太平記 現代語訳 26-8 妙吉、讒言・高兄弟の輪に加わる

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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将軍・尊氏(たかうじ)に代って国政面での実質的トップの座についてからというもの、足利直義(あしかがただよし)はますます、禅宗への帰依を深めていった。夢窓疎石(むそうそせき)に師事して後は、天龍寺(てんりゅうじ)建立の発願人になったり、説教の場や法要の座に頻繁に出席したり、膨大な額の供仏施僧(くぶつせそう:注1)をしたり・・・。宗教界に対する直義の一挙手一投足に、世間の注目は、いやがおうにも集まっていった。

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(訳者注1)仏に供え、僧に施す。ようは「お布施」のことである。
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ここに、夢窓と同門の一人の僧侶がいた。名を妙吉(みょうきつ)という。

妙吉 (内心)足利直義・・・今や、事実上の権力トップにある人。そのような人からまでも、夢窓殿は、深い帰依を受けておられるのだなぁ・・・すごいよなぁ・・・。

夢窓に寄せられる足利直義からの絶大な恩顧を見続けているうち、妙吉の心中にはいつしか、言い知れぬ羨望の念がムクムクと湧き起こってきた。

妙吉 (内心)羨ましいよ・・・夢窓殿が羨ましいよ・・・。

妙吉 (内心)わたしも、夢窓殿のようになりたいもんだなぁ・・・。

妙吉 (内心)なんとかして、あんなふうに、なれないだろうかなぁ・・・。

妙吉 (内心)そうだ・・・神通(じんつう)、神通力だよ・・・それさえありゃぁ、わたしもあのように、足利直義様に認めてもらえようになるんだよな、きっと。

妙吉 (内心)じゃぁ、いったいどうやって神通力を?・・・ そうだ、仁和寺(にんなじ:京都市・右京区)へ行って修行してみようか。聞く所によれば、あそこには、志一(しいち)という僧がいるとか。外法(げほう:注2)を完全に、マスターしちゃってるらしいよ。

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(訳者注2)仏教以外の法。
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そこで妙吉は、志一のもとを訪ね、彼に師事してダキニ天法(だぎにてんぼう:注3)を21日間修行した。

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(訳者注3)ダキニ天を礼拝して修する法。ダギニ天については、仏教辞典・大文館書店刊には以下のようにある。

「Dakini: 夜叉鬼の一類で自由自在の通力を有し、6月前に人の死を知り、その人の心臓を取ってこれを食とするという。胎蔵界曼荼羅(たいぞうかいまんだら)ではこれを外金剛部院(げこんごうぶいん)南方に配す。普通行わるる形像は曼荼羅に出づる所と異なり、小天狗の狐にまたがりたる形状、または、剣と宝珠とを持てる美女が白狐にまたがる状を図している。」
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修行の成果は、めざましかった。たった21日間の修行でもって、妙吉は絶大なる神通力を獲得し、心に願う事はことごとくその通りに実現、という状態になった。

それ以降、妙吉に対する夢窓の評価は、いやましに高まっていった。

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いつものように、足利直義と対座していたある日、夢窓はいわく、

夢窓疎石 直義殿、日夜にわたっての熱心なる参禅、仏の道を学ぶためとは言いながらも、まことにご苦労さまでございますなぁ。

足利直義 いえいえ、とんでもありません。これは大切な修行ですからね!

夢窓疎石 ・・・あのぉ・・・こんな事を言うのは、まことに気がひけるのですがね・・・なにやら、直義殿に修行を怠ることをお勧めするようで・・・でもね、直義殿は国政の中枢を預かっておられる大切なお方。だからあえて申し上げますね。

足利直義 ははは、いったいなんですか? そんなに改まって。

夢窓疎石 お館からここまで来られるの、道も遠くて大変でしょう? どうでしょうかね、これから先は、直義殿にここへ来ていただくのではなく、私の方から、信頼のおける者をそちらに行かせる、というのは?

足利直義 えぇ?! ウチ(私邸)に来ていただけると、いうのですか、その方に・・・。ウチにいながらにして、仏道修行の指導を受けれると、いうわけですか?

