太平記 現代語訳 24-4 天龍寺での供養法要、盛大に執行

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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「かくなる上は、幕府により、天龍寺(てんりゅうじ)での供養法要を執行すべし。法皇(ほうおう)・上皇両陛下におかせられては、法要の翌日に御幸(みゆき)おん願いたてまつる」と、決した。

康永(こうえい)4年8月29日、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)・足利尊氏(あしかがたかうじ)と、左兵衛督(さひょうえのかみ)・足利直義(あしかがただよし)は、行列を調(ととの)え、天龍寺へ参詣。

見物人は道の両側に満ち溢れ、僧俗はここかしこに群れを成し、前代未聞の壮観である。

行列の先頭を進むのは、侍所(さむらいどころ)メンバー、山名時氏(やまなときうじ)。華やかな鎧を身に着けた武士500余騎を率いながら、先行する。

それに続く随兵(ずいひょう:注1)の先陣を務めるのは、武田信氏(たけだのぶうじ)、小笠原政長(おがさわらまさなが)、戸次頼時(とつきよりとき)、伊東祐熙(いとうすけひろ)、土屋範遠(つちやのりとう)、東常顕(ひがしつねあき)、佐々木道誉(ささきどうよ)の子・佐々木秀定(ひでさだ)、同じく佐々木氏綱(うじつな)、大平義尚(おおひらよしなお)、栗飯原清胤(あいはらきよたね)、吉良満貞(きらみつさだ)、高師兼(こうのもろかね)、以上12名。様々の色の糸で綴られた鎧を着け、烏帽子(えぼし)の上から紐をかけて顎の下で結び、太くたくましい馬に厚く広いシリガイをかけ、2騎1組で進んでいく。

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(訳者注1)将軍が外出する時、その前後を警備する。
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3番手を進むは、帯刀(たてはき:注2)隊である。武田四郎(たけだしろう)、小笠原政経(おがさわらまさつね)、小笠原宗光(むねみつ)、三浦藤村(みうらふじむら)、三浦越中の次郎(えっちゅうのじろう)、二階堂政直(にかいどうまさなお)、二階堂対馬四郎(つしまのしろう)、佐々木高秀(ささきたかひで)、佐々木高秋(たかあき)、海老名季直(えびなすえなお)、平賀忠経(ひらがただつね)、逸見貞有(へんみさだあり)、小笠原行嗣(おがさわらゆくつぐ)他16名。様々な色の直垂(ひたたれ)を着し、思い思いの太刀を佩き、2列縦隊で歩みゆく。

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(訳者注2)太刀を佩いて供奉する武士。
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その後方に、八葉の紋を付けた色鮮やかな牛車が進む。その車中の人こそは、正二位大納言(しょうにいだいなごん)・征夷大将軍・源朝臣(みなもとのあそん)足利尊氏。簾を高く揚げ、衣冠正して乗っている。

5番手を進むは、後陣の帯刀。設楽助定(しだらすけさだ)、設楽助兼(すけかね)、寺岡師春(てらおかもろはる)、寺岡次郎(じろう)、逸見朝之(へんみあさゆき)、逸見清重(きよしげ)、小笠原蔵人(おがさわらくろうど)、秋山光政(あきやまみつまさ)、佐々木出羽四郎(ささきでわのしろう)、佐々木清氏(きようじ)、富永四郎(とみながしろう)、宇佐美三河守(うさみみかわのかみ)、清久泰行(きよくやすゆき)、木村基綱(きむらもとつな)、曽我師助(そがもろすけ)、伊勢貞継(いせさだつぐ)、以上16名、衣服帯剣、前陣の帯刀と同様に、行列の順番を守って進む。

その後方にまたも、八葉の紋を付けた牛車。車中の人は、参議・正三位(さんぎしょうさんみ)・左兵衛督・源朝臣・足利直義。左右に飾りのついた紐で冠を結び、蒔き絵細工を施した飾り太刀を佩いている。

