太平記 現代語訳 27-5 高兄弟の軍勢、足利尊氏邸を包囲

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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京都朝年号・貞和(じょうわ)5年(1349)8月12日、京都中にわかに騒然となってきた。

街の声A 合戦や、合戦やで!

街の声B エーッ! 合戦て、いったい、誰と誰が合戦すんねん?

街の声C 足利直義(あしかがただよし)さまと、高(こう)兄弟やがな。

街の声D エェーッ!

宵頃から、数万の軍勢が京都中をあちらこちらへ馳せ違いだした。馬の足音、鎧の草ずりの触れ合う音の鳴り止むひまもない。

足利直義邸へ集結したメンバーは以下の通り。

吉良満義(きらみつよし)、吉良満貞(みつさだ)、石塔頼房(いしどうよりふさ)、石塔頼直(よりなお)、石橋和義(いしばしまさよし)、その子息・石橋宣義(のぶよし)、斯波高経(しばたかつね)、その子息・斯波氏経(うじつね)、その弟・斯波氏頼(うじより)、荒河詮頼(あらかわのりより)、細川頼春(ほそかわよりはる)、細川顕氏(あきうじ)、畠山直宗(はたけやまなおむね)、上杉重能(うえすぎしげよし)、上杉朝房(ともふさ)、上杉朝貞(ともさだ)、長井廣秀(ながいひろひで)、和田宣茂(わだのぶしげ)、高師秋(こうのもろあき)、千秋惟範(せんじゅこれのり)、大高重成(だいこうしげなり)、宍戸朝重(ししどともしげ)、二階堂行通(にかいどうゆきみち)、佐々木顕清(ささきあききよ)、里見義宗(さとみよしむね)、勝田助清(かつたすけきよ)、狩野三郎(かのさぶろう)、苑田美作守(そのだみまさかのかみ)、波多野下野守(はだのしもつけのかみ)、波多野因幡守(いなばのかみ)、禰津小次郎(ねづこじろう)、和久四郎左衛門尉(わくしろうさえもんのじょう)、斎藤利康(さいとうとしやす)、飯尾修理入道(いいおしゅりのにゅうどう)、須賀清秀(すがきよひで)、秋山朝政(あきやまともまさ)、島津四郎左衛門尉(しまづしろうさえもんのじょう)、これら主要メンバーの他、7,000余騎が軍門をかためて控える。

高師直(こうのもろなお)邸へ馳せ加わってきたメンバーは、以下の通りである。

山名時氏(やまなときうじ)、今川範国(いまがわのりくに)、今川頼貞(よりさだ)、吉良貞経(きらさだつね)、大嶋盛真(おおしまもりまさ)、仁木頼章(にっきよりあきら)、その弟、仁木義長(よしなが)、仁木頼勝(よりかつ)、桃井義盛(もものいよしもり)、畠山国頼(はたけやまくにより)、細川清氏(ほそかわきようじ)、土岐頼康(ときよりやす)、土岐頼兼(よりかね)、土岐頼雄(よりたか)、佐々木秀綱(ささきひでつな)、佐々木秀定(ひでさだ)、佐々木氏綱(うじつな)、佐々木氏頼(うじより)、その弟・佐々木直綱(なおつな)、同じく佐々木定詮(さだのり)、同じく佐々木時親(ときちか)、千葉貞胤(ちばさだたね)、宇都宮貞宗(うつのみやさだむね)、武田信氏(たけだのぶうじ)、小笠原政長(おがさわらまさなが)、逸見信茂(へんみのぶしげ)、大内民部大輔(おおちみんぶたいう)、結城小太郎(ゆうきこたろう)、梶原景広(かじわらかげひろ)、佐竹師義(さたけもろよし)、佐竹義長(よしなが)、三浦行連(みうらゆきつら)、三浦藤村(ふじむら)、大友頼時(おおともよりとき)、土肥高真(とひたかさね)、土屋範遠(つちやのりとお)、安保忠真(あふただざね)、小田伊賀守(おだいがのかみ)、田中下総三郎(たなかしもうささぶろう)、伴野長房(とものながふさ)、木村基綱(きむらもとつな)、小幡左衛門尉(おばたさえもんのじょう)、曽我左衛門尉(そがさえもんのじょう)、海老名季直(えびなすえなお)、大平義尚(おおひらよしなお)、粟飯原清胤(あいはらきよたね)、二階堂行元(にかいどうゆきもと)、中条秀長(なかじょうひでなが)、伊勢貞継(いせさだつぐ)、設楽五郎兵衛尉(しだらごろうひょうえのじょう)、宇佐美三河三郎(うさみみかわのさぶろう)、清久左衛門次郎(きよくさえもんじろう)、富永孫四郎(とみながまごしろう)、寺尾新蔵人(てらおしんくろうど)、厚東駿河守(こうとうするがのかみ)、富樫介(とがしのすけ)を始め、多田院御家人(ただいんのごけにん)、常陸国(ひたちこく:茨城県)の平氏、甲斐国(かいこく:山梨県)の源氏、さらに、高家一族は言うまでもなく、首都圏とその近隣地帯の武士、志ある高家恩顧の者らが、我も我もと馳せよってきた。

