太平記 現代語訳 29-10 高兄弟の最期

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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2月26日、直義(ただよし)との和平が成立し、足利尊氏(あしかがたかうじ)は京都へ向かった。高(こう)兄弟も、時宗(じしゅう)僧侶グループの中に紛れ込み、尊氏に同行した。

まさに、その行く道は無常(むじょう)の岐(ちまた)、しめやかに降りそそぐ春雨の下、数万の敵がここかしこにうごめく中に、我が正体をひた隠しにしながら、ひたすら馬に鞭打つ高兄弟。

蓮葉形の笠をま深くかぶり、袖で顔を隠しはしても、それもしょせん空しい行為、天下広しといえども、そのいずこにも我が身を紛れ込ませる一寸の余地も無し、ただただ身の縮まる思い、まことに哀れなものである。

高師直(こうのもろなお) (内心)とにかく、尊氏様から離れないように、ピッタシくっついていよう。

高師泰(こうのもろやす) (内心)尊氏様の側にいる限り、安全。離れちまったらもう、誰にナニされるか分からん。

両人ひたすら、尊氏から遅れまいと馬を早める。

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高兄弟に対して、最大の恨みを持つ集団は、何といっても、彼らに主君を殺された上杉(うえすぎ)家、畠山(はたけやま)家の家臣たちである(注1)。

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(訳者注1)27-9 参照。
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京都への道中に、高兄弟を殺害してしまおうとの兼ねてからの計画に沿って、彼らは、組織的な行動を開始した。

彼らは、街道のあちらこちら、道路の両側に100騎、200騎、50騎、30騎と控え、尊氏と高兄弟の来るのをじっと待ち構えた。

高兄弟の姿を目にするや否や、鷹角一揆(たかづのいっき)武士団70余騎が、会釈も挨拶も無しに、尊氏と高兄弟との間に割り込んで来た。ようは、双方を、徐々に遠くに隔てていってしまおう、との意図である。

その結果、武庫川(むこがわ:兵庫県尼崎市と西宮市境)のあたりを過ぎる頃には、高兄弟は、心ならずも尊氏の後方、河を隔て山を阻(へだ)てて50町ほどの位地に遠ざかってしまった。

哀れなるかな人間の運命、その盛衰(せいすい)の刹那(せつな)の間(かん)に替(かわ)る事、帝釈天(たいしゃくてん)との戦いに破れた阿修羅(あしゅら)がグウゲの穴に身を隠し、五衰(ごすい:注2)の兆(きざ)しが身に現われた天人(てんじん)が歓喜苑(かんぎえん)をさまよう様も、かくのごとくであろうか。

高師直、天下の執事(しつじ)の地位にあった時には、その威勢は、誰にも犯しがたいものであった。

いかなる大名(だいみょう)高貴(こうき)の者といえども、彼の笑顔を見ては、千金の禄(ろく)、万戸の領地を得たるがごとくに喜び、彼の不機嫌顔(ふきげんがお)を見るや、薪(たきぎ)を負うて焼原(しょうげん)を通過する思い、雷鳴(らいめい)轟(とどろ)く下に大河を渡るがごとくの恐怖感を抱いたものである。

ましてや、将軍・尊氏の側に馬を走らせるその中に、あえて割って入ろうとする者など、ただの一人も存在しえたであろうか。なのに今は、名も知らぬどこぞの武士、取るに足らない他家の若党(わかとう)家臣たちに、尊氏との間を遠く押し隔てられてしまっているのである。

馬が蹴立てるぬかるみの水に、衣は泥にまみれ、天から降る雨は、「なんじ、おのが身の没落を知れ」と語って止まない。高兄弟はただただ、涙で袖を濡らすばかりである。

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(訳者注2)「天人」とは、天上界に住む存在の事である。その滅が近づいてくると5つの前兆が身体に現れてくるといい、これを「天人五衰(てんじんごすい)」という。仏教においては、最下の地獄界からこの天上界までを「六道(ろくどう)」といい、一切の存在はこの6つの世界の中に生々流転を繰り返していく、と説く。これが「六道輪廻(ろくどうりんね)」の概念である。最上の歓楽を味わいつつ生きる天上界に住む存在も、いつかは滅して他の世界に生まれ変わらなければならないのだ。ただし、六道輪廻からの脱出は絶対に不可能なのかといえば、決してそうではない。仏道修行とはまさに、この「六道輪廻」の無限ループからの脱出法に他ならない。
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武庫川を渡り終え、堤防の上を通過しようとしたその時、三浦八郎左衛門(みうらはちろうさえもん)の中間(ちゅうげん)2人が、師直の側に走り寄ってきた。