7番手を、役人(やくにん:注3)の一団が進む。南部宗継(なんぶむねつぐ)と高師冬(こうのもろふゆ)は御剣(ぎょけん)の役。長井廣秀(ながいひろひで)と長井時春(ときはる)は御沓(おんくつ)の役。佐々木秀長(ささきひでなが)と佐々木貞信(さだのぶ)は御調度(おんちょうど)の役(注4)。和田宣茂(わだのぶしげ)と千秋惟範(せんしゅうこれのり)は御笠(おんかさ)の役。以上8名、無紋の狩衣(かりぎぬ)に指貫袴(さしぬきばかま)の裾を膝下に結んで列を引く。

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(訳者注3)特定の役目を持った人、の意。官僚の事ではない。

(訳者注4)将軍の弓矢を帯する役。
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8番手には、高師直(こうのもろなお)、上杉朝定(うえすぎともさだ)、高師泰(こうのもろやす)、上杉重能(うえすぎしげよし)、大高重成(だいこうしげなり)、上杉朝房(うえすぎともふさ)。無紋の狩衣(かりぎぬ)に袴の裾を足首のへんで結び、騎馬用靴を穿いて左右2騎ずつ並びながら進む。

9番手には、後陣の随兵(ずいひょう)、斯波高経(しばたかつね)の子・斯波氏頼(しばうじより)、千葉氏胤(ちばうじたね)、二階堂行通(にかいどうゆきみち)、二階堂行光(ゆきみつ)、佐竹師義(さたけもろよし)、佐竹義長(よしなが)、武田盛信(たけだもりのぶ)、伴野長房(とものながふさ)、三浦行連(みうらゆきつら)、土肥高実(とひたかさね)、以上10名、軍衣、甲冑(かっちゅう)いずれも金玉を磨いたごとくである。

10番手には、外様(とざま)の有力武士500余騎が、直垂を着てあい従う。土佐四郎(とさのしろう)、長井修理亮(ながいしゅりのすけ)、長井丹波左衛門太夫(たんばのさえもんだいう)、摂津左近蔵人(せっつのさこんくろうど)、城丹後守(じょうたんごのかみ)、水谷刑部少輔(みずたにぎょうぶしょうゆう)、二階堂安芸守(にかいどうあきのかみ)、二階堂山城守(やましろのかみ)、中條備前守(なかじょうびぜんのかみ)、薗田美作権守(そのたみまさかごんのかみ)、町野加賀守(まちのかがのかみ)、佐々木豊前次郎左衛門尉(ささきぶぜんのじろうさえもんのじょう)、結城三郎(ゆうきさぶろう)、梶原河内守(かじわらかわちのかみ)、大内民部太夫(おおうちみんぶたいう)、佐々木能登前司(ささきのとのぜんじ)、大平六郎左衛門尉(おおひらろくろうさえもんのじょう)、狩野下野三左衛門尉(かののしもつけさんざえもんのじょう)、里見義宗(さとみよしむね)、嶋津下野守(しまづしもつけのかみ)、武田兵庫助(たけだひょうごのすけ)、武田八郎(はちろう)、安保肥前守(あぶひぜんのかみ)、土屋三河守(つちやみかわのかみ)、小幡右衛門尉(おばたうえもんのじょう)、疋田三郎左衛門尉(ひきださぶろうさえもんのじょう)、寺岡九郎(てらおかくろう)左衛門尉、田中下総三郎(たなかしもうさのさぶろう)、須賀(すが)左衛門尉、赤松美作権守(あかまつみまさかごんのかみ)、赤松次郎左衛門尉、寺尾新蔵人(てらおしんくろうど)、以上32名、入り乱れ、順番を守らずに馬を進める。

その後方に、吉良(きら)、渋川(しぶかわ)、畠山(はたけやま)、仁木(にっき)、細川(ほそかわ)はじめ、足利家有力親族や外様の有力武士が入り乱れ、弓矢や刀を帯して、思い思いの馬や鞍に跨りながら、大宮御所(おおみやごしょ)から天龍寺のある嵯峨野(さがの:右京区)まで、絶える事無く、袖を連ねて続いていく。

