太平記 現代語訳 10-14 長崎高重、最後の戦

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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長崎高重(ながさきたかしげ)は、武蔵野(むさしの)での戦いより今日に至るまで、昼夜分かたず戦闘に次ぐ戦闘、実に80余回、常に、幕府軍のまっ先駆けて倒幕軍の囲みを破り、自ら敵に相対する事その数を知らず。部下・若党らは次第に討たれ、今はわずかに150騎を率いるだけになってしまっていた。

「5月22日、倒幕軍はすでに鎌倉の谷々に乱入、幕府側の大将もそのほとんどが戦死」との報に、高重は、「ここの守備担当は誰それ」などいう事はもうまったく意に介さず、ただただ倒幕軍の迫りくる方面へ、ひたすら馳せ合わせ馳せ合わせ・・・八方の敵を払い、四隊の堅(かた)めを破り、馬疲れれば乗り換え、太刀折れれば取り替え、自ら敵の首級を切って落とすこと32人、陣を破ること8回に及んだ。

その後ようやく、高重は、北条高時(ほうじょうたかとき)のこもる葛西谷(かさいのやつ)の東勝寺(とうしょうじ)へ帰ってきた。

中門の前にかしこまり、涙を流しながら、彼は叫んだ。

長崎高重 殿ぉー! 殿ぉー!

長崎高重 この高重、父祖代々より北条家にご奉公の義をありがたく頂戴(ちょうだい)し、朝に夕に、殿のお顔を拝したてまつってまいりましたが・・・それももはや、今生(こんじょう)においては今日を限りと存じます・・・殿、お名残(なご)りおしぅございます!

長崎高重 高重はたった一人で数箇所の敵を打ち散らし、何度もの戦闘に毎回勝利しました。しかし、方々の口々はみな攻め破られ、敵軍の者らが鎌倉中に充満している今となっては、もう、もう、私一人どのように勇みたってみたところで、どうにもなりません。殿、とにかく、敵の手にかかって死ぬなどという事が無いように、それだけはどうか、ご覚悟下さいませ!

長崎高重 でもね、殿、高重がここへもう一度帰ってきてね、殿にお勧めするまでは、決してむやみに、自害なさいませんようにね。殿がご存命の間にね、もう一度ズバァッと敵中深く懸け入ってぇ、思う存分戦ってぇ、冥土(めいど)のお伴する時の話のネタでも作ろうかなぁと、思ってますんでね! ハッハッハッハッ・・・。

このように言い残して、高重は東勝寺(とうしょうじ)を出ていった。彼の後ろ姿を遥かに見送りながら、北条高時は、名残惜しげに、

北条高時 (内心)ヤツの顔を見るのも、これが最後かなぁ・・・(涙)。

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長崎高重は、兜(かぶと)を脱ぎ捨て、筋模様の中に太陽型と月型を染め抜いた帷(かたびら)を着た。精好織(せいごうおり)の大口袴(おおぐちばかま)の上に赤糸威(あかいとおどし)の腹巻鎧(はらまきよろい)を着し、小手(こて:注2)は外した。兎鶏(とけい)という名の関東一の名馬に金の蒔絵(まきえ)細工の鞍を置き、小さい房のついた尻懸(しりがい:注3)を懸けてまたがった。

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(訳者注2)鎧のうちの、手を覆う部分のこと。

(訳者注3)馬の後部にかける緒。
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「これが自分の最後の戦い」と覚悟を定め、彼はまず、崇壽寺(そうじゅじ)の長老、南山和尚(なんざんおしょう)のもとに参じて、来訪を告げた。和尚は威儀を正して、高重を出迎えた。

各方面の戦闘が急を要しているので、高重は甲冑をつけたまま庭に立ち、左右の人々に挨拶した後、和尚に問うた。

長崎高重 「勇士の振る舞い」、いかにあるべき?

南山和尚 剣を振るって、ただひたすら、前に進むのみ。

高重は、南山和尚のこの一言を聞き、さらにその深い意味を問うた後、寺の門前で馬を引き寄せてまたがった。

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高重は、150騎の部下を前後に従え、笠標(かさじるし)をかなぐり捨て、静かに馬を歩ませながら倒幕側陣営内に紛れ込んだ。

長崎高重 (内心)なんとかして、新田義貞(にったよしさだ)に接近し、組みついてイッキに勝負を決したいもんだ。

全員、旗も掲げず、刀を鞘(さや)に収めたままの高重たちを見て、倒幕軍側は誰も、これが敵側に属する者であると気付かない。平然と陣の中央を開いて、高重たちを通過させた。

長崎高重 (内心)よぉし。

高重は、新田義貞からわずか半町ほどの距離にまで接近する事に成功した。

長崎高重 (内心)さぁ、いよいよだなぁ!