夢窓疎石 その通りですよ。実はね、私のとこに、その役目にうってつけの人がおりましてね・・・。妙吉と言う僧侶なんですが。

足利直義 ほほぉ・・・。

夢窓疎石 「禅宗歴代祖師語録」の講義なんか、やらせようもんなら、いやぁ、そりゃぁスゴイもんですゾォ。そのぉ、なんて言うのかなぁ・・・祖師方が説かれた教えに込められた本質をですね、深いレベルから直覚的にって言うのかなぁ・・・的確に、ダイレクトに、ずばりずばりと、把握していくんです・・・。とにかく、どこに出しても恥ずかくない、超一流の禅宗僧と言っていいですね。

足利直義 その話、私には何の異存もありませんけど・・・国師殿が、そこまでおっしゃるのですから。

夢窓疎石 じゃ、そういう事にさせていただきましょう。いつものね、私に対座しておられる感覚でもってね、妙吉殿にどんどん、対座問答してみてください。きっと、ご期待に応えると思いますよ。

足利直義 わかりました、よろしくお願いいたします。いやぁ、こりゃぁ楽しみだなぁ。

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一度会ったその日から、直義は妙吉に魅了されてしまった。

足利直義 (内心)イヤーッ、国師殿、すばらしい人を紹介してくださったなぁ! 妙吉殿はスゴイ! ほんとうにスゴイぞ! もしかしたらあの方は、禅宗の祖・ダルマ大師の生まれ変わりではないかしらん・・・。禅宗伝道の為に、我が国に再び生を受け、妙吉殿として誕生されたのかもなぁ。

足利直義 (内心)あんな立派な方に毎度毎度、私邸に来ていただくのは、こりゃぁ本当に失礼というもんだぞ。よし、妙吉殿に、お寺を建ててさしあげようではないか!

というわけで、一条堀川戻橋(いちじょうほりかわ・もどりばし)の近くの村雲(むらくも:上京区)という所に、直義は寺院を建立し、妙吉をそこの住職に据えた。

その寺を拠点としての妙吉の宗教活動が開始されるやいなや、直義は日夜の参禅、朝夕の法談聴聞と、ひっきりりなしに、そこへ通った。

「足利直義さま、妙吉のもとに日参!」となると、我も我もとそれに続く。延暦寺(えんりゃくじ:大津市)や園成寺(おんじょうじ:同左)のトップ僧侶たちが、宗旨を改めて弟子入りしてくるわ、五山十刹(ござんじゅっさつ)の格付けを得ている禅宗大寺院の高僧たちも、彼の勢力下に入りたき旨を希望してくるわ、さぁ、そうなると、俗人たちが妙吉を放っておくわけがない。朝廷の公卿たち、幕府の要人たちが、妙吉にこびへつらうその様は、もはや言葉にも尽くしがたい。

車馬は門前に列を作り、僧俗は堂上に群集する。たった一日の間に寄せられた布施の品や当座のプレゼントを集めれば、山のごとくうず高く積もる。出家をされた釈尊(しゃくそん)のもとへ、マガダ国のビンビサーラ王が毎日500両の車に様々の宝を積んで奉った、という話も、なんだか色あせてくるようである。

このように、万人からの崇敬(すうけい)類(たぐい)まれなる状態となった妙吉であったが、

高師泰(こうのもろやす) おい、あの妙吉ってヤロウ、どう思う?

高師直(こうのもろなお) フフン、あんなのどうってこたぁ、ねぇですわ。

高師泰 やっぱしそうか!