薄馬場(すすきのばば:右京区)のあたりで、随兵、帯刀他、直垂や狩衣を着た一行は、行列を再度正した後、行進を再開した。

やがて、行列の先頭が天龍寺の門前に到達した。

寺の山門は、首都圏知事(注5)・佐々木秀綱(ささきひでつな)が警護していた。彼の統率の下、黒い袴をはいた走り使いの下僕、金銀を延べたかのような水干(すいかん)や直垂を着た雑役担当の下僕、さわやかに鎧を着た若党300余人、敷皮の上に腰掛を並べて列座しながら山門を警護するその威風は、周囲を圧している。

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(訳者注5)原文では「検非違使(けびいし)」。
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やがて、尊氏と直義が寺の本堂へ入り、勅使・日野資明(ひのすけあきら)、院よりの使者・高泰成(こうのやすなり)も加わって、いよいよ法要開始。

その日の法要は順調に進み、何のトラブルもなく終了した。

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翌8月晦日(つごもり)、いよいよ、花園法皇(はなぞのほうおう)と光厳上皇(こうごんじょうこう)が、仏と結縁するために天龍寺へ御幸(みゆき)する日がやってきた。

昨日とは全く異なる様の行列が見れるということで、見物人の数は膨大、足の踏み場も無いほどである。

見物人A あ、き(来)はった、きはった、陛下、きはったえ!

見物人B うわぁー、ほんまや!

やがて、牛車が天龍寺の総門に到着した。

見物人C あれぇ、車から牛、放してるやん、なんで?

見物人D あの門から先はな、人間が車を引いていくんやがな。

見物人C ふーん・・・。

見物人E あの牛車の御者はな、7人とも全員、持明院グループ(注6)所属の名人ぞろいですわ。

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(訳者注6)原文では「持明院党(じみょういんとう)」。
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見物人F へぇー、御者にまで、そないなグループありますんかいな?

見物人E ありますんや。中でも松一丸(まついちまる)、ほれ、あの先頭左の男ですよ、あれが一番の達人ですわ。金銀鏤(ちりばめ)た豪華な服、着てまっしゃろ。

見物人F ほんに、まぁ。

見物人A あっ、車の御簾(みす)上がったえ!

見物人B いやぁ、陛下のお顔が・・・陛下ぁー! キャーァ!

見物人C 陛下ぁー! わーい! 陛下ぁー!

光厳上皇は、車の中から見物の人々をじっと見ている。

見物人G 陛下の今日のお召しもの、とってもゴージャスなのよねぇ。あの御衣(ぎょい)は黄練貫(きねりぬき)って言ってね、経(たていと)に生糸(きいと)、緯(よこいと)に練糸(ねりいと)を使って織ってあるのよね。

見物人A へーえ。

見物人G 直衣(のおし)がまた、とってもシックよねぇ、生糸織りの素材に2本の曲線に囲まれた雲のデザイン・・・いいわぁ。その下には、薄紫色の指貫袴(さしぬきばかま)・・・ほんと、キマってらっしゃるわねぇ。

見物人B 今、あこの車寄せに来はったあの貴公子、どこのどなたや?

見物人E あれは、大納言の竹林院公重(ちくりんいんきんしげ)はんでんな。

見物人G あの方のお召し物もステキだわぁ。裏白に表はオレンジ色の狩衣(かりぎぬ)、牡丹(ぼたん)の花のデザイン。衣(きぬ)の素材は生糸、薄紫の地色の上に金銀粉散らして、巴藤(ともえふじ)の紋様。指貫袴は生糸織りの青鈍(あおにび)ね。

見物人E あのすぐ後ろにいはんのんが、左参議中将(ささんぎちゅうじょう)の洞院忠季(とういんただすえ)はんですわ。

見物人G あの方のファッションも、なかなか見事よ。狩衣は薄紫色だけど、裏布を外して着ておられるのよね。蔦の紋がまたいいわよね。指貫袴は浅黄色(あさぎいろ)みたいに見えるけど、複雑な光沢をしてるでしょ? あれはねぇ、女郎花(おみなえし)って織り方してるの。経(たていと)と緯(よこいと)に別の色の糸を使いあわせるの。あの袴の場合は、経に青、緯に黄を使って、経糸を浮き上がらせてあるのよね。