三浦家中間A こら待てぇ! そこの遁世者(とんせいもの:注3)ぉ!

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(訳者注3)時宗僧侶の事。ここは原文のまま「遁世者」とした。
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三浦家中間B いってぇなんで、そんなに顔隠してやがんでぃ!

三浦家中間A アヤシイぞ、その笠、脱ぎやがれぃ!

二人は師直に飛び掛かり、彼が被っていた蓮葉形の笠を引き切って捨てた。そのひょうしに、ほお被りが外れ、師直の横顔が少し露出した。

三浦八郎左衛門 やったぜ、ドンピシャ、師直じゃん! おれってほんと、ラッキー!

八郎左衛門は、喜び勇んで長刀(なぎなた)の柄を伸ばし、師直の胴を真っ二つにせんと、切りかかった。

三浦八郎左衛門 テェーイ!(長刀を一振)

高師直 アァーッ!

右の肩先から左の脇下まで切っ先下がりに切り付けられたと思う間もなく、次の刃が飛んできた。

三浦八郎左衛門 エヤァー!(長刀を一振)

高師直 ウッ・・・。

馬からドウと落ちた師直の側に、八郎左衛門はすかさず下馬して駆け寄り、その首をかき落した。

三浦八郎左衛門 (師直の首を長刀の切っ先に貫いて高々と指しあげ)三浦八郎左衛門、たった今、高師直を討ち取ったゾォー!

三浦家中間A&B (パチパチパチパチ・・・拍手)

高師泰は、そこから半町ほど遅れて馬を進めていたが、

高師泰 あ!

師直が討たれるのを目の当たりにして驚愕、反射的に馬に拍車を入れた。

その瞬間、背後に迫っていた吉江小四郎(よしえこしろう)が、師泰の身体を槍で一突き、槍は背骨から入って左胸へ貫通した。

師泰は、その槍先を左手で握りしめ、懐に差した小刀を右手で抜こうとしたが、小四郎の中間が走り寄って鐙(あぶみ)に取り付き、師泰を馬から引きずり落とした。

小四郎は師泰の首をかき切り、顎(あご)から喉(のど)へかけて穴を開け、そこに紐を通して自らの乗馬の鞍の後輪に結わえ付けた後、馬を進めた。

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高師景(こうのもろかげ)は、小柴新左衛門(こしばしんざえもん)に討たれた。

高師幸(もろゆき)は、井野弥四郎(いのやしろう)に組み打ちされて首を取られた。

高師世(もろよ)は、長尾彦四郎(ながおひこしろう)に馬の前足を切られて落馬した所を、2回切り付けられ、弱った所を押え込まれた末に首を切られた。

遠江次郎(とおとおみのじろう)は、小田左衛門五郎(おださえもんごろう)に切って落された。

山口入道(やまぐちにゅうどう)は、小林又二郎(こばやしまたじろう)にひき組まれた末に刺し殺された。

彦部七郎(ひこべしちろう)は、背後から小林掃部助(こばやしかもんのすけ)に太刀で切りつけられたが、太刀影に馬が驚いて深田の中に逃げ込んだ。馬を再び街道の上に帰し、彦部は声を限りに叫んだ。

彦部七郎 みんな、どこにいる!? 一所に馳せ寄って、思う存分戦ってから討ち死にしよう!