高師直 てぇした智恵才学もねえくせによぉ、手八丁口八丁で、まぁうまいこと、世渡りしていかはりまんなぁ。

というわけで、高兄弟だけは、妙吉に会おうともしない。村雲の寺の門前をも、馬から降りずに平気で通っていくし、道で出会おうものなら、彼の袈裟を、わざと沓の先に引っかけるような事までする。

これには、妙吉の方もアタマに来てしまった。物語の端、事のついでに、高兄弟のこの振舞いを、さかんに非難し始めた。

例の二人が、これを見逃すはずがない。

上杉重能(うえすぎしげよし) おおお、こりゃぁまた、格好のネタができたねぇ。

畠山直宗(はたけやまなおむね) 妙吉をうまく使やぁ、高兄弟を讒言して亡き者にしてしまう事だって、できちゃうかもよぉ。

二人は、妙吉に急接近した。媚びを厚くしつつ、高兄弟の悪口を、その耳にどんどん吹き込んでいく。もとより妙吉も、高兄弟の行為をけしからんと思っていたから、三人は大いに意気投合した。

勢いづいた妙吉は、事あるごとに毒づき始めた、

妙吉 高兄弟の言動は、国を乱し政治を破壊する最たるものであります!

その中でも特筆すべきは、実に言葉巧みに弁じた、以下のような悪口である。

ある日、例によっての足利直義相手の講義の日、首楞厳経(しゅりょうごんきょう)の講義が終わり、中国や日本の歴史の話になった。

妙吉 古代中国、秦王朝(しんおうちょう)の時代、始皇帝(しこうてい)には、二人の皇子がおりました・・・。

(以下、妙吉の講義:注4)

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(訳者注4)以下の話も例によって、「史記・秦始皇本紀」と相当異なっているので、読者はこれに信を置かれない方がよいと思う。
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その皇子、兄の名は扶蘇(ふそ)、弟の名は胡亥(こがい)。

扶蘇は始皇帝の長男であったが、民を哀れまず、仁義を重んじず、苛烈な政治ばかり行っている父を、常に諌めていた。いきおい、自分に対して何かと逆らう扶蘇に対して、始皇帝の愛情はどんどん薄くなっていった。

次男の胡亥は、始皇帝が寵愛する妃が産んだ子であった。彼は、驕りを好み、賢者を憎み、愛憎の念が人並み外れて異常に強かった。胡亥は、常に父の側を離れず、趙高(ちょうこう)という大臣をお守り役につけられていた。胡亥の事を、始皇帝は趙高にまかせっぱなしにしてしまっていた。

始皇帝は荘襄王(そうじょうおう)の皇子であったが、16歳になって間もなく、魏(ぎ)の畢万(ひつばん)、趙(ちょう)の襄公(じょうこう)、韓(かん)の白宣(はくせん)、斉(せい)の陳敬仲(ちんけいちゅう)、楚(そ)王、燕(えん)王ら、いわゆる「戦国時代の六国(りくこく)」をすべて亡ぼし、中国全土を統一した。

「諸侯を朝せしめ、四海を保つ事、古今第一の君主ゆえに、この方を「皇帝」と呼ぶべし」と言う事で、中国史上初の皇帝、「始皇帝」の尊号を奉った。

洪才博学の儒学者たちがともすると、古代の五帝三王の治世をなつかしみ、周公(しゅうこう)や孔子(こうし)の教えを伝道し、「今の政治は、古来からの良き伝統の道を踏み外している」と批判するのを聞いて、始皇帝は、

始皇帝 くされ儒者どもめが! わしの治世の事を、あれやこれやとぬかしおって! それもこれも、あぁいったけしからん書物が、未だにこの世に残っておるからじゃ。ことごとく、焼き捨てい!

というわけで、三墳(さんふん)・五典(ごてん)・史書(ししょ)・全経(ぜんきょう)、あげて3,760余巻、一部も世に残らず、すべて焼き捨てさせた。まことにあさましい所業である。

さらに、

始皇帝 宮門警護の武士の他、一切の者、武器を持つべからず!

というわけで、国中の兵らの持つ武器を残らず集めて焼却し、その鉄でもって、長さ12丈の「金人」12体を鋳させ、湧金門(ゆうきんもん)に立てさせた。

このような悪行が、聖に違い天に背いていたのであろう、邯鄲(かんたん)という地に、天から災を告げる不吉の星が一つ落ち、たちまち12丈の石となった。見ればその石の表面には一句の文章があり、そこには、「秦王朝滅びて漢王朝となる」由の瑞相が示されていた。

これを聞いた始皇帝は激怒して、

始皇帝 これは天のなした事ではない、人間のシワザじゃ。どこぞの何者かが、そのような文字を石の上に書いたにちがいないわ。下手人を厳罰に処すべし!