見物人E ほならあれは? そのすぐ左の人、左中将・鷹司宗雅(たかつかさむねまさ)はんの着物。

見物人G あの狩衣も基本は、女郎花織りね。素材は生糸かしら、青色の経糸が浮き出てるでしょ? 朝顔の花の紋がきれいだわねぇ。薄紫色の生糸の衣、指貫袴には藤の丸の紋ね。

見物人E その後ろは、頭左中弁(とうのさちゅうべん)・日野宗光(ひのむねみつ)はんや。

見物人G あの狩衣はとってもユニーク。浮き織りは浮き織りなんだけどさぁ、表が萌黄(もえぎ)色で裏は黄色でしょ、ほんと、ユニークなカラーよぉ!

見物人D その左、右少将(うしょうしょう)・山科教言(やましなのりこと)はんの着たはるのん、またまた鮮やかやねぇ!

見物人G ほんと、鮮やかよねぇ! 紋は紫苑唐草(しおんからくさ)、上に着ておられる青の生糸織り、下の紅色との対比で、とっても鮮やか。あの下の布はね、「ヒキヘギ」って仕上げがしてあるの、だからあんなに光沢があるのよね。

見物人A その「ヒキヘギ」言うたら、どんなん?

見物人G 漆を塗った板にね、絹布を貼り付けるの。それから引っぱがすのね。

見物人B ふーん!

見物人D あの右横の皇太子局・権大進(ごんたいしん)(注7)・日野時光(ひのときみつ)はんのんも、なかなかよろしいなぁ。

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(訳者注7)原文では「春宮権大進」。
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見物人G あれも、狩衣は経糸と緯糸、別々の色を使ってあるわね。経は青、緯は紫、萩のデザインがいいわねね。衣は「女郎花」織り、生糸の素材で色は青。指貫袴の藍色と、とってもマッチしてるわぁ。

この後には、六位の院警護役、中原季教(なかはらすえのり)、源康定(みなもとのやすさだ)、源康兼(やすかね)、藤原親有(ふじわらみつあり)、安部親氏(あべみつうじ)、豊原泰長(といはらやすなが)が続く。

御随身(みずいじん)役を務めるのは、秦久文(はたひさふん)、秦久幸(ひさゆき)たち。

法要参座の公卿は、三条公秀(さんじょうきんひで)、日野資明(ひのすけあきら)、四条隆蔭(しじょうたかかげ)、洞院実夏(とういんさねなつ)、足利直義(あしかがただよし)。彼らの華やかな姿は周囲までをも輝かせている。

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仏殿の北の廊4間を飾って高座がしつらえてある。三重菱紋の畳を重ね敷き、その上に毛氈(もうせん)が敷かれている。

その北側に、法皇と上皇の為の御席として、畳がおいてある。

仏殿の西の間には、屏風を立てた休憩所が設けられている。その内には島台が置かれており、台の上には箱庭がある。天龍寺の前を流れる大堰川(おおいがわ)の景観を表現したもので、紅葉の下を水が流れ行く様を見事に表しており、大いに感興を盛り上げている。これは、尊氏の命を受けて、三宝院賢俊(さんぼういんけんしゅん)が制作させたものである。

仏殿の裏2間に御簾をかけ、両陛下の法要御聴聞(ちょうもん)所が設置されている。その北側には、畳を敷いた公卿たちの座も設けられている。

仏殿前の庭を見れば、東西に幕が張られ、左右に分かれた舞人11人が、舞楽装束を着て椅子に腰掛けている。

左方には、光栄(みつなが)、朝栄(ともなが)、行重(ゆきしげ)、葛栄(かつよし)、行継(ゆきつぐ)、則重(のりしげ)。右方には、久経(ひさつね)、久俊(ひさとし)、忠春(ただはる)、久家(ひさいえ)、久種(ひさたね)。

