太平記 現代語訳 31-3 新田義興と脇屋義治、石塔義房らと連合して鎌倉を攻略す

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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新田義興(にったよしおき)と脇屋義治(わきやよしはる)が率いる軍勢は、わずか200余騎になってしまった。

新田義興 義宗(よしむね)とも、離ればなれになっちまったなぁ・・・。

脇屋義治 他の連中、みんな、どこへ行っちまったんだろう。

新田義興 (内心)波にも着かず、磯からも離れ、

脇屋義治 (内心)どこにも拠所(よりどころ)無し、まさに宙ぶらりんって、かんじ。

全員、馬から下りて休息を取りつつ、義興は、

新田義興 なぁ・・・この人数じゃぁ、上野(こうずけ:群馬県)へ帰るなんて、もう到底不可能だろう。かといって、他に落ちていく先の当ても無ぇ。どうせ死ななきゃなんねぇんだったら、いっそのこと、鎌倉(神奈川県・鎌倉市)へ打ち入ってさぁ、足利基氏(あしかがもとうじ:注1)やっつけてから、死のうじゃん。

脇屋義治 それ、いいね!

新田軍一同 おもしれぇ、やりやしょうぜ!

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(訳者注1)尊氏の次男。上洛した義詮に代わって、鎌倉府の長に就任した。
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全員、ひたすら討死にせんと志し、思い思いに母衣(ほろ)をかけて、鎌倉へ向かう。

夜半過ぎ頃、関戸(せきと:東京都・多摩市)を過ぎたあたりで、兵力およそ5、6,000騎はあろうかという、西方向に進む大軍勢に遭遇した。

新田義興 ありゃぁいってぇ、どこの軍だぁ?

脇屋義治 きっと、足利側のカラメ手方面軍だよ。

新田軍メンバーA 鎌倉まで行かずに、いっそのこと、ここで死んじまいやしょう。

新田軍メンバーB この関戸の地に屍をさらすってぇのも、また、いいじゃないですかぁ。

新田義興 よし。とにかく、あれが誰だか、確かめようぜ。戦うなら、それからだ。

新田軍は一団となり、馬を進めて行く。

新田義興 おぉい、そこのぉ! いったいどこんちの軍勢かなぁ?

石塔軍メンバーC おれは、石塔(いしどう)軍のメンバーよ。石塔義房(いしどうよしふさ)様と三浦高通(みうらたかみち)殿が、これから、新田殿に合流しようってんだよぉ(注2)。

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(訳者注2)31-1 では、石塔たちは、新田軍との合流を目指して、関戸へ向かった、という事になっている。
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脇屋義治 うわっ、こりゃぁいいや!(パチパチ・・・手を打って喜ぶ)

新田義興 やぁったぜ!(パチパチ・・・手を打って喜ぶ)

石塔軍メンバーC あんたら、いってぇ、なに喜んでんだぁ?

脇屋義治 ナニを隠そう、ここにいるおれたちこそが、その新田軍よぉ! おれは、脇屋義治。そして、こっちの人が、新田義興!

石塔軍メンバーC ゲホッ!

古代中国、魯陽(ろよう)が朽骨(きゅうこつ)を二度連ねて韓搆(かんこう)と戦いをした時に、日を三舎に返しての喜びも、これに比べれば、まだまだささやかなものであろう。まさに新田軍、思いがけなくも死中に活を得た、というわけである。

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(訳者注3)史実においては、起こった事の順序が、太平記の記述とは逆である。新田勢力は、挙兵後すぐに、鎌倉へ進撃し、その後、小手指原で足利軍と戦ったのである。
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合流した新田軍と石塔らの軍は一路、鎌倉へ。やがて、神奈川(かながわ:横浜市・神奈川区)に着き、一息入れた。

ひととおりの対面のあいさつの後、さっそく作戦会議となった。

新田義興 で、鎌倉の情勢は?

石塔義房 鎌倉にはねぇ、将軍の次男坊・基氏が、以前から駐在してまさぁ。これは、オタクらもご存じの事だよね?