始皇帝 下手人はきっと、その石の落ちた場所の近くに住んでいるにちがいない。石から10里四方が怪しい!

というわけで、その石から10里四方に住んでいた貴賎の男女は、一人残らず首を刎ねられてしまった。なんという哀れな事であろうか。

東南には函谷二崤(かんこくにこう)の難所を障壁とし、西北には黄河(こうが)、涇水(けいすい)、渭水(いすい)の深い流れを要害とし、その中に、周囲370里高さ3里の山を9重に造り、その上に宮殿を造営した。その口には6尺の銅の柱を立て、上には鉄の網を張り、前殿46殿、後宮36宮、千門万戸通り開き、麒麟(きりん)の彫刻を並べ、鳳凰(ほうおう)の像を相対させる。虹の梁(うつばり)金の飾り、日月光を放ちて楼閣(ろうかく)互いに映徹(えいてつ)し、玉の砂(いさご)、銀の床(ゆか)、花柳(かりゅう)影を浮かべ、階段と小門は品々に分かれる。

その居所を高くし、その歓楽を極めるにつけても、思うのは、

始皇帝 人間の命には限りがある・・・このわしとて、いつかは、あの世に行かねばならぬ・・・残念じゃのぉ・・・。あぁ、なんとかして、かの蓬莱島(ほうらいとう)にあるとかいう不死の薬を手に入れて、永遠に、この世の主として君臨したいものじゃ。

そんな所へ、二人の道教行者(どうきょうぎょうじゃ)が拝謁を求めてきた。名を徐福(じょふく)、文成(ぶんせい)という。(注5)

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(訳者注5)文成は後代の人である。ここも太平記作者の誤り。
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徐福 おそれながら陛下、わたくしめは、不死の薬を求める術(すべ)を知っておりまする。

始皇帝 ナニッ!

始皇帝は大喜び、まずは彼らに高位を授け、大禄を与えた。その後、彼らの言うがままに、年齢15歳未満の少年少女6,000人を集め、龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)の舟に乗せて、蓬莱島発見の航海に送り出した。

大海は満々として、行けども行けども限り無し。雲の波、煙の波いと深く、風は浩々(こうこう)として静かならず、月華星彩(げっかせいさい)は蒼茫(そうぼう)たり(注6)。「蓬莱島」は今も昔も、ただただその名を聞くばかり、天水茫々(てんすいぼうぼう)として(注7)、求めども求めども、その所在位置を示す手がかりの片鱗すら無し。「我、蓬莱島を発見せずば、再び中国の地を踏まじ」との決意を固め、航海に出た少年少女たちは、徒(いたず)に船の中で老いていくばかり。

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(訳者注6)「月の光、星の光は青く広い海原を照らす」の意。

(訳者注7)「「天」(空)も「水」(海)も広々と広がり」の意。
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徐福と文成は、自分たちの言葉が偽りであった事が露見し、処罰が我が身に降りかかってくるのを恐れていわく、

徐福 これはどうやら、龍神のタタリが、蓬莱島発見の障害となっておりまするな。陛下、なにとぞ、おん自ら海上に御幸あそばされ、龍神を退治してくださりませ。さすれば、蓬莱島はたちどころに、発見されましょうぞ。

始皇帝 よし! 龍神退治に行くぞ!

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始皇帝 それい! 出撃じゃーっ!