しかしながら、やはり倒幕軍側の運が強かったのであろうか、大将・新田義貞の正面方向を守っていた由良新左衛門(ゆらしんざえもん)が、これに気づいた。

由良新左衛門 (大声で)おいおい、あそこ、あそこ見ろ! ほら、あそこだ! 旗も指さずにこっちに近づいてくるの、あれはどうも、長崎高重のようだぜ!

由良新左衛門 (大声で)アイツ、相当なツワモノだからな、みんな気ぃつけろよ。きっと、何かたくらんで、ここまで入り込んできやがったにちげぇねぇ。さぁ、全員残らず討ち取っちまえ!

武蔵七党武士団(むさししちとうぶしだん)メンバー一同 よぉし、まかしとけぇぃ!

先陣にいる武蔵七党武士団3,000余騎が、一斉に飛び出した。東西から押し寄せて長崎グループを完全包囲、我も我もと打ち掛かっていく。

長崎高重 エェィ、感づかれちまったかぁ! よぉし、みんなぁ、おれの周(まわ)りに集合!

長崎軍団メンバー一同 オォウ!

長崎高重 密集陣形になったな。よぉし、これから突撃するぞ、いいなぁ!

長崎軍団メンバー一同 オォウ!

長崎高重 行くぞぉ!

長崎軍団メンバー一同 ウオオオーーーーー!

長崎グループ150騎は、武蔵七党武士団3,000余騎に対抗して、懸け抜け懸け入り交じり合い、かしこにここにと隠れ、火を散らして闘う。集散離合(しゅうさんりごう)のその様態(ようたい)は瞬時(しゅんじ)の中に変化して、いま前方にいるかと思えば忽然(こつぜん)と後方から現われる、これは味方かと思えば敵として屹立(きつりつ)す、十方に分身して万卒(ばんそつ)に同じく当たる。

武蔵七党武士団側は、高重が今どこにいるのかも分からなくなってしまい、多くのメンバーが同士討ちを始めてしまった。

これを見た新田軍の長浜六郎(ながはまろくろう)は、

長浜六郎 まったくもう、しょうがねぇヤロウドモだなぁ! 無意味な同士討ちばっかしやがってよぉ! いいかぁ、敵は皆、笠標をつけてねぇんだからぁ! 自陣の中に紛れこんできたヤツがいたら、まず笠標を見ろ。つけて無かったらソク、組みついて、討ちとっちまえ!

今度は、甲斐(かい:山梨県)、信濃(しなの:長野県)、武蔵(むさし:埼玉県+東京都+神奈川県の一部)、相模(さがみ:神奈川県)の武士たちが、長崎グループに迫っていく。

押し並べてはムズと組み、組んで馬から落ちて、相手の首を取るもあり、捕われてしまう者もあり、芥塵(かいじん)は天を掠(かす)め、汗血(かんけつ)地面を粘らす。かつての古代中国、かの項羽(こうう)が漢(かん)の三将軍を靡(なび)かし、魯陽(ろよう)が天を行く太陽を招きかえして闘った時も、これに比べればまだまだ穏やかなものであったと、いうべきであろう。

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倒幕軍側の猛攻にもかかわらず、長崎高重は討たれずに、主従たった8騎になってからも執拗(しつよう)に戦い続けた。なおも、新田義貞に接近して彼に組まんと、機を窺(うかが)い続けた。近づく敵を打ち払い、やり過ごし、新田兄弟を求めて、戦場をひたすら懸け回る。

武蔵国の住人・横山重真(よこやましげざね)が、義貞との間に割って入って高重に組まんと、馬を進めてきた。

長崎高重 (内心)誰だい、アイツは? 相手にとって不足のない敵ならば、イッチョウ組んでやろうかい。

長崎高重 (相手をキッと見据えながら)(内心)なぁんだぁ・・・いったい誰かと思ったら、横山重真かぁ。もうちょっとマシなヤツ、かかって来いよなぁ。

左側方向から接近してきた横山重真に対して、長崎高重は、

長崎高重 テヤァ!

相手の兜の鉢の頂から首のへんまで、太刀をドスッと振り下ろす。横山の体はまっ二つ、馬も尻を地についてしまい、膝を折ってどっと倒れ伏した。

これを見た、同じく武蔵国住人・庄為久(しょうのためひさ)は、

庄為久 うーん、こりゃぁデキルヤツ! よぉし!

