太平記 現代語訳 31-2 武蔵野の戦い

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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石塔義房(いしどうよしふさ)、三浦高通(みうらたかみち)らの陰謀が露見してしまい、双方しめし合わせて足利軍を壊滅せしめんとの計画が完全に覆ってしまった事を、新田義宗(にったよしむね)は夢にも知ろうはずがない。

新田義宗 さぁ、約束の時刻だぞぉ!

うるう2月20日(注1)午前8時、新田軍は、武蔵野(むさしの)の小手差原(こてさしはら:埼玉・所沢市)へ前進。

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(訳者注1)専門家の研究によれば、これ以降に記述の太平記の内容は、戦いの日時、場所等において史実と大きく食い違っているようだ。
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新田軍の編成は以下の通りである。

第1軍:大将・新田義宗、総勢5万余騎。白旗(しらはた)、中黒(なかぐろ)、頭黒(かしらぐろ)の紋を描いた旗が風に靡いている。団扇(うちわ)の紋の旗は、児玉党(こだまとう)武士団。さらに、坂東八平氏(ばんどうはちへいし)武士団、赤印一揆(あかじるしいっき)武士団らが参加している。彼らは5つのグループに分かれ、それぞれ5箇所に陣を取っている。

第2軍:大将・新田義興(にったよしおき)、総勢2万余騎。カタバミ、鷹の羽(たかのは)、一文字(いちもんじ)の紋。さらに十五夜の月弓一揆(いざよいのつきゆみいっき)武士団。ただの一人も敵に後ろを見せるまいと、こちらも、5グループに別れて四方六里に展開する。

第3軍:大将・脇屋義治(わきやよしはる)、総勢2万余騎。大旗(おおはた)、小旗(こはた)、下濃(すそご)の旗、鍬型一揆(くわがたいっき)武士団に、母衣一揆(ほろいっき)武士団、彼らも5箇所に分かれて陣を取り、射手を左右に展開し、騎馬隊を後方に置いている。

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「新田軍、小手差原に布陣」との報を聞き、

足利尊氏(あしかがたかうじ) よぉし、行くぞ!

足利軍一同 オオウ!

尊氏は、10万余騎の軍勢を5グループに分け、街道沿いに進んだ。

第1陣は、平一揆(へいいっき)武士団3万余騎、小手(こて)の袋、四幅袴(よのはかま)、笠標(かさじるし)に至るまで赤一色、ことさら輝いて見える。

第2陣は、白旗一揆(しらはたいっき)武士団2万余騎、白葦毛(しろあしげ)、白瓦毛(しろかわらげ)、白佐馬(しろさめ)、ツキ毛の馬に乗り、練貫(ねりぬき)の笠標に白旗を差す。新田軍側にも白旗一揆武士団が加わっていると聞き、それとの区別を明確にするために、彼らは、出陣の直前に旗の棒を切って短くした。

第3陣は、花一揆(はないっき)武士団、大将は饗庭命鶴丸(あえばみょうづるまる)、総勢6000余騎。萌黄(もえぎ)、火威(ひおどし)、紫糸(むらさきいと)、卯の花(うのはな)でツマ取った鎧に薄紅(うすくれない)の笠標。全員、梅花を一枝折って兜の正面に差している。四方の嵐の吹くたびに、鎧の袖は匂わんばかり。

第4陣は、「御所一揆(ごしょいっき)」と称し、総勢3万余騎。二引両(ふたつびきりょう)の足利家紋の旗の下、将軍・尊氏を守っている。これを構成するは、譜代家臣中の年長者や守護の任にある者たち、彼らは静かに馬を控えている。

第5陣は、仁木(にっき)三兄弟率いる軍、仁木頼章(よりあきら)、仁木義長(よしなが)、仁木義氏(よしうじ)の下、3,000余騎。笠標を付けず、旗も差さず、少し離れた場所に陣を取り、馬から下りて待機している。彼らは、いわば予備軍である。新田、足利双方共に大軍ゆえに、互いの激突は10回、20回と繰り返されていくであろう、敵も味方も気力を失い、戦い疲れてしまう事も予想される。その時こそが、この仁木軍の出番である。敵の大将が退いた地点に狙いを付け、夜襲を仕掛けるのだ。

