太平記 現代語訳 14-9 名和長年、瀬田から退却

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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瀬田(せた:滋賀県・大津市)方面の防衛ラインを守っていた名和長年(なわながとし)は、「山崎の防衛ラインが崩壊し、陛下はすでに坂本へ脱出」との情報を聞き、

名和長年 (内心)ここから坂本(さかもと:滋賀県・大津市)へ移動するのは、たやすいことだけど・・・一度も御所に戻らないまんま、すぐに坂本へ逃げていくってのは、どうもなぁ・・・後になってから、問題になってしまうかも。

というわけで、長年は、300余騎を率いて、10日の暮れ方に京都へ帰還した。

「今日は日が悪いから」ということで、足利尊氏(あしかがたかうじ)は、まだ京都へ入っていなかったが、四国や中国地方の足利サイドの武士たち数万騎が、京都、白川一帯に充満していた。

彼らは、帆掛船(ほかけぶね)の笠標(かさじるし:注1)を見て、ここかしこで、名和軍の前に立ちふさがり、長年を討とうと迫った。

長年は、駆け散らしては通り、打ち破っては囲みを出(い)で、17回もの戦闘を行った。その結果、彼が率いる300余騎は、次第次第に討ち取られ、ついに100騎ほどになってしまった。

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(訳者注1)帆掛船マークが、名和家の家紋であった。
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しかし、長年はついに、足利サイドの重囲を抜けて、御所の大極殿南庭の石の歩道の辺まで、辿り着いた。

長年は、馬から下りて兜を脱ぎ、南庭にひざまずいた。

後醍醐天皇が東坂本めざして脱出してから、すでに数時間が経過、御所の四方の門はみな閉ざされ、宮殿の中は寂寞(せきばく)として静まり返っている。

すでに、様々な者がここに乱入してきたようである。百官威儀をただす紫宸殿(ししんでん)の賢人聖人の障子は引き破られ、歴代の功臣たちの肖像画も、ここかしこに散乱している。宮中の美人たちが朝の化粧をする弘徽殿(こきでん)の前にある、カワセミの羽のように美しい青色の御簾(ぎょれん)も、下半分ほどが引きちぎられていて、細い月のような銀製の簾懸けだけが、空しく残っている。

この無残な光景をしげしげと眺めているうちに、勇ましい武士の心中にもさすがに、哀惜(あいせき)の思いがこみあげてきたのであろう、長年の両眼からは涙があふれ、鎧の袖を濡らす。

その後もしばらく、長年は、御所の中をあちらこちらめぐっていたが、足利軍のトキの声がま近に聞こえるようになってきたので、陽明門(ようめいもん)の前で馬に乗り、北白川(きたしらかわ:京都市・左京区)を東へ抜け、今路越(いまみちごえ)ルートを経て、坂本へ向かった。

長年が去った後に、四国・中国の足利軍の武士たちが京都へ乱入してきて、天皇に従って京都を去って行った人々の家々に、放火した。

おりからの風にあおられて、火の手は、皇太子、皇族、准皇(じゅこう:注2)の宮殿、恒明親王(つねあきしんのう)の常盤井(ときわい)御殿、天皇の遊興の場である馬場殿(ばばどの)へ燃え移り、方々から煙が一斉に立ち上り、炎は四方に充満。さらに、猛火は内裏にまで延焼して、後宮の内外、諸司八省、36殿12門など、大建造物の悉(ことごと)くが、空しく灰になってしまった。

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(訳者注2)太皇太后、皇太后、皇后に准ずる位。
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越(えつ)王が呉(ご)を滅ぼして、姑蘇(こそ)城は一片の煙となり、項羽(こうう)が秦(しん)帝国を滅ぼした時、咸陽宮(かんようきゅう)は3か月間燃え続けたというが、その古代中国の呉越、秦楚の戦乱の頃の事例も、この目の前の御所焼失という一大惨事に比べれば、小さい事と思えてくる。

あぁ、まことに、嘆かわしい世の中になってしまった。

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