小林掃部助の中間3人が走り寄り、彦部七郎を馬から逆さまに引きずり落とした。彼らは彦部の体を踏んで首を切り、小林に渡した。

梶原孫六(かじわらまごろく)は、佐々宇六郎左衛門(ささうろくろうざえもん)に討たれた。

山口新左衛門(やまぐちしんざえもん)は、高山又次郎(たかやままたじろう)に切って落された。

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梶原孫七(かじわらまごしち)は、そこから10余町ほど先にいたが、後方の騒ぎを聞きつけ、

梶原孫七 (内心)うっ、何だか様子がおかしい!

武士C なんだなんだ、後ろの方がえらく騒がしいじゃねぇか。

武士D おぉい、タイヘンだ! あっちの方で一悶着あってよ、執事殿がやられたらしいぜ!

武士一同 エェッ!

梶原孫七 しまった!

梶原孫七は、馬を反転させて後方にとって返した。彼は刀を抜いて、上杉・畠山勢と戦ったがついに力及ばず、路傍に倒れ伏した。

梶原孫七 もはや、これまで・・・。(小刀を右手に握り、腹を露出)

阿佐美三郎左衛門(あさみさぶろうざえもん) 待て待て! 梶原、待てよ!

梶原孫七 おう、阿佐美じゃねぇか!

阿佐美三郎左衛門 梶原・・・。

梶原孫七 止めるなよ! これから腹切るんだから。

阿佐美三郎左衛門 ・・・(涙)。

梶原孫七 おれの首、おまえにくれてやらぁ。おまえとは、長いつきあいだもんなぁ。

阿佐美三郎左衛門 ・・・よし、分かった・・・おまえを他人の手にかけるくらいなら・・・おれが・・・(涙)。

梶原孫七 よぉし、介錯(かいしゃく)頼んだぜ!

阿佐美三郎左衛門 うん・・・。(涙)

三郎左衛門は泣く泣く、孫七の首を切った。

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山口入道が討たれたのを見て、鹿目平次左衛門(かのめへいじざえもん)は、

鹿目平次左衛門 (内心)次は、おれが殺(や)られる番だな。

彼は太刀を抜き、後ろにいた長尾三郎左衛門(ながおさぶろうざえもん)に切り掛っていった。三郎左衛門は少しも騒がず、

長尾三郎左衛門 ちょい待ちぃ! ちまよっちゃぁいけねぇぜ。なにも、おまえまでヤッてしおうってんじゃぁねぇんだから。余計な事して、命落とすなよなぁ。

鹿目平次左衛門 (太刀を鞘に戻しながら)おぉ、そうかい。じゃ、のんびり行くとするか。

長尾三郎左衛門 そうそう、ノンビリ行きましょうや、世間バナシでもしながらね・・・で、あんた、京都へ行ってから、いったいどうするんだい?

鹿目平次左衛門 そうさなぁ・・・何も考えてねぇよ。そんな事考えてる余裕、無かったもん。

長尾三郎左衛門 だろなぁ・・・。(中間二人に、キッと目配せを送る)

長尾家中間E&F (鹿目の馬の側に寄る)

長尾家中間E ちょっと待ってくださいよ、お馬の沓(くつ)を切らせてもらいますから。

二人の中間はいきなり、抜いた刀を取り直し、馬の肘に二刀切り付けた。そして馬上から鹿目平次左衛門を引きずり下ろし、長尾三郎左衛門にその首を取らせた。

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河津左衛門(かわづさえもん)は、越水(こしみず:兵庫県・西宮市)の合戦で重傷を負っていたので馬に乗る事ができず、屋根無しの輿に乗って、はるか後方を進んでいた。「執事殿が討たれてしまった!」との叫び声を聞き、彼は、路傍の辻堂の前に輿を降ろさせ、そこで腹をかき切って死んだ。

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高師直(こうのもろなお)の子息・武蔵五郎師夏(むさしごろう・もろなつ)は、西左衛門四郎(にしさえもんしろう)によって生け捕りになった。

彼は日没まで高手小手(たかてこて)に縛されたままになっていた。

この人は、前関白・二条道平(にじょうみちひら)の妹という、いとやんごとなき女性から生まれた人であり、その容貌は世にも勝れ、性格はとても温和で優しかった。それゆえ、足利尊氏(あしかがたかうじ)からも格別に目をかけられており、世間の多くの人々からも限りなくもてはやされていた。

