太平記 現代語訳 20-7 新田義貞に示された不思議

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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その7日後、

新田義貞(にったよしさだ) うん?・・・おれが今居る所は、いったいどこだ?・・・ふーん、どうも、足羽城近くの川のほとりのようだなぁ。

新田義貞 こちらの岸には、我が軍のメンバーたち、あちら岸にいるのは、斯波高経(しばたかつね)・・・両軍対峙してからもう数日も、戦いを交えないままに経過している・・・。

新田義貞 ややっ、これはいったいどうしたことか! おれの体が変身していく! どんどん大きくなっていくぞ、おぉーっ!

新田義貞 こりゃぁ驚いた! おれは、長さ30丈ほどの大蛇に変身してしまったではないか!

新田義貞 フフフ・・・高経め、おれの姿に驚いて、逃げ出しやがったぞ。兵をまとめ、盾を捨てて、数10里ものかなたにまで逃げていっちまいやがった・・・ワッハハ、ザマァ見ろーー!

新田義貞 (ガバッ)・・・うん?・・・あぁ・・・夢だったのか・・・。

義貞は、朝早く起きて、この夢を周囲の者らに語った。

新田軍リーダーA ほっほぉ、殿が大蛇に変身とはねぇ。それっていってぇ、どういう意味がこめられた夢なんでしょうかねぇ?

新田軍リーダーB 大蛇も龍も、共に爬虫類、同類ですわなぁ。龍は、雲雨(うんむ)の気流に乗り、天地を動かす動物であると言われてますよ! とにかく、これは、めでたい夢ですわさ。

新田軍リーダーC 殿、夢の中で、斯波高経は、龍になった殿の姿を見て、こわがって逃げだしちゃったんでしたよねぇ?

新田義貞 うん。

新田軍リーダーC 古代中国の葉子高(ようしこう)は、龍が好きでよく絵に描いていたそうですけどね、ある日、本物の龍が天から舞い下りてきたのを見て、恐れおののいて逃げ出しちゃってね、とうとう、魂まで失っちまったって、いいますよ。斯波高経も、近いうちに、雷鳴のごとき殿の威力を恐れて、スタコラ逃げ出すってぇような・・・まぁ、なんと申しましょうか、これはいわゆる、「予知夢」の類(たぐい)じゃぁないでしょうかねぇ。

この会話を垣根ごしに聞いていた斉藤道献(さいとうどうけん)は、眉をひそめ、密かに周囲に語った。

斉藤道献 テヘ! ナニ言ってやがんでぇ、ったくもう! めでてぇ夢でもなんでもねぇよ、殿の見なすったあの夢はな。

新田軍メンバーD えぇ?

斉藤道献 「凶」を告げる天からの声だよ、あれは。

新田軍メンバーD いったいどうして?

斉藤道献 あのなぁ、昔、中国に、「三国時代(さんどくじだい)」という時代があってなぁ・・・。

新田軍メンバーD うんうん・・・。

斉藤道献が語った話は、以下の通りである。

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中国の三国時代、それは、呉の孫権(そんけん)、蜀(しょく)の劉備(りゅうび)、魏(ぎ)の曹操(そうそう)の3人が、中国400州を三分して支配した時代であった。3人とも目指す所はみな同じ、他の2国を亡ぼして、自らが中国を統一しようとしていた。

曹操は、才智においてひときわ抜きんでており、謀略を陣幕の内に運(めぐ)らし、敵を国の外に防ぐ事ができた。

孫権は、優しさと厳格さを時宜に応じてよく使い分け、士を労(ねぎ)らい、衆を慰撫(いぶ)したので、国を賊し政治を掠める者たちは競って、彼の下に参集し、邪に帝都を侵し奪った。(注1)

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(訳者注1)孫権についてのこの記述、どうも解せない。三国志にも三国志演義にも、「帝都を侵し奪った」というような記述は一切無いのだが。
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劉備は、漢の皇族の血筋に連なる人で、その心は仁義を守り、利欲にとらわれることがなかった。ゆえに、忠臣や孝子が、四方から彼の下に集まってきた。彼らの力を活用して、劉備は大いに文教を図り、武徳を高めた。

この3人は、「智」、「仁」、「勇」の三徳をもって、中国全土を分割支配、呉魏蜀の三都は相並び、鼎(かなえ)の3本の足のごとくに対峙した。

その頃、諸葛孔明(しょかつこうめい:注2)という賢才の人が、世を避け身を捨てて、蜀の南陽山(なんようさん)(注3)に住んでいた。

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(訳者注2)姓は「諸葛」、名は「亮」、あざなは「孔明」。以下、[「諸葛孔明」 植村清二著 中央公論社 1985.11.10 ISBN4-12-201275-9 C1123]の「四 孔明の出身」より引用。