さらに、鳳笙(ほうしょう)と龍笛(りゅうてき)(注8)を手に持った楽人が18人、新秋(にいあき)、則祐(のりすけ)、信秋(のぶあき)、成秋(なりあき)、佐秋(すけあき)、季秋(すえあき)、景朝(かげとも)、景茂(かげもち)、景重(かげしげ)、栄敦(よしあつ)、景宗(かげむね)、景継(かげつぐ)、景成(かげなり)、季氏(すえうじ)、茂政(みちまさ)、重方(しげかた)、重時(しげとき)。

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(訳者注8)笙と笛の美称。
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いよいよ、法要開始。

本日の導師(どうし)・夢窓疎石(むそうそせき)が、山門から進み出た。楽人が乱調で楽を奏で始め、舞人が一斉に舞いはじめる。

楽の音は響き続ける・・・その場に居合わせた全員の目に、次第に感涙が浮かんでくる。

導師・夢窓疎石は、金襴(きんらん)の袈裟(けさ)と沓(くつ)を身に付け、筵(むしろ)を敷き述べた参道を粛々(しゅくしゅく)と進む。導師に天蓋(てんがい)を差し掛ける役は、二階堂丹後三郎左衛門(にかいどうたんごさぶろうざえもん)、天蓋に着けた綱を執る役は、嶋津常陸前司(しまづひたちのぜんじ)、佐々木三河守(ささきみかわのかみ)の両人である。3人は、導師と共に歩を進める。

左右の舞人が全員、幕の前に立ち上がり、参向の儀礼を行った後、萬秋楽(まんじゅうらく)のフレイズが奏せられると共に、舞台の下に列を引く。

他寺から招待された高僧たちも、導師の後に続き、次々と入堂していく。南禅寺(なんぜんじ)の長老・智明(ちみょう)、建仁寺(けんにんじ)の友梅(ゆうばい)、東福寺(とうふくじ)の一鞏(いっきょう)、万寿寺(まんじゅじ)の友松(ゆうしょう)、真如寺(しんにょじ)の良元(りょうげん)、安国寺(あんこくじ)の至孝(しこう)、臨川寺(りんせんじ)の志玄(しげん)、崇福寺(すうふくじ)の慧聡(えそう)、清見寺(せいけんじ)の智琢(ちたく)、そして天龍寺次席の士昭(ししょう)(注9)、いずれも天下の賢聖ばかり、釈尊の十大弟子に擬して、その後に従者たちが続く。まさに荘厳この上ない様である。

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(訳者注9)原文では「本寺当官にて、士昭首座」。
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正面の扉が閉ざされた後、まずは願文(がんもん)の奉読、次に説法、このようにして、数時間が経過していく。

やがて法要は終了、舞人が再び、幕の前に帰って舞う。左方は蘇合(そこう)、右方は古鳥蘇(ことりそ)、そして、陵王荒序(りょうおうこうじょ)、納蘓利(のうそり)、太平楽(たいへいらく)、狛杵(こまほこ)。

中でも、「荒序」は秘中の秘曲、そうそうたやすく奏せられるものではないのだが、他ならぬ法皇・上皇両陛下ご臨幸の法要の座とあらば、大いに披瀝(ひれき)すべし。朝栄がこれを舞い、笙は新秋、笛は景朝、太鼓は景茂が担当。まさに一世一大の名誉、天下の壮観たぐい無し。

その後、夢窓は花形香(注10)を薫じ、「今上皇帝(きんじょうこうてい)、聖躬萬歳(せいきゅうばんざい)」と祝辞を述べた。

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(訳者注10)原文では「一弁の香」。
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最後は「布施の儀」。御布施(おんふせ)役は、飛鳥井雅孝(あすいかいまさたか)、高階雅仲(たかしなまさなか)、一条実豊(いちじょうさねとよ)、持明院家藤(じみょういんいえふじ)、難波宗有(なんばむねあり)、二条資将(にじょうすけまさ)、難波宗清(なんばむねきよ)、紙屋川教季(かみやがわのりすえ)、持明院基秀(じみょういんもとひで)、姉小路基賢(あねこうじもとかた)、二条雅冬(にじょうまさふゆ)、持明院盛政(じみょういんもりまさ)、千秋駿河左衛門太夫(せんじゅするがさえもんだいう)、星野刑部少輔(ほしのぎょうぶしょうゆう)、佐脇左近太夫(さわきさこんだいう)。

