太平記 現代語訳 16-7 足利軍、九州から京都へ向かう

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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多々良浜(たたらはま)での戦の後、筑紫(つくし)をはじめ、九州全域の武士たちは一人残らず、足利尊氏(あしかがたかうじ)に従い靡(なび)くようになった。しかし、中国地方には朝廷方の勢力が充満して道を塞ぎ、関東にも朝廷の勢威が及んでいて、味方についてくれるような者は少ない。

足利サイド内の声 こんな情勢だもんなぁ、すぐに京都へ攻め上るってぇのも、いかがなものかと・・・。

今年の春に喫した敗北がよほど骨身にこたえているのか、足利サイドには、威勢の良い掛け声の一つすらも、上がってはこない。

そのような所に、赤松円心(あかまつえんしん)の三男・則祐(のりすけ)と得平秀光(とくひらひでみつ)が、播磨(はりま)から筑紫へやってきた。

赤松則祐 たしかにね、京都から派兵された敵軍が、備中(びっちゅう)、備前(びぜん)、播磨、美作(みまさか)に充満しているのは、事実ですよ。そやけどな、彼らは、方々の城を攻めあぐねててな、気力も衰え、食料も最近、底をついてきとぉ。今、足利将軍様が大軍を率いて京都へ向かわはるとなったら、その情報が伝わっていっただけで、あいつら、ヘナヘナになってしまうでしょうなぁ。

足利尊氏 ・・・。

赤松則祐 京都進軍のこの好機を逃してね、白旗(しらはた)の城が攻め落とされてしもたら、残りの城かてもう、1日も持ちこたえることできひん。中国地方の4か国の要害がすべて敵側の城になってしもたら、たとえ何100万の軍勢があったとて、京都進軍は、もはや不可能になってしまいますでしょう。

足利尊氏 ・・・。

赤松則祐 古代中国・秦(しん)帝国の末期、趙(ちょう)王が秦国の兵に包囲された時、楚(そ)の項羽は、舟や筏(いかだ)を沈め、釜や炊飯器を焼き払い、「戦いに負けたら士卒一人も生きて帰らじ!」との覚悟を示して、戦に臨んだというではありませんか! 将軍殿が天下を取れるかどうかは、今この時に京都へ進軍を開始するか否か、この一点にかかっておりますよ!

単刀直入に言い放つ則祐。

足利尊氏 なるほど・・・。君の提案は、実に的を射ているな・・・。

赤松則祐 将軍、さ、ご決断を!

足利尊氏 よし・・・ならば、夜を日に継いで、京都進軍を急ぐとしよう。ただ・・・九州を放置したままで、軍を東に進める、というわけにもいかんだろうなぁ・・・。

そこで、尊氏は、九州残留軍のリーダーに仁木義長(にっきよしなが)を任命し、その下に大友(おおとも)、小弐(しょうに)の両名を留め置く事にした。

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4月26日、足利軍は太宰府(だざいふ:福岡県・太宰府市)を出発、同月28日、順風の中に艫綱(ともづな)を解いて、瀬戸内海へ出帆。

5月1日、安芸(あき:広島県西部)の厳島(いつくしま:広島県・廿日市市)に船を寄せ、尊氏は、厳島神社に3日間の参篭(さんろう)を行った。

結願(けちがん)の3日目、醍醐寺・三宝院(だいごじ・さんぼういん:京都市。山科区)の僧正・賢俊(けんしゅん)が京都からやってきた。

賢俊 お待たせいたしました。持明院統(じみょういんとう)側からの院宣(いんぜん:注1)、確かにここに。どうぞ、お受け下さいませ。

足利尊氏 ・・・(院宣を伏し頂いて、開く)

院宣 パサパサパサ。

足利尊氏 ・・・(院宣を読む)

足利尊氏 あぁ、やっと・・・なんだか、箱と蓋とがピシッと合わさったって感じだなぁ・・・我が心中の願い、ついにかなえられたかぁ。

賢俊 お喜び申し上げます。

足利尊氏 (大喜び)こうなったらな、今までとは話が違ってくるのだよ。これからの戦、もう、すべて勝利だぞ!

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(訳者注1)院から発行された公式文書。この院宣の内容について、原文には一切触れられていないのだが、おそらくは、「新田義貞を追討せよ。」といった内容であろう。
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去る4月6日に、胤仁(たねひと)法皇は持明院殿にて崩御され、後伏見院(ごふしみのいん)と謚(おくりな)されていた。院宣はその前に、発行されていたのである。

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厳島神社への参拝を済ませた後、5月5日、進軍を再開。

伊予(いよ:愛媛県)、讃岐(さぬき:香川県)、安芸、周防(すおう:山口県南部)、長門(ながと:山口県北部)の勢力500余隻が、合流してきた。

同月7日、備後、備中、出雲(いずも:島根県東部)、石見(いわみ:島根県西部)、伯耆(ほうき:鳥取県西部)の勢力6000余騎、合流。その他の地方からも武士たちが続々馳せ参じてくる。招かざるに集まり、責めざるに順(したが)い、吹く風が草木を靡かせるがごとくである。

新田義貞(にったよしさだ)の軍勢が備中、備前、播磨、美作に充満し、方々の城を攻めているとの事ゆえ、足利軍は、備後(びんご)・鞆の浦(とものうら:広島県・福山市)から、二手に分かれて進む事にした。

第1軍は、足利直義(あしかがただよし)が大将、20万騎の編成で、陸路を進む。

第2軍は、足利尊氏と一族40余人、高(こう)家の一党50余人、上杉(うえすぎ)家の一類30余人、外様(とざま:注2)の有力武士たち160人、軍船7,500余隻を並べて、海上を行く。