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いよいよ、新田、足利双方の軍勢20万騎、小手差原に臨む。

一方が3度トキの声を上げれば、相手側も3度トキの声を合わす。上は須弥山(しゅみせん)の8万ユジュン上空に存在する、かの三十三天(さんじゅうさんてん)にまで響きわたり、下は大地の下160万ユジュンに存在の、あの金輪際(こんりんざい)まで聞こえるかのような、大音声である。

ついに、戦いの火蓋は切って落された。

新田義興が率いる新田第2軍団2万余騎と、足利第1陣・平一揆武士団3万余騎が、激突。

追いつ返しつの一進一退を1時間ほど展開、やがて左右へサァッと引き分かれる。双方共に、戦死者800余人、負傷者は数え切れないほど多数。

次に、最前線へ出たのは、脇屋義治が率いる新田第3軍団2万余騎。それに対するは、足利第2陣の白旗一揆武士団2万7千余騎。東西より、ガップリヨツに組み、一所にサッと入り乱れ、火花を散らして戦う。

馬たち ドドドドドドドド・・・。

太刀ら ガチッ! バチッ! パシーン! バシーン!・・・。

汗馬(かんば)の馳せ違う音、太刀と太刀とが鍔(つば)で激突する音、天に光り地に響く。

こちらでは、引き組んで首を取るもあり、取られるもあり、あちらでは、右方、左方に接近しては、切って落すもあり、落されるもあり。人血(じんけつ)の溜(たま)りを、馬蹄(ばてい)が蹴立(けた)てて、紅葉に注ぐ雨のごとく、屍(しかばね)は、野に道に横たわり、一寸の空隙も残ってはいない。

今の瞬間、相手を追い靡(なび)けたかと思いきや、次の瞬間には懸け立てられ、七度、八度と激突の末、東西にサァッと分かれていく。双方、戦死者500人。

そしていよいよ、足利第3陣が、最前線に姿を現した。これを率いる大将は、饗庭命鶴丸、当年18歳。まさに、当代無双の美青年、今日は「花一揆」の大将ゆえ、花を折って笠標に差してのいでたち、花一揆6,000余騎の最前列を、懸け進む。

これを見た、新田第1軍の大将・新田義宗は、

新田義宗 おやおや、花一揆と来ましたかぁ、じゃぁ、こっちは、児玉党で行こうじゃないの! 児玉党の諸君、君らの旗の紋、いったい、なぁーんだ?!

児玉党リーダーA 決まってらぁね、団扇(うちわ)でござんす!

新田義宗 じゃ、その団扇でもって風ビュンビュン、あの花、カタッパシから散らしてやんな!

児玉党一同 オオオ、うまいこと言うねぇ、ワッハッハッハッ・・・。

児玉党リーダーB よぉし、まかしときなってぇ! 団扇ドモォ、行ぃくぜぇーぃ!

児玉党一同 ウォー!

児玉党7,000余騎が、花一揆に襲いかかっていく。

花一揆は全員、若武者ばかり、思慮もなく、ただただ相手に懸かっていき、懸命に戦う。しかし、児玉党7,000余に一気に揉み立てられ、一回の反撃も出来ずに、ハァーッと退いていく。

足利サイドの他の武士団は、攻撃を仕掛ける時は一団となってかかり、退却する時は左右へサッと分かれ、間隙の開いたその中央部に、新手の軍をすかさず繰り出し、というようにして戦う。このようにしていれば、後陣には決して混乱が起らないからである。

しかし、この「花一揆」の者らは、そういった軍勢コントロール法を何も知らないものだから、前線から一目散に退却した末に、尊氏の後方に控えている陣中に、ボロボロとこぼれ落ちるかのように、乱入していく。それが障害となって、新手の軍を前線に送り出す事が出来ない。

この混乱に乗じた新田軍は、足利陣中に、巨大なクサビのごとくに、グイグイと食い込んでくる。勝ちドキを上げては突入、また勝ちドキを上げては突撃、波状攻撃の連続。

足利軍リーダーC このままではいかん!