彼らは、金銀珠玉、高級絹布、さらには国内外にもその名を聞くばかりで未だ実物を見た事もないような珍宝を次々と仏前に運び、布施の品々が山のように積み上げられていく。かつての古代インド・マカダ国において、ビンビサーラ王が500の車に珍貨を積んで釈尊に奉ったというあの故事も、これに比べれば、まだまだ小さい事のように思えてならない。

両日の法要を目にした人々はことごとく、「福徳(ふくとく)と智慧(ちえ)の二荘厳(にそうごん)を成就し、衆生済度(しゅじょうさいど)の道を拡大するにおいて、夢窓国師はまさに最高の人!」との感服の念を深め、これまでの自らの宗旨を改め、禅宗に対する忌避(きひ)の念を捨てて、それに帰依するに至った。

このようにして、事前の様々なトラブルに悩まされ続けたこの大法会(だいほうえ)も無事終了し、「上皇陛下の叡願も、幕府の帰依も、一時に望みを達成することができた!」と、全員、喜悦(きえつ)の眉を開いたのであった。

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仏像を作り寺院を建立する、という行為がもたらす善根はまことに勝れている。しかしながら、それを発願した人がわずかでも驕慢(きょうまん)の心を起こしたならば、その寺院の入仏開眼落慶法要(にゅうぶつかいげんらっけいほうよう)には様々なトラブルが発生し、仏・法・僧の安住保持も長続きしなくなってしまうのである。

ゆえに、中国・梁(りょう)王朝の武帝(ぶてい)がダルマに対して、「我は、寺を建てる事1,700余箇所、僧尼を供養する事10万8千人。いかなる功徳ありや?」と問うた時、ダルマは、「功徳無し」と答えたのである。

ダルマは、本当に、武帝に功徳が無いから「功徳無し」と言ったのではない。「多くの寺を建てたぞ」と誇るその驕慢の心をうち破り、武帝の信心を無為自然の大いなる善の境地に帰せしめんがために、わざと、このように答えたのである。

わが国においてもその昔、聖武天皇(しょうむてんのう)が東大寺(とうだいじ:奈良県・奈良市)を造立(ぞうりゅう)して、金銅16丈のルシャナ仏が安置された時、「さぁ、いよいよ大仏開眼法要!」という事になり、行基菩薩(ぎょうきぼさつ)をその法要導師に請(しょう)じた。

その時、行基は勅使に答えていわく、

行基 陛下よりのご命とあっては、それを辞退申しあげるっちゅうわけには、そらいかんやろぉ・・・そやけどなぁ、、大仏開眼っちゅうような大変な御願ともなると、それが叶うかどうか、それは、人間世界に姿を現された神仏と、姿を現せされてない神仏のお心一つですわいな。とにかく、神仏におまかせ、これしかしゃぁないんや。

勅使 ・・・。

行基 当日は、仏前に香花(こうげ)をそなえ、仏徳賛美の偈(げ:gāthā)を唱え、インドから招いた高僧を導師に仰いで法要を行う、こないするしか、しゃぁないですわ。

それを聞いた、天皇はじめ朝廷の面々は、

公卿H 行基もまた、ヘンな事、言いよりますなぁ。

公卿I インドから、法要の導師を呼べやてぇ!

公卿J 百万里もの波涛を隔てた地から、いったいどないして、日本に呼び寄せぇっちゅうや! えぇかげんにしいや!