皇帝の命令一下、数万隻の戦艦は、一斉に出帆した。

各艦には、「連弩(れんど)」と言う超兵器を搭載している。これは400ないし500人でもって引きしぼり放つ巨大な弓である。蓬莱島(ほうらいとう)発見の障害をなしているという龍神が、海上に現われたならば、これを使って射殺しようというわけである。

帆に風をいっぱいにはらみ、艦隊はぐんぐん進んでいく。始皇帝が之罘(しふ)の大江を渡る道すがら(注8)、300万人の兵士たちは、それぞれの搭乗している戦艦の舷側を叩き、太鼓を打ち鳴らしながらトキの声をあげる。

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(訳者注8)史記・秦始皇本紀には「之罘山に登り」とあるので、これは明らかに山なのだが、どういうわけか、太平記原文には「始皇帝すでに之罘の大江を渡りたもう道すがら、三百萬の兵共・・・」とある。
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兵士たち一同 ウォー!ウォー!ウォー!ウォー!ウォー!・・・。

止む間もないトキの声、山から磯に吹き降ろす嵐の風音、沖に寄せる津波の怒涛、全ての音響が渾然一体となって響き合う。天をささえ、地を通る地軸も共に絶え、共に砕けるかと思えるほどである。

この大音響に驚愕一転、龍神は、長さ500丈ほどの巨大鮫に姿を変じ、海上に躍り出た。

兵士A 出たーーーっ!

兵士B 出たぞーーーっ!

その頭は、ライオンのごとく遥か上空まで延び上がり、その背中は、龍蛇のごとく広大な海域を覆いつくしている。

提督C 全艦、散開し、敵を包囲せよ!

数万の戦艦が左右に展開し、巨大鮫を包囲した。

提督C 弓引けぇーーー!

兵士一同 オォォォォーーー!

連弩 ギュリギュリギュリギュリ・・・。

全ての船上の連弩数万個が、一斉に引き絞られた。

提督C 撃ぅーてぇーーー!

連弩 ドババババババババ・・・。

巨大毒矢 ブヒュー、ブヒュー、ブヒュー、ブヒュー・・・ドドッ、ドドッ、ブシュッ、グシュッ、バシュ!・・・。

巨大鮫 ギョアアアーン・・・ギュアアアーン・・・。

始皇帝 やったぞぉーーー!

数百万本の毒矢が、巨大鮫の全身に突き刺さり、蒼海万里(そうかいばんり)の波は、その血で真っ赤に染まった。

かくして、巨大鮫は死んだ。

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その夜、始皇帝は悪夢にうなされた。

始皇帝 ゴボゴボゴボゴボ・・・ゴボゴボゴボゴボ・・・むむ! なんじゃ? ここはいったいどこじゃ?・・・ゴボゴボゴボゴボ・・・ゴボゴボゴボゴボ・・・。

始皇帝 暗い・・・真っ暗じゃ・・・まるで海底におるような・・・ゴボゴボゴボゴボ・・・ゴボゴボゴボゴボ・・・。

始皇帝 ムムッ! なにやら、あちらから近づいてきよるわい・・・ボォット光る何ものかが・・・あれはいったい?・・・ゴボゴボゴボゴボ・・・ゴボゴボゴボゴボ・・・。

巨大鮫 ゴボゴボゴボゴボ・・・ゴボゴボゴボゴボ・・・始皇帝、始皇帝はどこにおるぅー・・・ゴボゴボゴボゴボ・・・・・・ゴボゴボゴボゴボ。

始皇帝 あっ・・・あやつは!

巨大鮫 ゴボゴボゴボゴボ・・・ゴボゴボゴボゴボ・・・始皇帝ェーイ、始皇帝はどこにおるぅーーーー!

始皇帝 あやつ、まだ生きておったか!・・・ゴボゴボゴボゴボ・・・ゴボゴボゴボゴボ・・・。

巨大鮫 おぉ、そこにおったか・・・よしよし・・・動くなよ、そのままそこで待っておれい・・・グブグブグブグブ・・・グブグブグブグブ・・・。

始皇帝 弓引け、弓引け、撃てい、撃てい! えぇい、ものども、なにをしておる、撃て、早く撃たんかぁ!