 「中国語は日本やヨーロッパの言語と違って、単綴語であるから、氏族の名称も楊(隋)・李(唐)・趙(宋)・朱(明)というような単姓が普通である。もっとも司馬・公孫・長孫・欧陽・夏侯というような複姓もいくらかあるが、それらは官職や住地に基づいた由緒が明らかである。諸葛というような姓はすこぶる珍しい。」

(訳者注3)諸葛孔明が住んでいた伏竜岡は、蜀の地(四川盆地)ではなく、長江中流域・荊州(けいしゅう)である。「孔明の草廬(住居)は襄陽の西北20里(8キロ)ばかり、隆中山の東麓にあった。」(上記同書より引用)。

当時、劉備は荊州を支配する劉表の配下にあり、そこで孔明に出会ったのである。その後、勢力を伸張した劉備は、蜀をも支配するようになり、蜀の成都に居を移した。劉備を「蜀の劉備」と呼ぶのは、そこから来ている。
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寂を釣り、閑を耕して歌う孔明の、次のような詩が残されている。

 斉(せい)国の城門を出(いで)て 歩み行き
 遥かに蕩陰の 里を望む
 里中に 三つの墳墓(ふんぼ)あり
 形同じく塁々(るいるい)と並ぶ その塚を見て
 私は問うた これは何家の墓なるや
 
 それは 田疆と古冶子の墓であった
 その才気 南山を圧倒し
 その智慧 世界に冠絶す
 しかしながら 一朝にして讒言せられ
 3人に送られた2個の桃を争って 彼らは共倒れとなってしまった
 いったい誰が かくなる謀略を練ったのであるか
 斉の大臣・晏子(あんし)こそ まさにその張本人

(原文)
 歩出斉東門
 往到蕩陰里
 里中有三墳
 塁々皆相似
 借問誰家塚
 田疆古冶子
 気能排南山
 智方絶地理
 一朝見讒言
 二桃殺三士
 誰能為此謀
 國将斉晏子

蜀の智臣(注4)がこれを読み、孔明が賢人であることを悟って、劉備にいわく、

臣下H 殿、諸葛亮こそは、天下の賢人にてござりまするぞ。彼をお招きになって高位高官を与え、国の政治を見させたもうてはいかが?

劉備 よし。

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(訳者注4)一説によれば、孔明を劉備に推薦したのは、徐庶(じょしょ)であった。
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劉備はすぐに、豪華な進物品を用意して、孔明のもとを訪れた。

劉備 諸葛殿、なにとぞ、わしのもとへ来て、国の政治を見てはくださらぬか。わしのたっての願いじゃ・・・これ、この通り・・・。

このように、礼を厚くして招いたが、孔明は、

諸葛孔明 劉備殿のたってのお招き、恐悦至極(きょうえつつしごく)に存じまする。しかしがら、私めといたしましては、お招きをお受けすること、あいなりませぬ。

劉備 なに故じゃ?!

諸葛孔明 谷の水を飲みて岩の上に暮らし、一切の野心を捨てて気楽なる生涯を送る・・・これに勝る楽しみなど、他にありましょうや。

劉備 ・・・。

しかし、劉備はあきらめず、孔明の草庵を三度訪れて、彼への説得を繰り返した。(注5)

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(訳者注5)ここから、「三顧の礼(さんこのれい)」の言葉が生まれた。
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劉備 かくなる不肖の身とはいえ、わしは、天下の太平を求めて止まぬ。自身を安ずるためとか、欲を縦(ほしいまま)にせんとか、さような心を持って生きておるのではない。見よ、今のこの世のありさまを! 人道は地に落ち、至る所で、民は苦しみに沈んでおるではないか! わしはのぉ、ただただ、彼らを、あの苦しみの中から救いたいと思う、それだけじゃ・・・。

諸葛孔明 ・・・。

劉備 いみじくも、かの孔子様は言われたそうな、「善人が国を治むること百年にして、民に悪をなさしめず、死刑の必要無からしむるに至る」と。しかしながら、貴殿がその溢れんばかりの才能を発揮して、わしを補佐してくれるなれば、百年もかけずとも、そのような社会を形成できるであろう。

諸葛孔明 ・・・。

劉備 石を枕にし、泉に口すすいで、隠棲(いんせい)を楽しむ、たしかにそれもまた、一つの人生。じゃがのぉ、そのような人生など、しょせん、「自分の為だけの人生」に過ぎぬではないか。国を治めて民を利し、大いなる善政をもって社会を改革していく、これこそがまさに、「万人の為の人生」というものであろうが!