公卿K 釈尊のご在世の頃やったら、そのような奇跡も起こりえたんかもしれません、そやけど、今は末世ですよってにな、そないな事、到底、期待できしませんがな。

聖武天皇 まぁまぁ、そないにワァワァ言うなぁ。他ならぬあの行基がそないに言うてんねんから、彼に任しとこうやぁ。

公卿一同 ・・・。

というわけで、朝廷は、法要の前日になっても導師を定めおかなかった。

いよいよ法要当日の朝、行基は、自ら摂津国(せっつこく:大阪府北部+兵庫県南東部)の難波浦(なんばうら:大阪市)に出て、西に向かって香花を供し、座具を延べて礼拝した。

すると、五色の雲が天にたなびき、一隻の船とともに、インド僧が忽然と行基の前に姿を現した。諸天善神が僧の上に絹がさをかけるその様は、まるで大阪湾の松が雪に傾くかのようであり、僧の衣からは馥郁(ふくいく)たる香りが発せられ、難波津(なにわづ)の梅もたちまち春を得たかと怪しまれるほど。一時の奇特(きどく)ここに現れ、万人その威に打たれる事この上なし。

行基が、そのインド僧の手をとったその時、インド僧は一首、

 カピラエで 共(とも)に約しぃた かいあって 文殊(もんじゅ)よあなたに 再会できぃた

(原文)伽毘羅會(カピラエ:注11)に 共に契(ちぎり)し かい有(あり)て 文殊(注12)の 御貌(みかお) 相(あい)みつる哉(かな)

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(注11)カピラヴァーストゥ。釈尊の父、シュッドーダナ王の居城。出生の後、釈尊はここで青春時代を過ごしたが、出家を決意した後、この城を出た。

(注12)文殊菩薩。「行基=文殊菩薩の化身、インド僧=普賢菩薩の化身」の伝説による。
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それに対する行基の返歌、

 霊山(りょうぜん)の 釈迦の御許(みもと)での 約束ゆえに 真如(しんにょ)は不滅 再会(さいかい)成就(じょうじゅ)

 (原文)霊山(注13)の 釈迦の御許に 契(ちぎり)てし 真如朽(くち)せず 相(あい)みつる哉(かな)

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(訳者注13)霊鷲山(りょうじゅせん)。マカダ国の首都・ラージャグリハ付近の山。釈尊はここで仏教を説いた。
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そのインド僧を導師に迎えての大仏開眼法要の盛儀、とても言葉でもって言い尽くせるものではない(注14)。天花(てんげ)は風に舞い、導師の音声は雲間にまで響き漂っていく。古代にも末代にもめったにないような、まことに素晴らしい法要であった。

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(訳者注14)ボーディセーナ(Bodhisena)が、この法要の導師をつとめた。
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世間の声L まぁーなんとぉ申しましょうかぁ、寺院建立の法要というものはですねぇ、かつての大仏開眼供養の時のこの話のように、何のトラブルもなく、順調かつ厳かに行われるべきものなんですよねぇー。

世間の声M ところがなぁ、今回のこの天龍寺の法要、相当、様相が異なっとりますでぇ。

世間の声N まったく、あなたのご指摘の通りです。延暦寺から強引な横やりを入れられてしまったもんだから、上皇陛下勅願の法要、ついに取りやめになってしまったじゃないですか。

世間の声O ほんと、こりゃぁタダゴトじゃぁねえで。

世間の声P こないなトラブルが起こる原因、いったいどこにあるんどすぅ?

世間の声Q やっぱぁ、なんかなぁ、そのぉ、なんて言うんでしょうかなぁ・・・宗教界においても俗世間においても、人々の心中に驕慢の心ってぇのが深ぁく根を張っちまってやがる、どうもこれが、原因じゃぁねえでやんすかい?

世間の声R 驕慢の心があるけん、天魔がそこにつけ込んできよるってわけじゃなぁ。

世間の声Q そうそう!

はたして、この天龍寺、その後20年の間に二度までも火災に遭ってしまっているのである。この現象の根底には、いったいいかなる因果関係が潜んでいるのであろうか・・・もはや到底、人知の及ぶ所ではない。

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