太平記 現代語訳 13-4 北条時行、反乱軍を起す

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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公卿A 御新政がスタートしてから、近畿地方はだいぶ平穏になってきました。そやけど、関東はねぇ。

公卿B そうでんなぁ、いまだに、反朝廷派の動きが、見え隠れしとりますよ。

公卿C ここはやっぱし、朝廷から地方長官を一人、鎌倉に派遣してですねぇ、関東をきっちり押さえとく方が、よろしぃんちゃいますやろか?

後醍醐天皇 そうやなぁ。

というわけで、後醍醐天皇の第8皇子・成良親王(なりよししんのう)を征夷大将軍に任命し、鎌倉(かまくら:神奈川県・鎌倉市)に駐在させていた。そして、その執権(しっけん:注1)には、足利直義(あしかがただよし)が任命され、関東地方の行政は、事実上、直義の手に委ねられていた。

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(訳者注1)将軍を補佐する役。
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直義は、鎌倉幕府の統治時代からの関東地方の法令には一切手をつけずに、それをそのまま適用して、行政を行っていた。

そのような時に、西園寺公宗のクーデター計画が露見し、公宗が誅殺されたのであった。

京都で旗揚げしようとしていた北条家の残党たちは皆、関東地方へ、あるいは北陸地方へ脱出し、それらの地域において、打倒・朝廷に向けて決起した。

名越時兼(なごやときかね)の旗下には、野尻(のじり)、井口(いのくち)、長澤(ながさわ)、倉満(くらみつ)の者たちが馳せ参じ、越中(えっちゅう:富山県)、能登(のと:石川県北部)、加賀(かが:石川県南部)の勢力が多く参集、その兵力は6,000余騎にまで膨張した。

一方、北条時行(ほうじょうときゆき)の下には、諏訪頼重(すわよりしげ)、三浦時継(みうらときつぐ)、三浦五郎(ごろう)、葦名盛員(あしなもりかず)、那和宗政(なわむねまさ)、清久山城守(きよくやましろのかみ)、塩谷民部大夫(しおのやみんぶたいふ)、工藤四郎左衛門(くどうしろうさえもん)ら、有力者50余人が参集、伊豆(いず:静岡県東部)、駿河(するが:静岡県中部)、武蔵(むさし:埼玉県+東京都)、相模(さがみ:神奈川県)、甲斐(かい:山梨県)、信濃(しなの:長野県)の勢力のほとんどが、そこに結集。

かくして、北条時行の軍5万余騎は、信濃を進発し、あっという間に鎌倉に向けて軍を進めていった。

渋河義季(しぶかわよしすえ)と小山秀朝(おやまひでとも)が、武蔵国においてこれに対抗し、北条時行軍の進出を防ぎ止めようと試みたが、ともに戦い利あらず、両人それぞれ自害、その郎従300余人も、主君と運命を共にした。

さらに、上野国(こうずけこく:群馬県)の鏑川(かぶらがわ)において北条軍に抗した新田四郎(にったしろう)の軍も、圧倒的な兵力差の前にいかんともしがたく、たった一戦にて粉砕され、200余人もの戦死者を出してしまった。

この後、北条時行軍はますます兵力増大し、いよいよ三方から鎌倉へ押し寄せ、という情勢となってきた。

この情勢をキャッチした足利直義は、全軍撤退の決断を下した。

足利直義 実に急ピッチな展開だったからな、こちら側の兵力、少なすぎるんだよ。このままじゃ、いくら戦ってみても、到底勝ち目はない。だからな、成良親王殿下をお守りしながら、鎌倉を脱出するぞ! いいな、みんな!

直義家臣一同 はいぃー!

7月16日の暁、彼らは鎌倉を脱出した。

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