程なく、高サイドの兵力は5万余に達した。一条大路(いちじょうおうじ)、今出川(いまでがわ)、転法輪(てんぽうりん:注1)、柳が辻(やなぎがつじ:注2)、出雲路河原(いずもじがわら:注3)に至るまで、隙間なく陣取っている。

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(訳者注1)一条大路の北側にある東西の通り。

(訳者注2)烏丸通りと上立売通りの交差点の付近。

(訳者注3)現在の出雲路橋の付近の、鴨川の河原。
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ただならぬ雲行きに驚いた足利尊氏(あしかがたかうじ)は、足利直義のもとへ使いを送った。

使者 将軍様より、直義様に対して、次のように申し上げよと・・・「師直と師泰(もろやす)め、身の程知らずの奢侈(しゃし)をむさぼった末に、とうとう、主従の礼まで乱すようになってしまった。末世とはいえ、まったくもう、とんでもない事になってしまったものだ。もしかしたら、そちらに攻め寄せていくような事もあるやもしれぬ、急ぎ、こちらへ来られよ。兄弟一緒になって、今後の安否を見定めようではないか。」

直義はすぐに、自らのもとに馳せ集まってきた武士たちを連れて、近衛東洞院(このえひがしのとういん)の尊氏の館へ移動した。

この事態急変に、「これでは、とても勝ち目が無い」との思いが、直義陣営サイドに走ったのであろうか、5人、10人とボロボロと脱落者が続出、高サイドに寝返っていく。いつの間にか、直義の側にいるのは、主な一族と譜代の家臣、二心なく忠節を尽してきた者たちのみ、総計わずか1,000騎足らずになってしまった。

翌8月13日午前6時、高師直とその子息・武蔵五郎師夏(むさしごろうもろなつ)は、雲霞のごとき大軍を従え、法成寺河原(ほうじょうじがわら:現在の荒神橋付近)に打って出た。

二手に分かれた高師直軍は、尊氏邸の東側と北側に展開し、十重二十重に包囲し、三度トキの声を上げた。

さらに高師泰(こうのもろやす)は、7,000余騎をカラメ手側に分散配置し、尊氏邸の西側と南側に展開、小路を遮断した。

近隣住民E えらいこっちゃ、えらいこっちゃ! 戦が始まるぞ!

近隣住民F 高兄弟が、将軍様の館を攻めるんやと!

近隣住民G 四方から火ぃかけて、焼き攻めにするんやて!

近隣居住公家H こら、えらいこっちゃがな! 家財道具、は(早)よ、まとめぇ! はよはよ! えらいこっちゃ、えらいこっちゃ、えらいこっちゃ!

近隣居住公家I あぁ、とばっちりで、わしの家も燃えてしまうがな・・・館も家宝も・・・どないしょ、どないしょ・・・はよはよ、運び出せ、運び出せ!