巨大鮫 グゥォッフォッフォッフォッフォッ。おまえを守る者など、もはや一人もおらぬわい。始皇帝、おまえはたった一人じゃー、おまえはたった一人じゃぁー・・・グブグブグブグブ・・・ゲブゲブゲブゲブ・・・。

始皇帝 あああ・・・こっちに来る・・・撃て、撃て、撃てい・・・ゴボッゴボッグヴァッグヴァッ・・・。

巨大鮫 シュヴァシュヴァシュヴァシュヴァ・・・。

始皇帝 あああ・・・ええい、こやつ! エェイ! エェイ!

巨大鮫 ウォッフォッフォッフォッフォ・・・。

始皇帝 エーイ! エーイ! くらえい!(ガキッ)いかん、刀が、刀が折れたぁ!

巨大鮫 始皇帝、なんじもこれで最後よのぉ、覚悟せぇーい!

始皇帝 うああああ・・・。

翌朝から、始皇帝は重病に伏す身となってしまった。

始皇帝 うああああ・・・。

その五体はしばしも休まる事なく、7日間苦痛にさいなまれながら、ついに沙丘(しゃきゅう)の平台(へいだい)において、息を引き取った。

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始皇帝の遺言では、帝位を長男の扶蘇(ふそ)に譲る、という事になっていた。しかし、それを見た超高(ちょうこう)は、

超高 (内心)これはまずいぞ。扶蘇が帝位についたりしたら、賢人才人が多く召し抱えられてしまう。そうなったら、わしは永久に、権力の座にはありつけぬわい。

超高は、遺言状を破り捨てていわく、

超高 (内心)遺言をデッチあげてな、胡亥(こがい)を帝位につけてしまえばよいのじゃ。さすれば、胡亥のバックにいるこのわしに、事実上の最高権力が転がり込むでのぉ。

超高 ご一同、よくよく聞かっしゃい! 始皇帝陛下のご遺言にはな、胡亥様に位を譲れと、あるぞよ!

いったん事を始めたら、超高は急スピードでやる男、すぐに咸陽宮(かんようきゅう)へ兵を送り、扶蘇を討ってしまった。

このようにして、超高は、未だ幼い胡亥を「二世皇帝」と称して帝位につけた。それ以降、秦帝国の政治はすべて、超高の意のままの状態となってしまった。

やがて、反乱軍がここかしこに蜂起した。高祖(こうそ)が沛郡(はいぐん)で兵を挙げ、項羽(こうう)は楚(そ)で兵を挙げた。いったん征服された戦国の六国の諸侯らも、たちまち秦帝国に反旗を翻しはじめた。

秦側は、白起(はくき)と蒙恬(もうてん)を将軍として戦に臨んだが、戦に利無く、大将はみな戦死してしまった。

さらに秦は、章邯(しょうかん)を上将軍に任命して再び100万の軍勢を送り、河北(かほく)一帯で戦わせた。百回千回と戦火を交えたが、未だに雌雄を決せず、天下の兵乱は止む時がない。

このような中に、超高は、さらに野望をたくましくしていった。

超高 (内心)今、この咸陽宮は、兵力が手薄になってしまっておるわい。反乱軍との戦いにみんな出払ってしまっておるでの。このドサクサにまぎれて、胡亥を殺し、帝位を我が手中に・・・。

超高 (内心)まずは、帝国内におけるわしの威勢が、いったいいかほどのものか、確かめてみて・・・それからじゃな。

超高は、夏毛(注9)になった鹿に鞍を置いて、胡亥のもとに引いていった。

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(訳者注9)鹿は夏になって黄色にはえかわり、斑が明瞭になってくるのだそうだ。
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超高 陛下、これをご覧ください、この見事な名馬を。さ、お乗り遊ばせ。

胡亥 ワハハハ、何をバカな事を言うておる、それは馬ではない、鹿であろうが。

超高 いいや、これは、馬でござりまする!

胡亥 鹿じゃ!

超高 そこまで言われるのであれば、わたくしめとしても、黙ってはおれませぬぞ。宮中の大臣どもを召されて、これが鹿か馬か、お尋ねあそばされてはいかが?!

胡亥 よぉし!