新田義興 あぁ。

三浦高通 基氏には、南宗継(みなみむねつぐ)がついてる。安房(あわ:千葉県南部)と上総(かずさ:千葉県中部)の勢力3,000余騎でもって、化粧坂(けはいざか:鎌倉市)と巨福呂坂(こぶろざか:鎌倉市)を、用心厳しく、かためてる。

石塔義房 ところがね、昨日の朝、「新田軍、三浦半島(みうらはんとう:神奈川県南部)に有り!」って聞いて、「それ、やっつけちまえ」ってんで、やつら、鎌倉を出やがったんだ。でも、結局それ、ガサネタだったもんだから、すぐに引っ返して・・・今はもう、帰ってきてるらしい。

脇屋義治 なるほど、なぁるほど・・・鎌倉攻め、今がチャンスだよねぇ。

石塔義房 まったく、その通り。

新田義興 こりゃぁ、グズグズしてらんねぇや。今からすぐにここで準備して、直ちに、鎌倉攻めと行こうじゃぁねぇの。

石塔義房 OK!

三浦高通 じゃ、さっそく準備に・・・。

新田・石塔連合軍は、食事をとり、馬にたっぷりカイバを食べさせた上で、全軍3,000余騎を二手に分けた。そして、鶴岳(つるがおか:鎌倉市)へ旗差(はたさし)少々をつかわした後、勝長寿院(しょうちょうじゅいん)の上方から、逆落としに押し寄せていった。

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「敵軍、鎌倉に迫る!」との情報を。足利幕府・鎌倉庁がキャッチしたのは、南宗継軍が、三浦半島から戻ってきたばかりの時であった。彼らは、鎧の上帯も解かないまま、若宮小路(わかみやこうじ)に直ちに移動し、陣を構えた。

小俣宮内少輔(おまたくないしょうゆう:注4)は、今朝の時点で、新田・石塔連合軍側の軍奉行に任ぜられていた。宮内少輔は、手勢73騎を率いて、南宗継軍が群がるどまん中に突撃、火花を散らして切り乱す。

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(訳者注4)31-1 に登場。
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三浦、葦名(あしな)、二階堂(にかいどう)各軍のメンバーたちは、勝手知ったる鎌倉の中、人馬ともに元気一杯、こちらの谷から、あちらの小路より、ドッとおめいては懸け入り、サッと懸け破っては裏へ抜け、谷々小路小路に、入り乱れて戦う。

新田義興は、由比ガ浜(ゆいがはま)の民家の外れで、南側のメンバー3人を切って落し、大軍の群がる中をツッと駆け抜けた。

南側の一人が、義興の小手の手覆いを狙って切り付けてきたが、とっさに身をかわしたので、相手の太刀はそのまま流れて手綱(たづな)をズンと断ち切った。手綱の左側が地上に落ち、馬の足に踏まれた。

義興は、とっさに太刀を左脇にさし挟み、鐙(あぶみ)の鼻まで体を落して、落ちた手綱を拾い上げ、その右側に手早く結ぶ。

「これは絶好のねらい目」と、南側の3騎が、義興めがけて馳せ寄り、兜の鉢や鎧の後方を三回、四回と強打する。しかし、義興はいささかも騒がず、落ち着きはらって手綱を結び終え、再び鞍の上に体を戻した。

これを見たその3人は、

南側メンバーD なんてすげぇ武者なんだろう。

南側メンバーE おれたち3人相手にして、悠々と、手綱結んじゃってさぁ。

南側メンバーF こんな人、相手にしても、とてもかないっこねぇ。おいら、降参しちまおうっと!

南側メンバーD おれも!

南側メンバーE おれも!

3人は、新田軍にねがえってしまった。

「塔辻(とうのつじ:鎌倉市)方面、苦戦」と見て、脇屋義治軍と小俣宮内少輔軍は合体し、200余騎の軍勢でもって、南軍に襲いかかった。この攻撃を受けて南軍は、一気に総崩れになってしまい、南宗継は、旗を巻いて退き始めた。

これを見て、方々の谷々で抵抗を続けていた南側の者たちも、十方へ散りはじめた。もはや再び合流する事もかなわず、100騎、200騎と、思い思いに落ちていく。

しかし、三浦軍と石塔軍の武士たちは、すでにその戦闘力の限界に達していたので、それを深く追う事はなかった。

かくして、南宗継は、何とか一命だけは取りとめ、足利基氏を守りながら、石浜(いしはま:注5)目指して落ちていった。

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(訳者注5)位地不明。31-2 にも、この地名が登場している。
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このようにして、2月13日の鎌倉での戦に、新田義興と脇屋義治は大勝利を得て、先日の屈辱をみごとに果たしえたのみならず、二人は「両大将」と仰がれて、それからしばらくの間、関東8か国の統治者としての地位に据えられたのであった。

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