足利軍リーダーD 少しだけ退いて、態勢を立て直してから、一気に反撃に!

足利軍リーダーE 退け、ちょっとだけな! ちょっとだけだぞ!

不用意に口にした彼らのこの言葉が、全軍崩壊の引き金を引いてしまった。

足利軍メンバーF 退却、退却!

足利軍メンバーG 退却だぁ--!

足利軍メンバー全員 アワワワ・・・。

足利軍10万余騎は、一斉に浮き足立ってしまい、大混乱の中に、壊走(かいそう)し始めた。

新田義宗は、自軍の旗の前へ馬を進めて叫ぶ、

新田義宗 おぉい、みんなよく聞けぇ! あそこにいやがる足利尊氏こそはなぁ、国にとっては陛下の敵、おれにとっては親のカタキよぉ! 今日という今日こそは、あいつの首取って、軍門に曝(さら)さん事にゃぁ、この先いつになるか、わかりゃしねぇー!

新田第1軍メンバー一同 オーッ!

新田義宗 行けぇ、行けぇ! どこまでも追え! とことん追え、尊氏を追えーっ!

新田第1軍メンバー一同 オーッ!

新田義宗 地の果てまでも追え、尊氏を追えーっ!

新田第1軍メンバー一同 オーッ! オーッ!

新田義宗 目指すは、尊氏ただ一人! 他のヤツは放ぉっとけーっ!

新田第1軍メンバー一同 それイケーッ!

彼らはひたすら、二引両の大旗を目印に、尊氏の本隊を追撃、南北へ逃げ行く足利サイドの他の武士には、目もくれない。

退く側は馬に鞭打ち、追う側はひたすら馬を走らせる。たった1時間の中に、小手差原から石浜(いしはま:注2)までの坂東道46里を、双方、疾風のごとく駆け抜けた。

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(訳者注2)諸説あって、位地不明。
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尊氏が、今まさにこれから石浜を渡ろうとしていた時、新田軍は、ついに足利軍に追い着いた。

足利尊氏 (内心)あぁ、我が人生、これにて終わりか・・・。

尊氏は、腹を切る覚悟を定め、鎧の上帯(うわおび)を切って投げ捨て、高紐(たかひも)を外しにかかった。

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尊氏の近習(きんじゅう)H (尊氏の右手をつかんで)将軍様、お待ち下さい!

尊氏の近習I (尊氏の左手を捕えて)だめですよ、自害なんか、なさっちゃ!

尊氏の近習J ここはおれたちに任せて、将軍様、さ、あっちへ、向う岸へ!

尊氏の近習K おい、おまえら、将軍様を頼む! えーい、行くぞ!

尊氏の近習L よぉし!

尊氏の近習一同 (内心)ここが、おれの死に場所だぁ、えぇい将軍様の為なら!

近習たち20余人は、とって返し、川中まで追いすがってくる新田軍の武士らを迎え撃つ。相手に引き組み、引き組み、一人、また一人と死んでいく間に、尊氏は窮地を脱し、向う岸にかけ上がる事ができた。

逃げる側は3万余騎、追いすがる側は500余騎。川の対岸は岸高く、屏風を立てたかのようである。足利サイド数万騎は、「ここが最後の防衛ライン!」と、対岸をかためにかかった。

時刻は既に18時過ぎ、相当暗くなってきており、川の浅深も定かには見えない。

新田義宗 エェーーイ! 尊氏が、目と鼻の先にいるってのにぃ! これじゃぁ、川、渡れやしねぇやぁ!