周辺の公卿の家々からは、一斉に家財道具が運び出され、長講堂(ちょうこうどう:注4)や三宝院(さんぼういん:注5)へ、次々と運び込まれていく。僧俗男女、ただただ東西に逃げまどうばかりである。

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(訳者注4)土御門東洞院(つちみかどひがしのとういん)にあった後白河法皇の持仏堂。

(訳者注5)現在、醍醐寺(山科区)の境内にある三宝院は、当時、土御門万里小路(つちみみかどまでのこうじ)にあった。
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御所の中も大騒ぎになってしまった。

公卿J ここはな、足利邸に近いから、危ないで。

公卿K ほんまや。高師直の軍勢、ドサクサにまぎれて、何しよるか分からん。

公卿L とにかく、一刻も早ぉ、陛下に避難していただかんとあかんわ!。

というわけで、崇光天皇(すうこうてんのう)は、持明院殿(じみょういんでん)へ緊急避難。関白や大臣以下の公卿らも、大慌てでそれに同行。宮中の官女らや公卿らは、徒歩のまま逃げ出し、参議(さんぎ)、弁官(べんかん)、五位、六位、関白家の家司(けいし)、文書管理局メンバー(注6)らはことごとく、階下庭上に立ち連なる。御所の中は全員パニック状態、まったく目もあてられない状態である。

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(訳者注6)原文では、「外記」。
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街の声M まいったなぁ、また戦かいなぁ。ほんまにたまらんでぇ。

街の声N 年号が暦応(りゃくおう)に革(あらた)まってからはよぉ、天下を幕府が手中に収め、世の中もチッタァ穏かになってきてたんだよなぁ。なのに、また、この騒ぎかよぉ・・・いってぇどうなってやがんでぇ・・・ったく、やんなっちまわぁな。

街の声O 去年、楠正行(くすのきまさつら)はんが、乱を起さはったけど、結局のとこ、討死にしてしまわはりましたどすなぁ。さぁこれでいよいよ、天下太平の世に成ったんかいなぁ、いうて、みなで喜んでましたのに。

街の声P なのに、またまたこの騒ぎだ。ほんと世の中、治まらないっすねぇ。困ったもんですよぉ。

街の声一同 ほんに、困ったもんですわ。

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足利尊氏 なぁ、直義・・・おまえ、どう思う?・・・かりにだな・・・師直と師泰がここに押し寄せてきたとしてだよ・・・彼らを相手に、徹底抗戦すべきか・・・否か・・・。

足利直義 あいつら相手に戦う?! そんなばかな事、できますか! それこそまさに、恥辱ってもんでしょう?! そうじゃないですか?!

足利尊氏 うん・・・。

足利直義 攻め寄せてきたら、その時はその時! 門前で皆が防いでいる間に、我々は腹を切るまでのこと!

足利尊氏 よし。じゃ、鎧を着る必要もないな・・・。

足利兄弟は、小手や脛当てだけを装着し、心静かに座している。

高兄弟の方もさすがに、主君に対して手を出す事はできないようである。気勢だけ上げてはみるものの、尊氏邸に押し寄せる気配も無く、ただ徒(いたずら)に、時を過ごすのみである。

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やがて、尊氏より師直のもとへ、須賀清秀(すがきよひで)が使者として送られた。

須賀清秀 高師直殿、征夷大将軍(せいたいしょうぐん)様よりのメッセージをお伝えしに参った。つつしんで承るように!

高師直 ・・・。

須賀清秀 「わが清和源氏(せいわげんじ)歴代の祖・源義家(みなもとのよしいえ)様が天下の武将となられてよりこの方、なんじの所属する高家の先祖たちは皆みな、累代(るいだい)の家僕として、わが足利家に仕えてきた。その間、いまだかつて一日たりとて、主従の礼儀を乱したような者は一人もおらぬ。」

高師直 ・・・。

須賀清秀 「しかるに、一片の怒りをもって身に余る恩を忘れ、穏かに申し開く事も無しに、いきなり大軍を催して、わが邸宅の東西を包囲するとは・・・まったく、あきれはててものも言えぬ・・・おまえはいったい、何を考えておるのか!」

高師直 ・・・。

須賀清秀 「大軍の威をもって、私を貶(おとし)める事がたとえできたとしても、天は、なんじのその罪を決してお許しにはならぬぞ、わかっておるのか!」

高師直 ・・・。

須賀清秀 「心中に憤る事あらば、いったん兵を引いた後、あらためて言上(ごんじょう)するがよい。ただし、これだけは言っておくぞ、「讒言をする者を除く」との名目を掲げて、その実、国家の権を奪おうとの魂胆であるならば、もはや問答無用! 白刃(はくじん)の前に我が命を止め、速やかに霊界に赴いた後、おまえの運命を、とことん最期の最期まで、見届けてやるまでのことだ!」