高重に組みつかんと、両手を左右に広げて駆け寄ってくる庄為久を遙かに見て、カラカラとうち笑う高重、

長崎高重 ウワハハハ・・・おいおい、武蔵七党の連中なんかなぁ、ハナっから相手にしてねぇんだよ、オレはぁ。でなきゃあ、横山だってもう少しまともに、相手してやったわさ。それにしても、もうまったく、うるさいレンチュウだなぁ。そんなにおれと戦いたいんなら、格下の相手をシマツする時のオレの作法、ちょっとばかし見せてやろうかぁ?

庄為久 えぇい、ほざくなぁ!(長崎高重に飛びかかる)

長崎高重 あらよっとぉ!

あっという間に、高重は、為久の鎧のアゲマキを掴(つか)んで宙にぶら下げた。

長崎高重 オォレィー!

高重は、為久の身体をポーンと軽く放り投げた。為久の体は弓弦5本分ほどの距離を飛んで行き、その人間弾丸に当たった武者二人は馬から逆さまに落ち、血を吐いて死んでしまった。

長崎高重 (内心)オレの正体、ここまでバレてしまっちゃぁ、もうしょうがねぇよなぁ。

高重は、馬を停め、大音声をもって名乗りを上げた。

長崎高重 おいおい、よく聞けよぉー! 桓武帝(かんむのみかど)の第5皇子・葛原親王(かずはらしんのう)より3代目の孫、平将軍貞盛(たいらのしょうぐんさだもり)より数えて13代目、前相模守(さきのさがみのかみ)・高時様の管領(かんれい)・長崎入道円喜(ながさきにゅうどうえんき)の嫡孫(ちゃくそん)、長崎高重、武恩を奉せんが為に、今日ここに討死にしにやって来たぁ! 世間に名を上げたいと思う者は、さぁ、かかって来ぉい!

高重は、鎧の袖を引きちぎり、草ずりを切り落とし、太刀を鞘に納めた後、左右に両手を広げて、ここに馳せあわせ、かしこに馳せ違い、ザンバラ髪で馬を馳せる。そこへ、彼の郎等らがやってきて、彼の馬の前に立ちふさがって、いわく、

高重の郎等A 殿、いったいこんな所で何をしておられます! 一人でそんなに駆けまわってても、しようがないでしょう!

高重の郎等B 敵の大軍はもう、鎌倉の谷々に乱入、方々に火をかけ、乱暴しておりますよ! 急いで東勝寺へお帰りになって、高時様に自害を勧めて下さい!

長崎高重 やぁ、いかんいかん! 敵が逃げていくのがあまりにオモシレエもんだから、高時様に約束した事、すっかり忘れちまってたぜぃ。よし、じゃぁ帰るぞ。

長崎主従8騎は、山内(やまのうち)から東勝寺へ引き返した。

高重がついに逃走を始めたと思ってか、児玉党武士団(こだまとうぶしだん)500余騎が、我先にと追いかけてくる。

児玉党武士団一同 きたねぇぞ、逃げるなぁ!

長崎高重 ハァー(ため息)、まったくもって、ウルサイやつらだなぁ。ま、いいや、放っとけ、放っとけ。あっちからは何の手出しも、出来るわけねぇんだから。

聞かぬふりしてそのまま馬を走らせたが、あまりにしつこい追跡に、長崎主従8騎、児玉党武士団の方へキッと向き直り、馬のくつばみを引き回す。山内から葛西谷の口までこのように17度も返し合わせ、500余騎を追い退けた後、再び静々と馬を歩ませる高重であった。

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葛西谷に戻ってきた高重を、祖父・長崎円喜が出迎えた。高重の鎧には、蓑毛(みのけ)のごとくに、折り曲げられた矢が23本も突き立っていた。

長崎円喜 こんなに長いこと、どこでナニしてたんだ? 戦況の方はどうだ? もはや、これまでか?

長崎高重 はい・・・。(円喜の前にかしこまる)

長崎高重 敵の大将・新田義貞に運良く近づけたら、ガバット組み付いて勝負を決してやろうと思ってね、20数回も敵陣に懸け入ったんだけど・・・やっぱしダメでした。

長崎円喜 そうか・・・。

長崎高重 相手にしがいのある敵にも出遭(であ)えずにね、ウゾウムゾウのフンニャラ党のヤツラばかり4、500人ほど、切って捨ててきましたけど・・・人殺しの罪業(ざいごう)なんか一切気にせずってんなら、もっともっとやってたよ。ヤツラを浜の方へ追い出して、自分の左に右に近づけては、輪切り、胴切り、縦割りに、バンバンやっつけて・・・でも、どうしても殿の事が気がかりで、帰ってきました。

長崎円喜 うーん!

さわやかに語る高重の言葉に、最期をまじかに控えた人々も、少しは心慰まる思いがした。

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