我が子に才があろうが無かろうが、とにかくかわいいと思うのが父というもの、ましてやこのような最愛の子、師直の師夏に対する思いはもうこの上無し、塵をも足に踏ませじ、荒い風にも当てさせじと、大事に大事にかわいがってきたのである。

しかしながら、その果報もいつの間に尽きてしまったのであろうか、年齢15に満たずして、今や荒武者たちに生け捕りにされ、露のようなはかない命、日没と共に消えてしまうとは、まことに哀れな事ではないか。

いよいよ夜になり、縄を解かれて斬られる時がやってきた。

西左衛門四郎 (内心)なんせねぇ、あの高師直の子供なんだもん・・・いってぇどれほどキモッタマすわってやがんだか・・・ちょっと試してみてやるかい・・・フフフ。

西左衛門四郎 おい、おまえ、命惜しくねぇかぁ?

武士G (太刀を持って、師夏の背後に歩み寄る)・・・。

高師夏 ・・・。

西左衛門四郎 命が惜しけりゃ、今すぐその髪切ってな、天台宗(てんだいしゅう)か真言宗(しんごんしゅう)、さもなきゃ時宗(じしゅう)の僧にでもなりやがれ。そしたら、命だけは助けてやっからよぉ。ここでめでたく出家して、これからの一生、心安く生きていけやぁ!

高師夏 ・・・父上はどうなされたか、何か聞いてる? 生きておられるのか、それとも、もう亡くなってしまわれたのか?

西左衛門四郎 師直は、もう死んじゃったぞぉ!

高師夏 そうか・・・。

西左衛門四郎 ・・・。

高師夏 (頭を垂れる)・・・(涙)。

西左衛門四郎 ・・・。

高師夏 父上・・・父上・・・(涙)。

西左衛門四郎 ・・・。

高師夏 ・・・じゃ、もう、命を惜しむ必要もないわけだ・・・誰の為にもね・・・冥土(めいど)にあるとかいう死出の山(しでのやま)、三途の大河(さんずのたいが)とやら、父上と一緒にお渡りしよう。

西左衛門四郎 ・・・。

高師夏 さ、すぐに、この首、切ってくれ!

師夏は、敷き皮の上に居直った。

武士G ・・・。

高師夏 さ、早く!

武士G ・・・(涙)。

高師夏 ・・・。

武士G ウッ・・・ウッ・・・ウウウ・・・(涙)。

西左衛門四郎 ・・・(涙)。

斬り手の武士は、目を上がられずに師夏の背後に立ちつくしたまま、泣いている。

西左衛門四郎 ・・・(涙)・・・えぇい、いつまでもこうしとれんわい。さぁ、お浄土のある西の方に向かって、念仏を10回お唱(とな)えなされぃ!

高師夏 ・・・南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)、南無阿弥陀仏・・・。

そしてついに、師夏も首を打たれてしまった。

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越水(こしみず)の戦の後、高兄弟側についていた武士たちが十方に分散してしまい、その残存兵力が極めて少なくなっていた事は事実である。とは言いながらも、今朝、松岡城(まつおかじょう)を出た時には、たしかに6、700騎はいたはず。しかし、高一族の主要メンバーが次々と討たれていくのを見て、みなどこかへ逃げて隠れてしまったのであろう、討たれた14人の他は、中間(ちゅうげん)、下部(しもべ)に至るまで、一人残らず、影も形も見えなくなってしまった。

この14人の高一族メンバーはといえば、これまで度々の戦において輝かしい高名を揚げ、その逞しい力を、周囲にいやというほど見せ付けてきた者たちばかり、たとえその命運は尽き、どのみち、命ながらえる事はできなかったとしても、全員、心を一丸にして上杉(うえすぎ)・畠山(はたけやま)家臣団に対して立ち向かっていったならば、分相応の相手と闘って死んでいけたであろう。

なのに、彼らの中の誰一人として、相手に太刀を打ち付ける事さえもできないままに、切っては落され、押さえられては首をかかれ、全員ふがいなく討たれてしまった。これもやはり天から下された罰であろうとは言いながらも、あまりにも、ぶざまで、なさけない事である。

