、気をもんでる事だろうよ。

仁木義任 そこでだ、今日は、戦にはもってこいの吉日、ここらでいっちょう、敵を一攻め、け散らしてしまおうじゃぁねえか!

仁木義任 まずは、佐々木高秀(ささきたかひで)が手勢を配分して守っている、市原城(いちはらじょう:滋賀県・東近江市)を攻め落とす。あそこを落として、敵一人も無しの状態にしちまえば、これから、心安く合戦できるんでなぁ!

仁木義任の出陣宣言に、石塔頼房、伊賀の名張(なばり)一族、近江の大原(おおはら)、上野(うえの)の者たちも、我遅れじとばかりにつき従い、義任の手勢300余騎もあわせ、一丸となって出陣した。

旗をなびかせ、軍を進めてくる仁木軍を見て、それに相対する佐々木氏頼も、兵を集めた。

佐々木氏頼 敵は、陣をたたんで、動きだした! さぁ、戦(いくさ)、戦!

しかし、譜代恩顧(ふだいおんこ)の若党300余騎の他には、誰も招集に応じてこない。

仁木サイドは、この戦に全てを懸けている様子である。主力の桐一揆(きりいっき)武士団をはじめ、主だった勇士500余騎、さらに、伊賀の服部(はっとり)一族、河合一揆(かわいいっき)武士団も加わり、いっきに形勢逆転してしまおうといわんばかりの勢い。

佐々木サイドは、500騎足らず、到底、仁木軍に対抗できようとは思えない。

しかし、勇猛果敢な佐々木氏頼、いささかも、ひるむ様がない。

佐々木氏頼 (内心)今回のこの戦、確かに重要な戦いではある。今日敗北したら、佐々木家の面目も失われてしまう・・・かといって、たったこれだけの兵力でもって、真っ正面からぶつかっていっても、とうてい勝ち目はない・・・とにかく、陣を構え、勝機をうかがうとしよう。

氏頼は、全軍を3つに分け、分散配置することにした。

まず右手に、目賀田(めかだ)、楢崎(ならさき)、儀俄(ぎが)、平井(ひらい)、赤一揆(あかいっき)武士団を旗頭に、川端にそって陣を展開。

左手には、青地(あおち)、馬渕(まぶち)、伊庭入道(いばにゅうどう)、黄一揆(きいっき)武士団を大将として、左手の川原に陣を張る。

そして中央には、氏頼自らが位置し、吉田(よしだ)、黒田(くろだ)、二部(にいべ)、鈴村(すずむら)、大原(おおはら)、馬杉(ますぎ)をはじめとした主要メンバーを周囲に集め、すきあらば、敵の真ん中を破ろうとひかえている。

このような相手方の軍陣構成を見て、兵力面において圧倒的優勢の仁木サイドが、勇みたたないわけがない。

蝿払一揆(はえはらいいっき)武士団リーダーA 3手に分かれた敵の小勢を見るに、あの中央の四目結(よつめゆい)の大旗(注2)、あの旗の立っている所に、大将の佐々木氏頼はいると見た。佐々木を討ち取って、勲功に預かろうや、なぁ、みんな。

蝿払一揆武士団メンバー一同 ウウウイ!

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(訳者注2)佐々木家の家紋は、「四目結」である。
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伊勢の長野(ながの:三重県・津市)からやってきた蝿払一揆武士団は、最前線に進出し、佐々木軍めがけて突撃を開始した。

戦のかけひきをよく心得ており、決死の覚悟でこの戦場に臨んでいる佐々木氏頼、いささかも躊躇するわけがない。大軍の真ん中に懸け入っては、十文字(じゅうもんじ)、巴の字(ともえのじ)にと懸け散らし、鶴翼魚鱗(かくよくぎょりん)に連なっては、東西南北に馬を自在に懸け回らせ、相手を懸け靡ける。

激戦の後、氏頼は、後方にひかえる小野(おの)軍をちらりと見やり、西方向に馬首を転じて、しばし、人馬に休息を取らせた。

佐々木軍の周囲には、主を失い、鮮血に染まった馬が多数、立っている。そのヒズメの下には、切って落とされた仁木軍側メンバーらの死骸が、あたり一面に散乱している。

これを見て、仁木軍サイドの他の武士たちは、完全に戦意を喪失(そうしつ)、内貴田井(ないきのたい:滋賀県・甲賀市)の天満山(てんまやま)の奥深くへ退かんと、左方に逃走を開始、勝ちに乗った佐々木軍サイドの若党らが、これをグイグイ追撃していく。

退却する側が難所に追い立てられてしまっては、もはや、持ちこたえる事はできない。矢野下野守(やのしもつけのかみ)、工藤判官(くどうはんがん)、宇野部(うのべ)、後藤弾正(ごとうだんじょう)、波多野七郎左衛門(はだのしちろうざえもん)、波多野弾正忠(はだのだんじょうのちゅう)、佐脇三河守(さいきみかわのかみ)、高嶋次郎左衛門(たかしまじろうざえもん)、浅香(あさか)、萩原(はぎわら)、河合(かわい)、服部(はっとり)ら、主要メンバー50余人が、一個所で討たれてしまった。

戦闘終了後、11月11日、仁木軍サイド戦死者の首が京都へ送られ、六条河原にさらされた。

彼らの首を見た人々は、身分の上下を問わず、みな、悲しみの思いでいっぱいである。

無名の武士B あぁ、なんてこった・・・おまえ・・・。(涙)

僧侶C つい昨日までは、親しく言葉を交わし、(涙)

有力武士D 肩を並べ、見慣れた朋友であったのに・・・(涙)

俗人E こないな姿に、なってしまわはった・・・(涙)。

この結果、仁木義長は、「公称3,000余騎」の兵力の大半を失ってしまい、彼のもとには、500余騎が残るだけとなった。更に、弟の仁木義任は、今回の敗戦の後、幕府側に投降してしまった。

「この機を逃さず、イッキに仁木をつぶしてしまえ!」との、将軍・足利義詮(あしかがよしあきら)の命令に従い、仁木追討軍大将の任を受けた佐々木氏頼と土岐大膳太夫入道(ときだいぜんだいぶにゅうどう)は、7,000余騎の兵を率いて、伊勢へ軍を進めた。

さしもの勇士・仁木義長も、ここまで手持ちの兵力が減じてしまっては意気消沈、追討軍に対して迎撃に出る事も無く、ひたすら、長野城(ながのじょう:三重県・津市)にたてこもるばかりであった。

長野城は要害であるがゆえに、追討軍側は、そうそうたやすくは攻め寄せる事ができない。大兵力ゆえに平場に陣を取った追討軍側に対して、仁木側が城から出てそれを攻める、という事もない。

両軍、5、6里の距離を隔てたまま、この伊勢の戦場では、その後2年もの間、戦線膠着状態が続いていった。

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