簡潔な言葉の中に多大な道理が込められた、尊氏の叱責(しっせき)に対して、師直は、

高師直 うーん・・・まいったなぁ・・・いったいなんで、あたしが将軍様から、そんなキツーイお叱りを頂かなくっちゃならんのかねぇ・・・そんな事言われるなんて、ゼーンゼーン思っても見いひんかったなぁ。

須賀清秀 ・・・。

高師直 あのねぇ! あたしゃ何も、将軍様にタテつく気持ちなんか、毛頭あらへんのやわ。あたしの事を讒言しやがる連中らの言う事をだよ、直義様がウノミにされちゃってだねぇ、ほいでもって、「高一族、滅ぼしておしまいやす!」なんてぇ事、言いだしはったんどすじゃんか! さぁそうなっちゃ、あっしだって黙っとれへんでしょうが! 「はい、わかりました、じゃぁ全員死にますんえー」てなわけにも、いかんでしょ、なあぁ? だからさぁ、あたしも仕方なしに、兵を集めたってわけよ・・・正当防衛だよ、これってね、正当防衛なんどすわ、そうじゃんかよぉ、えぇ?!

高師直 とにかく、わが身の潔白の申し開きをしてね・・・そいでもって、あたしの讒言をやらかしやがった張本人の身柄を引き渡してもらってね・・・「一罰百戒(いちばつひゃっかい)」って言葉あるでしょ?・・・そいつらをバチィンと懲らしめちゃってさ、そいでもって、讒言なんていう世の悪習をタメただそうってね、オイラ、そないに思ぉただけなんどすわぁ!

須賀清秀 高殿、とにかく、この囲みを解いてもらいましょうか!

高師直 はいはい、分かりましたぁ。おーい、テメェラ、旗、下げやしておくれやすう!

高師直軍メンバー一同 はぁい、ただいま! ハタハタハタハタ・・・(旗を下げる)

高師直 ヨイコのみなさぁーん、よくできました。今度は、盾を持ちましょう!

高師直軍メンバー一同 はぁい、ただいま! タテタテタテタテ・・・(盾を持つ)

高師直 はいはい、ヒッジョーニよくできましたぁ。さぁ、今度は包囲の輪を縮めてみましょう、グーイ、グーイっとね!

高師直軍メンバー一同 イェッサー、ギューイ、ギューイ、ギューイ!(尊氏邸にさらに迫る)

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師直よりの返答を聞き、尊氏はいよいよ腹に据え兼ねて、

足利尊氏 なにぃ、「讒言してる者の身柄を引き渡せ」だぁ? 師直め、言わせておけばぁ!

足利直義 ・・・。

足利尊氏 当家累代の下僕に包囲されたあげく、当事者の身柄を引き渡すなど前代未聞、そんな事では天下のものわらい、足利家の一大恥辱!

足利直義 ・・・。

足利尊氏 汚辱にまみれた生を取るか、名誉の中の死を選ぶか、言うまでもない! おい、鎧!

尊氏側近Q ははっ!(「御小袖」という名の鎧を取り、尊氏に着せる)

これを見た堂上堂下に集まった武士たちは、一斉に兜の緒を締め、色めきたった。

武士ら一同 (内心)さぁ、天下はいったい、どうなってしまうんだろうか!

一同肝を冷やしている中に、

足利直義 兄上! お待ちください、どうか、お待ちください!

足利尊氏 ・・・。

足利直義 高兄弟の、おごりたかぶり故の悪行が、あまりにもひどいのでね、これはちょっと誡(いまし)ておかねば、と思っていたのですよ。それを、彼らが伝え聞いて、このような暴挙に打って出た、というわけです。

足利尊氏 ・・・。

足利直義 こんな事になってしまうなんて・・・わが家の名誉に、大きな傷がついてしまった・・・幕府の権威も、本当に衰えたもんだな・・・。

足利尊氏 ・・・。

足利直義 今回のこの騒ぎ、高兄弟の私への怨みに端を発しているわけです。なのに、兄上が自らの手を下して軽々しく、家僕である高兄弟に対して戦を、なんて事になったんじゃぁ、これはもう実に、口惜しい限りではないですか!