胡亥はすぐに、百司千官公卿大臣ことごとくを招集した。

胡亥 あのなぁ、超高がの、この動物を馬じゃと言い張って、聞かぬのよ、いったいなにを血迷うておるのかのぉ。みなの者に問う、これは馬か、それとも鹿か? 答えよ。

誰の目にも、そこにいる動物は鹿であると見えている。しかし全員、超高の威勢を恐れて、

一同 それは、超高殿の言われる通り、鹿ではのぉて、馬でござりまするなぁ。

胡亥 ナニーッ!

超高 (内心)よぉし!

この「馬・鹿判別事件」において胡亥に屈辱を味わせた後、超高はまさに、虎狼の心を持つようになった。

超高 (内心)今となっては、わしの威勢を遮れる者など一人もおらぬわい・・・よし、やるぞ、クーデター決行じゃ!

超高は、兵を宮中へ送り、胡亥を強迫させた。胡亥は送りこまれた兵を見て、もはや遁れるすべの無い事を悟り、自ら剣の上に伏して自害した。

漢・楚との戦いの中に、この報を得た秦の将軍・章邯は、

章邯 あぁ、祖国・秦もついに亡びてしもぉたわい。かくなる上は、いったい誰の為に、国を守れというのじゃ。

章邯は直ちに降伏し、楚の項羽の軍門に下った。

このようにして、秦王朝はついに滅び、高祖と項羽は共に咸陽宮に入った。

超高は、クーデーターを起してから21日目に、始皇帝の孫・子嬰(しえい)に殺され、子嬰もまた、項羽に殺された。秦の宮殿は3か月の間燃え続け、その煙は天高く上り続けた。あの世にまで持って行こうとして、始皇帝が自らの陵墓(りょうぼ)に納めた莫大な財宝も、すべて残らず散逸してしまった。

(妙吉の話、以上で終わり)

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妙吉 このようにして、かくも強大を誇った秦帝国も、わずか2代にして亡びてしまいました。その原因はいったい何だったのか? 言うまでもない、超高の驕りの心ゆえですよね。

妙吉 これを見ても分かりますようにね、古の世においても今の世においても、治世者の家が代々続いていくか滅びてしまうかは、それを内部から支える執事(しつじ)、あるいは管領(かんれい)といった重臣の善悪にかかっている、というわけなんですよねぇ。

足利直義 ・・・。

妙吉 いやはや、それにしてもですよぉ、昨今の御当家執事・高師直(こうのもろなお)、さらには高師泰(もろやす)、あの両人の振舞いをみてますとね、これじゃあとても、世の中、静かにはなるまいなぁと、思われてなりません。

足利直義 ・・・。

妙吉 とにかく、ひどいもんですよ。主人が主人なら家臣も家臣だ。高家の家臣たちはね、あんなにたくさん恩賞をもらい、領地も十二分にもらってくるくせにね、「まだ足りない、まだ足りない」って嘆くんだそうですよ。

妙吉 でね、それを聞いた高兄弟は、家臣たちにこう言ってるんですって、「おまえら、領地が少ないなんて泣き言言ってるヒマがあったら、その領地の近辺にある寺社や公卿の領地を、どんどんブンどっていきゃあいいじゃないか」ってね。

足利直義 ・・・。

妙吉 こんな話も聞いてますよ、罪に問われて領地や財産を没収されそうになった人間がね、ツテを頼って、高兄弟の家臣になってね、「ねぇ、なんとかしてくださいよ」って、泣き付いていく。すると高師直が、こういう言うんですって、「よしよし、オレは見て見ぬフリしてやるからな、安心してそのまま領地を持ってろよ。幕府からどんな将軍決定書(注10)が出てきたって、おれが、みんな握りつぶしてやるから」。

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(訳者注10)原文では「御教書(みぎょうしょ)」。
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足利直義 ・・・。

妙吉 あ、そうそう、もっとひどい話も聞いてます、こんな事を言ってるんですって、「都には、天皇などという人がいて、たくさんの領地を専有してるし、やれ、ここは内裏だ、院の御所だとかなんとかいって、いちいち馬から下りなきゃなんない、ほんと、シチメンドクサイ話じゃぁないかい。どうしても天皇が必要だって言うんならな、木を削って造るか、金でもって鋳るかして、天皇をこさえりゃいいんだ。生きてる上皇や天皇は、どこかへ島流しにして捨ててしまえばいいんだよ」。こんなムチャクチャな事を言ってるんですよぉ、高師直は!(注11)