後から続いてくる味方の姿も見えない。

新田義宗 エェーイ、モォー!(ギリギリギリ・・・歯噛み)

やむをえず、義宗は、自軍の本陣に引き返した。

まぁそれにしても、足利尊氏という人、よくよく、運が強い人であるとしか、言いようがない。

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新田義興(にったよしおき)と脇屋義治(わきやよしはる)は合流し、白旗一揆(しらはたいっき)武士団中の2,3万騎が北の方に逃げていくのを見て、「あれこそが、尊氏の本隊であろう、どこまでも追いつめて討ちとってしまえ」と、50余町ほど追跡していった。

追いつめられた白旗一揆武士団メンバーたちは、続々と馬から下りて投降し、二人に対面して挨拶してくる。これに、方々で応対している間に、二人が率いていた軍勢は、逃げる相手を追ってさらに先に進んでいってしまい、二人と軍勢の大半とは、東西に隔たってしまった。

今や、義興と義治の周囲には、たった300余騎しかいない。

これぞまさに、仁木(にっき)兄弟にとっては、願っても無いチャンス、こういう機会を狙いながら、彼らは未だに一戦もせずに、馬を休めながら、葦(あし)原の中に隠れていたのである。

仁木義長 見ろよ、あれ! 敵の大将が2人も・・・しかも、その周囲(まわり)には、たったあれだけ!

仁木頼章 まったくもう、信じられねぇよなぁ、こんなチャンスに恵まれるなんてよぉ。

仁木義長 まさにこれは、天から与えられた絶好の機会だな。

仁木頼章 源氏末流(まつりゅう)の連中だの、方々から駆けつけてきたヤツラだの、何千騎討ってみたところで、どうにもなりゃしねぇ。狙うんだったら、ああいうヤツを狙うわなきゃなぁ・・・よぉし、行くぜ!

仁木軍メンバー一同 オウッ!

仁木軍3,000余騎は、一団となって、新田義興と脇屋義治に襲いかかっていく。

新田義興 ウゥッ! あれは!

脇屋義治 伏兵だ、伏兵がいたんだ!

新田義興 どうみても、こっちの方が兵力少ないな・・・きっと、鶴翼陣形(かくよくじんけい)でもって、包囲しにかかってくるだろう。

脇屋義治 なら当然、こっちは、魚鱗陣形(ぎょりんじんけい)。

新田軍は、魚の鱗のように密集して馬のくつばみを並べ、仁木軍の中央を突破しようとした。

仁木義長は、とっさに陣形を構えた相手のこの動きに、鋭い視線を送り、

仁木義長 おいみんな、敵の数が少ねぇからって油断するなよ! あの馬の配置、あの陣構(じんがま)え、ありゃぁナミの武士じゃねぇや。油断してると、こっちの中央、イッパツで割られちまうぜぃ。

仁木義長 こっちも密集陣形取ってな、敵が懸かってきても、絶対に陣形崩すなよ、いいな、わかったなぁ! 常に前後に目を配ってな、大将らしい敵見つけたら、引き組んでいっしょに落ちて、首を取れ。下っ端が懸かってきたら、射て落とせ。

仁木義長 とにかく、敵に、トコトン力を出し切らせちまうんだ。それまで、こっちがひるまずに持ちこたえれたら、こっちは多勢、相手は無勢、もうそうなったら、勝利はこっちのもんさ!

このように、戦い方を詳細に全軍に指示し、一団となって待ち構えている。

その後の戦況推移は、義長のもくろみ通りになっていった。

目前に控えて挑発を繰り返す仁木軍にがまんならず、新田義興と脇屋義治は、300余騎を一団にまとめ、仁木軍のど真ん中を懸け破り、蜘蛛手(くもで)、十文字(じゅうもんじ)に蹂躪(じゅうりん)せんと、一斉におめいて、襲いかかっていった。

義長は、その面に動揺のかけらも見せる事無く、的確に指示を出す。

仁木義長 中央を破られるなよ! とにかく、敵に力を出しきらせてな、疲れさすんだ! 疲れさせろ!