「戦う人」にも2種類ある、すなわち、「仁義(じんぎ)の勇者」と、「血気(けっき)の勇者」である。

「血気の勇者」は、戦場に臨む度に、勇進んで肘(ひじ)を張り、強きを破り堅きを砕く事、鬼のごとく、怒れる神のごとく、速やかである。

しかしながら、この種の人々は、敵側から利をもって誘われた時、あるいは、味方が形勢不利に陥ってしまったとなると、チャンスさえあれば、いとも簡単に恥を忘れて投降、あるいは、心にもない出家をして、自己保全の延命行為に走るのである。

一方、「仁義の勇者」は、むやみやたらに他人と先陣争いをするような事はない。また、敵を目の前にして、高声多言に勢いを振るったり、肘を張ったりするような事も無い。

しかし、一度(ひとたび)盟約を成して、盟主から戦力の一端としての期待をかけられた後は、二心をまったく持つ事がないし、心を変じて味方を裏切るような事も絶対にしない。重要な局面に臨んでは、志を決して失わず、たとえ味方が敗勢になっていようとも、自らの命を軽んじて、必死に戦う。「仁義の勇者」とは、まさにこのような人の事を言うのである。

現代の世においては、「聖人」という言葉は、もはや死語、多くの人々の心は、梟悪(きゅうあく)に深く染まってしまっている。ゆえに、「仁義の勇者」の数は少ない。そこいら中、「血気の勇者」だけがうごめいている。

古代中国において、漢(かん)と楚(そ)は70回もの戦を繰り返した。我が国においても、源氏と平氏は3年間戦い続けた。そのいずれにおいても、シーソーゲームが展開され、戦う両者の優劣はめまぐるしく入れ変わった。しかし、1回はともかくとして、2回も敵に降伏した者はさすがに皆無であったのだ。

なのに、現代においてはどうか。

元弘(げんこう)年間の鎌倉幕府滅亡以降の、[朝廷&公家階級 versus 武士階級]の権力闘争において、ヘゲモニー(Hegemonie:覇権)の交代は2度あった(注4)。ところが、このたった2回の権力構造変化の間に、日本全国のほとんどの人々が、5回、10回と、「あちらについたと思ったら、またこちらに寝返り」の行為を、繰り返して止まなかったのである。一度も心を変ずる事が無かった者は、ごく少数でしかない。

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(訳者注4)
1回目は、後醍醐天皇派勢力 versus 北条氏勢力(朝廷&公家階級 versus 武士階級)。後醍醐天皇派勢力が勝利。
2回目は、後醍醐天皇派勢力 versus 足利氏勢力(朝廷&公家階級 versus 武士階級)。足利氏勢力が優勢に。
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このような、不安定極まりない世相であったが故に、天下の争いは止む時がなく、戦を繰り返せど繰り返せど、ついに決定的勝敗を決する事ができないまま、ずるずると、混乱状態が引き伸ばされてきてしまったのである。

このような観点から、高兄弟の政治権力の構造を考察してみるならば、その実態が、今や極めて明瞭に見えて来るではないか。

ヒエラルキー(Hierarchie:権力階層)の頂点に立つ師直(もろなお)と師泰(もろやす)を支えていたその下部構造たるや、まさに、上に述べたところの、「血気の勇者集団」以外の何ものでもなかったのである。

彼らの日頃の名誉も高名も、しょせんは「血気に誇る者たち」のそれでしかなかったのだ。でなければ、高兄弟と運命を共にして討死にしていった者の数は、1,000、あるいは、2,000という数に上っていたはず、彼らの名は、「名誉の戦死者」として、後世にまで伝わっていたはず。

今にして思い起せば、かの孔子(こうし)の言葉、けだし名言というべきか。

 仁者は 必ず 勇有り
 勇者は 必ずしも 仁あら不(ず)(注5)

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(訳者注5)論語・憲門より。

(訳者注6)[兵庫県・伊丹市]内の、武庫川の東側、国道171ぞいの場所に、[師直塚]というものが、あるようだ。
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