足利尊氏 ・・・。

足利直義 讒言してる者の身柄引き渡しを、師直は名指しで要求してきてます。あいつの言うがままに、当事者の身柄を引き渡したとて、我々には、何の痛みも無いじゃないですか。

足利尊氏 ・・・。

足利直義 かりにですよ、兄上が返答を躊躇(ちゅうちょ)された結果、師直がわが足利家への忠義を忘れ、本気になって逆らってきたら? 我が足利家の武運は風前の灯、天下の一大事となってしまいますよ。

足利尊氏 ・・・。

足利直義 兄上、どうか、あんなヤツの為に、自らの命を軽くしないでください。ここは、譲歩しておくべきですよ!

足利尊氏 ・・・うん・・・おまえがそこまで言うのなら・・・。

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須賀清秀 高殿、再度、将軍様よりのメッセージを、お伝えしに参りました。

高師直 へぇへぇ、将軍様は何とおっしゃておられますですか?

須賀清秀 「師直の申し請うてきた事、将軍より裁可(さいか)するものなり。今後、直義は政治の任から外れるものとする。上杉重能(うえすぎしげよし)と畠山直宗(はたけやまなおむね)を遠流の刑に処す。」

高師直 ウッヒョー! 聞き届けていただけましたかぁ! やれやれ・・・。

師直は大いに喜び、尊氏邸の包囲を解いて自邸に戻った。

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翌朝、師直は、

高師直 おぉい、妙吉(みょうきつ)をフンジバ(捕縛)ッテこい!

高師直側近一同 がってんだい! それ行けぃ!

しばしの後、彼らは、てぶらで戻ってきた。

高師直 捕まえてきたか?!

高師直側近R いえ、もう逃げちゃってて、モヌケのカラでしたわ。

高師直 えぇい、逃げ足の速いヤツだなぁ!

妙吉が残していった財産も、略奪されて方々に散逸してしまった。まさに浮き雲のようなその富貴、たちまちにして夢のごとく、消滅してしまったのであった。

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(訳者注7)
以下、ここに書かれている事件が起こった場所について、下記の文献に記述されている内容を参照しながら、述べる。

 文献1:[観応の擾乱 亀田 俊和 著 中公新書 中央公論新社]

[文献1]51P に、以下のようにある。

 「貞和五年(一三四九)三月十四日、京都土御門(つちみかど)東洞院(ひがしのとういん)にあった将軍足利尊氏邸が火災に遭った。尊氏邸の再建が終了するまで、尊氏は一条今出川(いまでがわ)にあった執事高師直邸に居住することとなった。」

京都の地名の中には、東西方向に伸びる道路の名前と、南北方向に伸びる道路の名前を組み合わせてできているものが多くある。(例えば、[四条烏丸]、[四条河原町]、[河原町三条])。

上記中の[土御門東洞院]も、同様だ。[東洞院]という名前の道路と、[土御門]という名前の道路が交差している場所を指している。ただし、[土御門]という名前は、平安時代のものであり(土御門大路)、現在の[上長者町通]に相当する。

よって、この当時の将軍・足利尊氏(あしかが たかうじ)の住所は、[東洞院通]と[上長者町通]が交差するあたりにあった、ということになる。

ネット地図を使用して、[京都市 上京区 元土御門町]で検索すると、[元土御門町]がどこにあるのか分かると思うが、その町内にある東西方向に伸びている道路が、[上長者町通]である。

ネット地図を使用して、[京都市 中京区 三本木町]で検索すると、[三本木町]がどこにあるのか分かると思うが、その町内にある南北方向に伸びている道路が、[東洞院通]である。

では、[東洞院通]と[上長者町通]が交差する場所とは、いったいどこか?

ネット地図を見てその位置を割り出してみると、なんと、それは、[京都御所]の[紫宸殿]のあたりである。

尊氏は、御所に住んでいた?