このように、誠意を尽くし、理(ことわり)を究(きわ)めて説く劉備の前に、ついに孔明も辞する言葉に窮してしまった。

諸葛孔明 ・・・あい分かりました。殿の御意(ぎょい)のままに。

劉備 おぉ! わしのもとに来てくれるかぁ!

諸葛孔明 ははーっ!(平伏)

このようにして、諸葛孔明はついに、劉備の宰相となった。

劉備は、孔明に対して絶大なる信頼を寄せた。

劉備 孔明がおってこそ、わしは生きていけるのじゃよ。水があるから、魚が生きていけるようなものじゃな。(注6)

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(訳者注6)ここから、「水魚の交わり」の言葉が生まれた。
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劉備はついに、孔明に公侯の位を与え、「武公(ぶこう)」の号を与えた。

こうなると、劉備のライバルたちも、気が気ではない。

曹操 (内心)劉備に、臥竜(がりょう)孔明がくっついてしまいおったわ・・・いかん・・・このままでは、天下は劉備のものになってしまう!

そこで曹操は、司馬仲達(しばちゅうだつ)という将軍に70万騎の兵を率いさせて、劉備を攻めさせた。

これを聞いた劉備は、孔明に30万騎の軍勢を与え、魏・蜀の国境地帯の五丈原(ごじょうげん)という所へ差し向けた。(注7)

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(注7)この記述は、史実と大きく違っている。五丈原での対決は、曹操、劉備の死後の事である。しかも戦を仕掛けたのは孔明の方であり(魏国領域への侵攻を図った)、司馬仲達はこれを防ぐ側の立場にあった。
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魏と蜀の兵が川を隔てて対峙すること50余日、司馬仲達は一向に戦端を開こうとしない。魏軍サイドでは、次第に馬は疲れ、食料も日々に乏しくなってきた。

魏軍リーダーI 将軍、わが軍の食料、底をつきかけておりまするぞ。

魏軍リーダーJ このままでは、わが方はジリ貧。

魏軍リーダーK 直ちに、蜀と戦い始めた方が、よろしいのでは?

司馬仲達 いや、あいならぬ!

ある日、魏軍にとらわれた蜀側の芻蕘(すうじょう:注8)に、司馬仲達がたずねた。

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(訳者注8)草を刈ったり薪を確保する役目の者。
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司馬仲達 なんじらの将軍、諸葛孔明は、蜀の陣をどのように、取り仕切っておるのかの?

芻蕘L へぇ、そりゃぁもう! わしらの将軍・孔明さまはな、士卒をいたわり、まっこと礼儀をつくして、わしらに接してくださりますでよ。一椀の豆を食うにも、みんなに分けていっしょに食いなさるしな、酒一樽あけても、川に注いで大地と共に飲みなさるだよ。わしらがもの食わねぇうちは、孔明さまも、ご自分の食事に箸つけられねぇ。わしらが雨露に濡れてる時にゃぁ、油ぁ塗った天幕張らずに、わしらといっしょに、雨に濡れてなさるだ。楽しみはまず、みなに与え、自分を一番後まわしにされる。でも、愁いとなったら、万人に先んじてお受けになる。

司馬仲達 フーン・・・。

芻蕘M それだけじゃぁねえよ。夜明けまで一睡もなさらんとな、自ら陣中を回られて、緩みが見えてる所を引き締めなさるんだ。朝から夕まで、顔を和らげて、みなと親しく交わられるだよ。孔明さまが自分の為に何かされているとことか、身を休めておられるとか、そういった事なんか今まで、一瞬たりとも見たことねぇだよ。

司馬仲達 ホーォ・・・。

芻蕘N こんなお方が将軍やってなさるんだからよぉ、わしら蜀軍30万は心を一つにして、自分の命もおしまねぇ。太鼓を打って前進するにも、鐘を叩いて後退するにも、すべて、孔明さまの命令通りってわけさなぁ。

司馬仲達 ヘーェ・・・。

芻蕘たち ・・・。

司馬仲達 諸葛孔明について、他に言いたいことは?