仁木軍は、ますます馬を寄せ合い、隙間なくビッシリと陣をかためる。

双方、最前線に位置する者たちが互いに討たれあった後、サッと退く。しかし、仁木軍は追撃をかけない。

次に、新田軍は、仁木軍の背後に回り込んだ。しかし、仁木軍の正面陣には、いささかの動揺も見られない。

東から新田軍が攻めかかっても、仁木軍の西側は落ち着き払っている。新田軍が北へ回り込んでも、仁木軍の南側は微動だにしない。懸け寄せれば打ち違い、組んで落ちれば落ち重なる。千度百度と、新田軍が攻撃をしかけていっても、仁木軍の強陣は勢い堅く、大将は一寸たりともその場を退かない。

ついに、新田義興と脇屋義治は戦い疲れてしまい、東方を目指して退却開始。

20余町ほど逃げた後に、戦死者を調べてみたところ、当初は300余騎あった兵力も、100余が討たれ、残るは200余になってしまっていた。

義興は、兜のシコロと袖の三の板を切り落とされ、小手の外れと脛当ての外れに、軽症3箇所を負っていた。

義治の鎧は、その胴左部分、草ずりの横縫いを全部突き切られ、かろうじて威し糸が残っているだけの状態であった。兜の鍬型は両方とも切り折られ、星も少し削られていた。太刀が鍔元(つばもと)から折れてしまったので、中間(ちゅうげん)に持たせていた長刀(なぎなた)を持っていたが、その峯の側はササラの子のようにギザギザに傷つけられており、刃の側はノコギリのように刃コボレしていた。乗馬に三個所も傷を付けられてしまったので、予備の馬に乗り換えたが、その後すぐに乗馬は倒れて死んでしまった。

両大将ともに、自ら戦ってこのように傷をこうむったのである、ましてや、その下の武士たちは何をかいわんや、全員重傷を負い、切り傷の2、3箇所を負わぬ者はまれである。

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もう少し、という所で、足利尊氏を討ち漏らしてしまった新田義宗は、

新田義宗 今日はもう、日も暮れちまったし、しょうがねぇやなぁ。軍勢をまた集めて、明日、石浜(いしはま)まで進撃だぁ。

義宗は、兵をまとめて小手差原へ帰った。しかしそこには、新田義興と脇屋義治の姿が見えない。

新田義宗 おっかしいなぁ・・・いってぇ、どうしたんだろう・・・二人とも、どこへ行っちまったんだい?

義宗は、二人を捜して、あちらこちらへ馬を走らせ、行き会う武士毎に問うた。

新田義宗 おい、アニキ、どこにいるか知らねぇか? 義治はどこだい?

武士M 義興殿と義治殿は、いっしょに陣組んどられたけんど、仁木に負けちまってね、東の方へ逃げてった。

新田義宗 ナニッ!・・・で、今、どうしてる?

武士M 東の方へ行くトコまでは見けたけど・・・さぁー、その後、いったいどうなったんだかねぇ。

新田義宗 うーん・・・じゃ、あのかがり火は・・・。

武士N ありゃ、敵方の火ですわ。ここいらにゃぁ、味方のもんは一人もいやしねぇよ。きっと、仁木兄弟の軍勢か、白旗一揆の連中らの火だろ。

新田義宗 エェーイ!

武士O 殿、そんな小勢で、ここらにジットしてちゃぁ、もうホント危険ですぜぃ。悪いこたぁ言わねぇ、早いとこ、夜に紛れて、笛吹峠(ふえふきとうげ:注3)の方へでも移動なさいまし。そいでもって、越後(えちご:新潟県)と信濃(しなの:長野県)の連中集めてさぁ、もう一度合戦なさいまし。

義宗は、暫く思案していたが、

新田義宗 しょうがねぇなぁ・・・よし、そうしよう。

義宗は夜通しかけて、道々

新田義宗 おいおい、笛吹峠へ行くには、いってぇ、どっちへ行ったらいいんだい?

と尋ねながら、戦場から落ち延びていった。

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(訳者注3)この「笛吹峠」の位置は不明。
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