いや、そうではない。

[文献1]60P には、以下のようにある。

 「だが翌一三日には、さすがの尊氏も直義に土御門東洞院邸へ避難するように勧めた。直義はこの指示に従い、将軍邸へ移動した。これを見て師直に寝返った武士が続出し、将軍兄弟の軍勢は三〇〇騎にも満たなくなった。」

 (途中略)

 「八月一四日早朝、師直は大軍を率いて法成寺(ほうじょうじ)河原に進出し、将軍御所の東北を厳重に包囲した。師泰も七〇〇〇騎あまりで西南からこれを囲んだ。師直軍が御所を焼き払う風聞も飛び交い、付近の住民は大混乱のうちに避難した。将軍邸の北隣に位置する内裏に住む崇光(すこう)天皇も、光厳上皇の御所(持明院殿)へ避難した。」

と、いうことなので、

尊氏は、天皇の住まい(内裏)の南隣に住んでいたのだ。

この時の、崇光天皇の住まいは、[土御門東洞院殿]と呼ばれており、その後、ここに本格的な規模を持つ御所が建設され、それが、現在の京都御所となったのだという。

上記中の、「法成寺河原」とは、[法成寺の付近の鴨川の河原]、という事になるのだろう。

[法成寺]は,[藤原道長]によって建立された寺である。[上京区 荒神口通 寺町 東入 北側]に、「このあたりに法成寺があった」ということを示す石標があるようだ。

よって、[法成寺河原]とは、[荒神口通 寺町]のあたりの、鴨川の河原、すなわち、現在の[荒神橋]のあたりの鴨川の川原、ということになるのだろう。

[高師直](こうのもろなお)は、足利尊氏邸の東側を塞ぐために、荒神橋のあたりに鴨川に沿って南北に軍勢を配置したのだろう。

なお、この当時の鴨川の川原は、現在のそれと一致しないようだ。

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次に、高師直(こうの もろなお)の住所を見てみよう。

[文献1] 51P には、

 「一条今出川(いまでがわ)にあった執事高師直邸」

とあったが、「一条今出川」とは、いったいどのあたりか?

「今出川」を通りの名前、すなわち、[今出川通]と解釈すると、不可解な地名になってしまう。一条・今出川通? 一条通も今出川通も、東西方向に延びる道路だ、この2本の道路が交差することは、ありえない。

よって、[今出川]は、道路の名前ではなく、川の名前と解釈すべきだろう。

かつて、[今出川]という名前の川があったのだそうである。相国寺の境内や、御所の敷地の内を、南方向に流れていたのだという。

[今出川 川跡]でネット検索すると、それに関する情報を得ることができるだろう。

[一条今出川]とは、[一条]という名前の道路と、[今出川]という名前の河川が交差している場所を指しているのだろう。

ネット地図を使用して、[京都市 上京区 広橋殿町]で検索すると、[広橋殿町]がどこにあるのか分かると思うが、その町内にある東西方向に伸びている道路が、[一条通]である。

上記(尊氏邸について調べた)で見た、[上長者町通]よりも[一条通]の方が北側にある。

よって、師直の住所は、尊氏の住所の北方のあたり、ということになるのだろう。


では、尊氏の弟・足利直義(あしかが ただよし)の住所は?

[文献1] 9P,10P に、以下のようにある。

 「桃崎有一郎(ももさき ゆういちろう)氏の研究成果によれば、この時期の直義は「三条殿(さんじょうどの)」あるいは「三条坊門(ぼうもん)」と呼ばれることがもっとも多かった。(「初期室町幕府の執政と「武家探題(たんだい)」鎌倉殿の成立」)。これは、開幕以来の直義の邸宅所在地で、幕府の執政が行われた下京(しもぎょう)三条坊門高倉(たかくら)にちなんでいる。」

[三条坊門高倉]は、[高倉]という名前の道路と、[三条坊門]という名前の道路が交差している場所を指している。ただし、[三条坊門]という名前は、平安時代のものであり(三条坊門小路)、現在の[御池通]に相当する。よって、この当時の直義の住所は、[高倉通]と[御池通]が交差するあたりにあった、ということになる。

ネット地図を使用して、[京都市 中京区 御所八幡町]で検索すると、[御所八幡町]がどこにあるのか分かると思うが、その西端を南北方向に伸びている道路が、[高倉通]である。[御所八幡町]の南半分ほどは、[御池通]の中にある。

上記にも見たように、尊氏の邸宅は、[東洞院通]の道筋にあった。そして、今見たように、直義の邸宅は、[高倉通]の道筋にあった。

[高倉通]は、[東洞院通]の2筋東である。

よって、直義邸は、尊氏邸の、ほぼま南方向にあった、ということになるだろう。

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