芻蕘L わしが知ってる事はみんな言っちまっただ。それ以上の事までは、わしらシモジモのもんには分かんねえよ。

これを聞いた司馬仲達は、

司馬仲達 我が方の兵は70万騎、その心は、全員ばらばらじゃ。それにひきかえ、孔明の兵30万騎は、心が一つになっておる。ならば、戦ってみても、わが方が蜀に勝利することなど、到底、期しがたい。しかし、孔明が病に伏す時、それに乗じて戦わば、必ずや勝利を得るであろう。

魏軍リーダーM いったいなぜ、孔明が病に?

司馬仲達 見よ、この炎暑を。かくなる気候のさ中に、あのように孔明は、昼夜、心身を労しておるのじゃ。温気(うんき)が骨に侵み入り、病にならずにはおらりょうか。

かくして、司馬仲達は、自軍の士卒らの嘲りも気にせず、蜀からますます遠くに陣を引き、ただじっと数ヶ月を送っていった。

魏軍リーダーN 「そのうち孔明が病を得る」とな? はてさて、司馬仲達殿はいったいいつから、軍人から医師に商売替えされたのやら。

魏軍リーダーO いやいや、たとえ医師であろうとも、40里も彼方の人間の脈を取り、その健康状態を診断することなど、できようや?

魏軍リーダーP ふふん、見え透いた事よ。孔明の臥竜の威力を恐れて、あのような言い逃れをしておるのじゃわい、ハハハ。

魏軍メンバー一同 ワハハハハ・・・(手を打って大笑い)

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ある夜、両陣営の対峙する間の空に、奇怪な星が輝きはじめた。火のように赤々と輝くその光を見て、司馬仲達はいわく、

司馬仲達 今から7日のうちに、天下の人傑が死ぬ・・・あの星はその予兆じゃ・・・そうじゃ、諸葛孔明がいよいよ、この世を去る時が来たのじゃよ・・・。魏が蜀を併呑(へいどん)する日も、遠くはないぞ。フフフ・・・。

果たして、その翌朝より孔明は病に伏し、7日後に陣幕の中に没した。

蜀の副将軍らは、魏軍がこれにつけこんで攻撃をしかけてくるのを恐れ、孔明の死を秘して、「将軍の命であるぞ!」と触れ、兵を並べ旗を進めて、魏陣へ突撃した。

司馬仲達は、もとから戦いを交えて蜀に勝つことはできないと思っていたので、一戦もせずに、馬に鞭打って走ること50里、険阻な場所に到達して、ようやくそこで軍を止めた。

今に言う、「死せる孔明、生ける仲達を走らしむ」とは、この司馬仲達の行動を嘲った言葉なのである。

戦闘終了の後、孔明の死を聞いて、蜀の兵は全員、司馬仲達の軍門に降った。

この後、蜀がまず滅び、呉もそれに続いて滅び、魏の曹操はついに中国全土を統一した。(注9)

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(訳者注9)これも史実と違う。曹操はこれよりもずっと前に没している。魏は蜀を亡ぼしたものの、国の実権は完全に司馬仲達の子孫らに奪われ、司馬仲達の孫・司馬炎に滅ぼされた。司馬炎が建てた晋国が呉を併呑して、中国は統一され、三国時代は幕を閉じた。
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新田軍陣営の方に、話を戻そう。

斉藤道献 以上のような故事をもとに、殿の見られた夢を、「夢判断」してみるにだなぁ・・・。

斉藤道献 まず、今の国内情勢は、闘争が続いた中国・三国時代に共通する面が、大いにある。

斉藤道献 次に、「殿が龍に変身された」という点だが・・・龍は「陽気」に向かう時は威力を振るい、「陰」の時に至っては蟄居(ちっきょ)の扉を閉ざす、と言われてるんだなぁ。時は今7月、まさに初秋、「陰」が始まる時じゃないか。

斉藤道献 「龍の姿で水辺に臥せってた」って、殿は言われてたよな。これも、孔明が「臥龍」と呼ばれてた事にピッタシ合うじゃん!

斉藤道献 その孔明は、結局どうなった? 皆は、「目出度い夢だ」なんて言って、殿といっしょに、はしゃいでるようだけど、わしにはどうしても喜べんぞ。

このように、眉をひそめて言う斉藤道献の言葉に、そこに居合わせた人々も、

新田軍メンバーD (内心)なるほどなぁ。

新田軍メンバーE (内心)うーん、なるほど。

新田軍メンバーF (内心)でもなぁ・・・殿もあんなに喜んでおられることだし・・・「殿ぉ、殿の見られたその夢は、凶夢ですぜ!」なんて、おれにはとても言えねぇなぁ。

新田軍メンバーG (内心)あぁ、やだやだ! こういう忌み憚られるような事は、この際、何も聞かなかった事にしておこうっと。

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