足利直義 ウーム・・・(口びるを噛み締める)。

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(訳者注11)太平記のこの一節だけを根拠に、「(歴史上実在の)高師直は、天皇制廃止論者であった」というような事を主張するならば、これぞまさしく「太平記の危険な読み方」である。その根拠を以下に述べてみたい。

1.「妙吉が直義にこのような事を言った」というのが、はたして史実なのかフィクションなのか、さだかではない。太平記には、史実ではない単なるフィクションがふんだんに盛り込まれていることは、ここまで読み進んでこられた読者には、納得していただけると思う。

2.たとえ、「妙吉が直義にこのような事を言った」という事が史実であったとしても、妙吉のその発言内容が事実なのかどうか、さだかではない。妙吉は、このような話を捏造して、高兄弟に対する誹謗中傷を行ったのかもしれない。あるいは、誰かが、このような事を捏造して、妙吉に、「高兄弟はこんな事を言っているよ」と、伝えたのかもしれない。あるいは、多数の口を経由していくにつれて、事実とは異なるうささが生成されてしまったのかもしれない。一個人の発言内容が多数の人の伝聞を経由していくにつれて、元の発言とは似ても似付かぬ内容に変貌していってしまう事は、我々がしばしば経験するところである。(「伝言ゲーム」)

[観応の擾乱 亀田俊和 著 中公新書 2443 中央公論新社] 48P には、以下のようにある。

 「しかし『太平記』は、重能・直宗と同様、これらも妙吉の「讒言」であったと明記している。(厳密には、「讒し申さるること多かりけり」などと表現されている。)「讒言」とは、「事実をまげ、いつわって人を悪く言うこと」(『日本国語大辞典』)を意味する。つまり、これらの言動は事実ではないと、『太平記』自身が明言しているのである。どうしてこんな代物が「史実」と認定されてきたのか、著者は本当に理解に苦しむ。」
 
太平記は歴史書ではない、歴史小説である。歴史学と小説とを混同してはいけないと思う。
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妙吉 まったくもって、けしからんじゃないですか! 古代中国・周(しゅう)王朝の武王(ぶおう)はね、一人でも乱暴者が天下に横行したならば、それを自らの恥じとした、といいますよ。

妙吉 なのに、高兄弟はどうでしょう! へつらってくる者に対しては、自らの権限を行使して、有罪であっても無罪としてしまう。臣民の分際でありながら、天皇陛下や上皇陛下を、ないがしろにする。罪悪の上に罪悪を重ねて恥じない。

妙吉 あぁいった人間は、さっさと処罰してしまいませんとね。そうでないと、国の政治はいつまでたっても、安定しませんよ。早いとこ、彼らを討たれてですね、上杉重能殿と畠山直宗殿を、後任の執事に任命なさるのが、よろしいのではないでしょうかねぇ?

足利直義 ・・・。

妙吉 直義様、未だ幼いぼっちゃまに(注12)、いずれは、政治の全権をお譲りしようというお気持ち、おありにはならないのでしょうか? もしそれを考えておられるのなら、国家の政治基盤を、早いとこ正しておきませんとねぇ・・・。

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(訳者注12)直義夫妻の男子については、25-2 参照。
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このように、言葉を尽くし、史実を引用しながら様々に論じたので、足利直義も次第に、妙吉の言葉に心を動かされていった。

足利直義 (内心)なるほど・・・よくよく聞いてみれば、妙吉殿のおっしゃる事も、もっともな話だな。こりゃ、早いとこ、手を打たなきゃいかん。

仁和寺(にんなじ)の六本杉の梢の上で、再び天下を乱さんと天狗たちが練った計画(注13)、その一端がまさに今、始動しはじめたようである。

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(訳者注13)25-2 参照。
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