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(訳者注2)足利家の親族以外の武士。
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鞆の浦を発つ時、一つの不思議が示された。

船室の中で、

足利尊氏 うん? あれはいったいなに? 南の方から、光輝く物体が接近してくる・・・。

足利尊氏 船の舳先(へさき)に、降り立ったぞ・・・。

足利尊氏 あぁ、なんと! 観世音菩薩(かんぜおんぼさつ:注3)さまではないか・・・まばゆいばかりに、輝いておられる・・・。

足利尊氏 おぉ、御家来の二十八部衆(にじゅうはちぶしゅう)の方々も、いっしょに来ておられる・・・それぞれ武装して、観世音菩薩様を護っておられるな・・・。

足利尊氏 (ハッ)(夢から醒める)・・・あぁ、夢だったのか・・・。

ふと見ると、山鳩が1羽、船室の屋根の上にとまっている。

足利尊氏 (内心)うぅん! 次の戦、勝てるな・・・今の夢は、必ず勝利を得る事が出来るぞ、というお告げなんだ。円通大士(えんつうだいし:注4)が、私を擁護して下さるのだ!

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(訳者注3)Avalokiteśvara。「観自在菩薩」とも呼ばれる。

(訳者注4)「観世音菩薩」の別称。「円通」=「円満融通」。
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尊氏は、杉原紙(すいばらがみ)を短冊のサイズに切らせ、そこに自筆で、観世音菩薩の絵を描き、各船の帆柱に貼り付けさせた。

やがて、海路を行く第2軍は、備前の吹上(ふきあげ:、岡山県・倉敷市)に到着。陸路を行く第1軍は、備中の草壁庄(くさかべしょう:岡山県・小田郡・矢掛町)に到達した。

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(訳者注5)

以降の記述においては、下記の略称を用いる。

[書A]:[日本古典文学大系35 太平記二 後藤丹治 釜田喜三郎 校注 岩波書店]
[書B]:[新編 日本古典文学全集55 太平記2 長谷川端 校注・訳 小学館]

院宣に関して、これまでの出来事を時系列で見ると、以下のようになる。

1331年 鎌倉幕府が後醍醐天皇を廃位、光厳天皇が即位。
 (後醍醐天皇は大覚寺統、光厳天皇は持明院統)。

1332年 後醍醐天皇、隠岐へ。

1333年 後醍醐天皇、京都へ帰還、天皇位に復帰。
 光厳天皇は廃位されるが、その父・後伏見上皇は上皇のまま(上皇には退位・廃位が無いので)。
 
1335年 朝廷・対・足利氏の権力闘争が始まる。この時、足利氏は、朝敵・賊軍(朝廷の敵)と位置づけられている。

1336年 足利兄弟、九州へ。
 太平記作者は、[太平記 15巻6章]において、足利尊氏が薬師丸を京都へ送り、院宣獲得の工作を行わせようとした、との趣旨の事を記述している。

1336年 足利兄弟、九州を出発。
 太平記作者は、[太平記 16巻7章(本章)]において、院宣は、後伏見上皇(光厳上皇の父、持明院統)の薨去よりも前の段階で発行された、との趣旨の事を記している。この記述の意図が不明なのだが、もしかしたら、院宣は後伏見上皇によって発行されたのである、という事を言いたかったのかもしれない。
 しかし、[書A]の141Pの注には、「光厳上皇が院宣を尊氏に賜い、復位を図ったことは保暦間記に載る。」とあるので、院宣は実際には、光厳上皇によって発行されたのであろう。

1336年 太平記作者は、[太平記 16巻7章(本章)]において、足利尊氏が厳島神社に参拝していた時に、持明院統サイドより発行された院宣が、尊氏に届けられた、との趣旨の事を記述している。

この院宣が発行された後、権力闘争の構図は激変する。すなわち、

 朝廷(天皇-新田氏) 対 朝敵・足利氏 の構図から、
 朝廷(天皇-新田氏) 対 院(上皇(元天皇)-足利氏) の構図に。

尊氏は、この院宣を獲得することにより、権力闘争面において、朝廷と対等の関係に立つことができるようになった(院宣を発行した上皇を自分の上にいただくことにより)と、太平記作者は、解釈・記述しているのであろう。

朝廷(天皇)・対・院(上皇)の構図での権力闘争は過去にもあった

 保元の乱 : 後白河天皇 対 崇徳上皇
 一の谷の戦いから壇ノ浦の戦いまでの、源平争乱 : 安徳天皇 対 後白河法皇(上皇)

過去にもあったこのような権力闘争の構図に、尊氏は持ち込むことに成功した、これにより、権力闘争の潮の流れが大きく変わったと、太平記作者は、解釈・記述しているのであろう。

太平記では、尊氏が院宣を獲得したのは、宮島(厳島神社のある)である、とされているのだが、

[書A]の141Pの注には、

 「保暦間記には持明院の院宣が筑紫に到来といい、梅松論では尊氏が筑紫へ逃れる際備後の鞆に泊まった時、院宣到来という。」
 
とあり、

[書A]の113Pの注には、
 
 「梅松論では豊島河原合戦の後に、二月十一日、赤松円心の忠告で持明院の院宣を頂くよう願い出たが、尊氏は西走して鞆津でこれを請けたとある。」

とあり、

[書B]の295Pの注には、

 「『梅松論』下では、院宣は尊氏が九州へ逃れる際、備後の鞆で拝受したとする。」

とある。

このように、尊氏が院宣を獲得した場所については、[筑紫](保暦間記)、[鞆の浦](梅松論)、[宮島](太平記)と、「諸説あり状態」のようだ。

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